8 はなれたくない、ちかくにいたい⑤
「類!」
上下揃いのジャージでくつろいだ姿の類だが、ひどく愛らしい。
「うるさいなあ、もう。起きちゃったじゃん。静かにしてよ。あっちの酔い潰れどもは起きないかもだけど、ぼくは神経質で繊細なんだからね」
「噛んだって、どうしたんだ」
「ことばの通り。さくらねえさんは、この売れっ子モデルのぼくと、合意の上でホテルに泊まったのに、一般人でしかない玲のことがどうのこうのとか、ぐずぐず言い出すから。お仕置きしたの。舐めて吸ってあげた」
「お前、さくらに傷をつけたのか?」
「うん。しばらく、玲には見せられないように。さくらねえさんが玲と結ばれるなんて、ぼくは絶対にいやだからね。さくらねえさんの身体が喜ぶところは、ぼくだけの秘密」
「なんだと?」
類の挑発に、玲は乗ってしまった。
「さくら」
真顔で、玲は荒っぽくさくらの胸ぐらをつかんだ。
「見せてみろ」
「いやだ。類くんの言っていること、ほんとうだもの。私の首筋や胸もと、類くんの残した痕だらけ。そんなの、玲には絶対見せられない。玲だけには」
「だから、昨日はさっさと部屋に籠ったのか。いいから、見せてみろ。悪いようにはしない。手当は? 病院は?」
「だめったら、だめ!」
強引にさくらの身体を開こうとする玲を、類が間に入って制した。
「女の子が、こんなに必死の形相で抵抗しているんだ。これ以上の尋問は無粋だよ」
「お前は、引き下がるような性格じゃないだろ」
「はっはっは。ぼくはね。でも、玲は引き下がるような性格でしょ?」
「……勝手にしろ!」
リビングのローテーブルを、がたんと音が出るほど派手に蹴り上げた玲は、その勢いのままで外に出て行った。
「玲!」
すぐに、さくらは追いかけようとしたけれど、類がさくらの腕をつかんで止めた。
「さくらねえさんが追いかけて行ったら、火に水を注ぐようなものだって。逆上して、それこそなにをされるか分からないし、危険。玲の帰る家は、ここしかない。絶対に帰って来るから、じっと待つんだよ」
「でも、玲が」
「今は、無理。ぼくにつけられた魂の刻印を、玲の目に晒したいの? あの日のバラの花びら、きちんと持ち帰ってドライポプリにするなんて、ほんと慈悲深いさくらねえさんらしいよ。やさしいを通り越して、悪趣味。あの続き、してあげようか?」
「は、花には、罪がないから。あのまま枯らしてしまうのが、かわいそうで」
怯えながら、さくらはおとなしく首を振った。
相変わらず、類は他人の部屋に侵入する癖が直っていない。
「でしょ、ほら。さくらねえさんも、早くおやすみ。玲がいなかったら、ぼくはさくらねえさんのことを攫ってでも、奪いたいよ。玲みたいなヘタレに、この売れっ子モデルのぼくが負けるとか、あり得ないのにさ」
朝になっても、とうとう玲は帰って来なかった。
さくらは粛々と荷造りを進めた。今できることをやるしかない。
あたらしくできた家族が離れることについて、さくらは寂しく感じているけれど、涼一だって聡子だって類だって同じ気持ちなのだ。
もちろん、玲もきっと。
衣類。生活用品。参考書。粛々と、段ボールが積み上げられてゆく。
すぐに帰る予定だから、最低限ものしか入れない。
最悪、服などは現地調達でもいい。
軽井沢で、おしゃれにアウトレットでショッピングなんて、受験勉強の気分転換にいいかもしれない。
どこをほっつき歩いているのか、玲は次の日も帰って来なかった。
さくらと涼一はきりぎりまで玲の帰宅を待った。
けれど、玲は帰らない。連絡すらない。
東京駅の長野新幹線ホームでも、さくらは万が一の可能性を探した。
もしかしたら、玲が駅に先回りをしてくれているかもしれない。
「これがドラマや映画だったら、玲が全力で走って来てくれて、私の軽井沢行きを感動的に止めてくれるのに」
当然、そんな都合のよいことは起こらなかった。
無情にも、新幹線はするすると動き出し、さくらを新しい土地へ運びはじめる。
メールが入った。
期待して開いてみると、類からだった。
携帯の待ち受け画面は、北澤ルイの笑顔画像のままになっている。
変えてしまうのが、なんとなく惜しかった。
『そろそろ出発? いってらっしゃーい。帰ってきてきたら夜遊び、付き合ってね。新しい覗き場所、見つけたんだよ。うふふ』
まったくいつもの調子である。
強がりつつも、類は心配なさそうで、さくらは苦笑した。
「玲くんからかい?」
隣に座っている涼一が聞いてきた。
「ううん、類くん。いってらっしゃいって」
「そうか。類くんは趣味が変わっているけれど、分かりやすくて私は助かるよ。玲くんはなあ、一見普通そうで、屈折しているから難しいんだよなあ。いまだに、『涼一さん』呼びのままで、打ち解けてくれない。その上、さくらを恋人にしたいとか……ぶつぶつぶつぶつ」
「父さまのほうにだって、壁があるんじゃないの? 玲は、いい子だよ。夢に一途だし、なんでも自分でやろうとするし」
「そうは言っても、十八歳。もっと、頼ってくれていいんだよ。さくらもね」
「もう子どもじゃないし」
「親にとっては、子どもはいつまでも子どもなんだよ」
さくらは窓の外を眺めた。
上野を過ぎたあたりだ。
大きなビルや、家々が飛ぶように通り過ぎてゆく。
この風景を、しばらく見ることになるだろう。
おおよそ、三ヶ月の変則通学。
軽井沢の社宅は、新しくて内装もきれいだった。
社宅、というよりはほとんど寮である。
親子で入居するので、個室がふたつある広めの部屋を割り当ててもらった。
室内に、小さいキッチンとシャワー室がある。
棟内にはほかに、食堂と浴場、娯楽室やライブラリーなどもある。
家庭的な雰囲気を残しつつも、ホテルのようなつくりだ。
分厚い窓からは、軽井沢の深い森が見える。
今、目に映る緑は針葉樹ばかりで、紅葉の時季が終わってしまっていることが、とても残念だった。
荷物の段ボールが、先に到着していた。
取り出した服をクロゼットに並べ、ふだん使う化粧品などを洗面台へと運ぶ。
あとは、机の上に参考書を置けば完成。
荷ほどきはすぐに終わった。
「じゃあこれ。家の鍵」
新居の部屋の鍵を受け取るのと同時に、自宅の鍵は涼一に取り上げられてしまった。
東京へは勝手に帰るな、ということだ。
「静かだし、勉強にはうってつけすぎて、もしかしたら合格しちゃうかも」
特例として、試験の日前後だけは帰宅許可を得ている。
まずは、年明けのセンター試験。
そのあと、東京で志望していた大学の受験がいくつか続く。
京都に受験で行くのは、おそらく二月。
さくらにとっても、第一志望の大学が最後の試験になるだろう。
合格したい。胸を張って、あたらしい春を迎えたい。
玲と話せないまま、来てしまった。
電話をかける勇気がない。メールにも手が伸びない。
玲のことを考えている時間があったら、一問でも多く問題集を解かなければならない。
さくらは、携帯電話の電源を切った。




