8 はなれたくない、ちかくにいたい④
リビングでは玲と類がしきりに口論をしているが、ひさびさの家族勢揃いでとても懐かしい。
さくらは、鍋の中のお玉をくるくるとかき回しながら、団欒を実感した。
このひとときが、この週末までなんて惜しい。
卒業式を終えたら、玲はすぐに京都へ行ってしまうだろう。
年度はじまりの四月一日なんて、待てないはずだ。
涼一は類がカレーを食べている間を利用し、今夜の議題を語ってきかせた。
軽井沢赴任、さくらの京都受験。
「ふうん。いいんじゃない、別に」
意外にも、類の答えは軽い肯定だった。
「いい? いいの?」
聡子が訊き返したぐらいである。
「だって、うちの家族がなくなるわけじゃないんだし、家族だからってずっと一緒ってのは無理があるし。たまに、こうして集まれば。ぼくが様子を見に行ってあげるよ、さくらねえさんの軽井沢軟禁生活」
「軟禁じゃありません、受験勉強です」
「でも、しばらく玲の作る食事に、逆戻りか。こんなにおいしい、さくらねえさんの愛情入りカレーを食べることができなくなるなんて、ぼくにはそれが悲しいよ」
「カレー、俺もだいぶ手伝ったぞ」
「えっ、まじで」
さくらは気がついた。
類が、さくらのことを名前で呼ばなくなったことを。
『さくらねえさん』。
心が痛んだ。
宴、終えて。
酔い潰れてしまった両親を、どうにか自室に運び(玲が引きずって連行した)、さくらと玲はようやくひと息ついた、午後十一時のリビング。
類は、明日も朝が早いとかで、もう寝ていた。
最後の皿を洗い終え、さくらは玲に冷たい麦茶を差し出した。
「片づけ、手伝ってくれてありがとう。助かった」
「別に、家事はさくらひとりの仕事じゃない。それより、あいつらには食い散らかしたことを詫びてほしいな。家族が揃うとこの始末、勉強ははかどりそうにない」
やけになった涼一と聡子は缶ビールに続き、ワインを三本も開け、類もふだんは体重を気にして我慢しているくせに、今日ばかりは炭酸飲料をぐいぐい飲んでいた。
喋る、怒鳴る、喚く。
散らかす、こぼす、荒らす。
お隣さんから苦情が来てもおかしくないレベルで、盛り上がっていた。
「明日から、荷造りか」
「そうだね。この前、段ボールの山を崩したばかりなのに」
「また、すぐに京都へ行くんだ。段ボール生活はまだまだ続きそうだな」
さくらは返事ができなかった。
受かる自信がまるでない。
「ごめん玲。私、無理かも。受験に失敗したら、駆け落ちしてくれる? 京都に、押しかけても、いいよね?」
「挑戦する前から、弱音を吐いてどうする。がんばれ。俺の収入じゃ、お前を食わせることができない。家族に祝福されない形で結ばれても、つらくなるだけだ。涼一さんを、認めさせるんだ。さくらにも、叶えたい夢があるんだろう?」
「……うん」
理屈では分かっている。けれど、ついてゆけない。
不安ばかりで、希望が持てない。
もし、合格できたとしても、京都には玲のいとこだという祥子がいる。
玲の婚約者だと名乗っていた。
玲にその気はなくても、祥子にはある。
同性のさくらには、よく分かった。
「祥子さんって、どんな人なの。玲の、なに?」
「藪から棒に、なんだ。いとこだ、ただのいとこ。前にも、説明したはずだ」
「でも、祥子さんは玲のこと、たぶん好きだよ。玲が京都へ行くの、ずっとずっと待っていたような感じ」
「知らん」
「でも」
「でもも、だっても、ない。俺は昔、あいつを傷つけてしまったから、冷たくすることができないんだ。だけど、俺には祥子と結婚する気はない。婿としてではなく、実力で養子になる」
「傷つけた、って。その話を詳しく聞いても、いい?」
「……工場で、大やけどさせたんだ。俺が、十三のときだった。不注意で、熱湯入りの桶をひっくり返してしまって、祥子に湯が、かかった。祥子の身体には、今でも消えないやけどの痕がある」
「やけどの痕を、見たことがあるんだ」
「ああ。見たさ。何度も。俺の初めての相手は、祥子だから」
「年上のいとこに、やけどのことで責められて、誘われて、抵抗できなかった。月並みだけど、そういうことに興味も、あった。糸染めよりも、祥子との仲に夢中になった時期もあった。祥子に望まれるがまま、婿入りしたほうがどんなにラクかと考えたこともある」
「いや。もういい。お願い、もうやめて」
過去の玲が、女の子とのお付き合いを経験しているだろうとは、薄々考えていた。
これだけの容姿の持ち主を、周囲が放っておくはずがない。
現在進行形で特定の相手がいない現状が、奇跡のようなのに。
さくらは自分の耳を塞いでいた。
「最後まで聞けよ。お前が聞きたいって、言ったんだ」
玲はさくらの両手を耳から離し、ソファに押さえつけた。
「長い休みのたびに、京都へ通って糸染め職人になりたいのか、祥子と遊びたいだけなのか、自問自答を繰り返していた。そんな俺の気持ちを変えたのはお前だ、さくら」
「わ、たし?」
「高校二年の春、隣のクラスになったお前を知った。目立たないけど、いい表情をしているやつだな、と思って眺めていた。そのときは恋愛感情とかではなくて、好感っていうのかな、さくらを見るたびに和んでいた。京都行きは続いていたけれど、祥子とのかかわりは断った。親や世間に隠れ、こそこそしている自分が穢れているようで、いやになった」
「玲のほうは、関係を断ったけれど、祥子さんは納得していないかもしれない」
「京都での課題は、残っている。でも、さくらなら、一緒に乗り越えてくれると信じている。俺も、さくらと類とのことは一瞬の迷いだったと目をつぶる。だから」
「な、にそれ。私が類くんと京都のホテルに泊まったこと、やっぱり根に持っているんだ。しかも、そういう仲になったと、思っている?」
「前にもあっただろ、お前と類が帰って来なかった夜。あのときは未遂だったが、類は獲物を逃がさない。でも許す、と言っているんだ。だからさくらも、過去の俺を許してくれ」
交換条件だった。
しかも、誤解の上に成り立っている。
「類くんとは、していない。そりゃ、かなり際どかったし、制裁も受けたけど、類くんは分かってくれたよ?」
「欲望に忠実なあいつが、女の説得を受け入れるはずがない。ましてや、うぶなさくらのことばなんて。あいつは過去に三人、孕ませたんだからな。しかも最初は、十五のときだ」
「う、嘘! いやだ、三人も? 十五……?」
玲も玲だが、類はさらに上を進んでいる。
さくらは呆気に取られた。
「なあ、類はお前にどんなことしたんだ。想像しただけで、毎晩眠れないんだ。さくらに、どんな乱暴をしてきたんだ。制裁って、なんだ?」
「ら、乱暴なんかされていない。私が悪かっただけ。玲のことが忘れられないのに、類くんに甘えて縋ろうとしたから」
「さくらのやわらかい部分を、ちょっと甘噛みしただけだよ、玲」
いつの間にか、ふたりの背後には類が立っていた。




