8 はなれたくない、ちかくにいたい③
涼一はぐびぐびとビールとワインを交互に飲んだ。
荒っぽい飲み方に、聡子は注意したけれど、涼一はまるで耳を貸さなかった。
完全にヤケ酒だった。
途中、玲にまで酒を勧めてきたが、未成年ですからとすげなく断られた。
その、あっさりとした冷たい言い方が気に入らなかったようで、涼一はさらに怒り狂った。
「俺は、断じて許さない! 仮にも、兄と妹が恋愛ごっこなんて。さくら、どうしても京都へ行きたいのなら、父と母に誠意と覚悟を見せろ」
「ど、どうやって」
「よき案を思いついたでおじゃるでござるよ!」
な、なんだ。いきなり、何語?
にやり、涼一が笑った。
新しい企みを思いついたらしい。
「京都へ行きたいならば、京都でもっとも難関の大学を一校のみ、受験を許す。京都での滑り止めは、なし。さくらの本気度を見せろ。さくらの希望は、建築学科だったな?」
「突然、なにを言うの? 私、そんなに勉強できないし。最難関となれば、間違いなく国立大学だよ?」
「西陣からなら、自転車で行ける。今出川通を、ずっと東に進むだけ。分かりやすくてよかったな、さくら」
「よくない! 通学路の話じゃないし! これから、どれだけ勉強しなきゃいけないの? そもそも、勉強しても受かる気がしない。間に合うわけない! 父さまの、意地悪っ」
京都行きを、そこまでして止めたいか、毒父!
「ならば予定通り、東京で進学しなさい。東京を出るということは、学費のほかに生活費もかかるということだ。玲くんだって、修業中の身ならば質素な暮らしになる。負担の少ない公立大学を選ぶぐらいの配慮があってしかるべきだ。さくらのほうから提案してくれてもよかったのに」
父の挑発。玲の期待。さくらは受け入れるしかなかった。
「うぅ……が、がんばります」
「ならば、決まりだ。この部屋にいては、勉強がはかどらないだろう。なにせ、いとしの玲くんがいるんだから。いちゃいちゃらぶらぶしていては受験どころじゃない。軽井沢で頭を冷やせ、いいな。明日荷造りをして、あさっての午後に引っ越しだ」
「そんな。準備が一日だけ、なんて」
「三ヶ月だ。とりあえずのものさえあれば、間に合うだろう。家電なんかは社宅に備え付けだし、布団だって勝手にシーツ交換してくれる。ちょっと離れた、勉強部屋だと思えばいい。玲くんには学校で会えるんだよ、学校で」
「では、さくらが軽井沢生活に耐えて大学に合格すれば、涼一さんは俺たちの仲を公認してくださるのですね。俺は養子に出るつもりですから、いずれきょうだいではなくなります。問題ありませんね」
「ふふふ、そうだなあ。その件は、そのときまた考えるかなあ。今、言っているのは、さくらの京都受験のことだけだ」
「ずるい。父さま」
「なんとでも言うがいい。まずは合格してみせろ。話はそれからだ」
とんでもないことになってしまった。
父の転勤に同行するばかりか、自分の受験校が超難関大学になってしまった。
基本的に頭のよい玲ならともかく、合格できるのだろうか。
もう、不安しかない。
室内に沈黙が訪れたとき、インターホンが鳴った。
『ぼくだよ。開けて―』
インターホンの画面に映し出されているのは、類だった。
さくらは立ち上がり、マンションエントランスのオートロックを解除した。
「家の鍵も開けてくる」
その足で、廊下を進む。
エレベーターに乗って辿り着くだろうから、急ぐことはないけれど、あのリビングの重苦しい雰囲気に耐えられなかった。
解錠したドアを開いたところ、ちょうど類がエレベーターを降りてくるところだった。
柴崎家はエレベーターに近い部屋なので、類もすぐにさくらに気がついた。
「さくらねえさん、お出迎え? ありがと。鍵、バッグの中から出すの面倒でさ」
いたずらっぽくほほ笑む類の両手は、荷物で塞がっている。
「う、うん。おかえりなさい」
そうだった。
類とは気まずい別れをしていたのだ。
思い立って飛び出たけれど、さくらはいたたまれなくなった。
類はさくらの動揺を気にも留めず、『はい、これ』と荷物を押しつけて靴を脱ぎはじめる。
けれど、いやに動きがぎこちないので、注意してよく見ると、類の指先にはテーピングが何重にも巻かれていた。
白いバラをむしったときに、作ってしまった傷を守っているのだろう。
「……玲と、仲よくなれた?」
「うん。いろいろと、ありがとう類くん」
「あのね。ぼくが聞いているのは、あいつと最後まで『やったのか』って話」
「し、していない。なにも、していません」
「ほんとに? せっかく、昨日は留守にしてあげたのに、意味ないじゃん!」
「やだ、類くん。父さまたちも、さっき帰宅したんだよ」
「ふたりが? 今日だっけ」
「ううん、急な用事ができて、一日早まった」
「あ、そうか。ぼくにつけられた胸の傷を、玲に見せるわけにいかないもんねー、さくらねえさん。傷、どうしたのかなー♪」
類の声と息が耳朶に触れた。
さくらはあわてて飛び跳ねようとしたけれど、両手は荷物で塞がったままだし、場所は長細い廊下だったので、たちまち類につかまってしまった。
身体を壁に押し当てられ、逃がしてくれない。
リビングに続く戸は閉められているけれど、相変わらず類は大胆で困ったことを仕掛けてくる。
「玲のものになっていないなら、ぼくにもまだ望みがあるってことだね」
「な、ないない。ないから」
「そんなこと言っても、さくらねえさんの身体は初めてなのに、けっこういい感じだったよ、あの夜。職人って、はじめのうちは収入なんてほとんどないから、きっと苦労する。ぼくなら、貯金もそこそこあるから、贅沢できるよ。今からでも乗り替えたら?」
「そのときは、私が働いて支える覚悟」
玲には、さんざん力になってもらった。今度は、自分が支えたい。
「あっそう。つまらないから、ぼくも家を出ようかなあ。実家住まいじゃ、部屋に女の子を呼べないし」
「モデルだって、学問は必要。そういうことは、勉強してからでも遅くないよ。今からでも、高校へ行ってみたら?」
「はー。もちろん、高校認定試験は受けるよ。ぼく、頭はいいんだ。勉強はできるし、学問は好き。忙しくて、時間がないから高校には行かなかっただけで。それにしても、急に姉ぶって説教か。この間まで、きょうだいに挟まれてふらふらしていたのは、どこのどいつだよ」
「そ、それは」
類は、さくらのタートルネックセーターの首もとを思いっ切り、下に引っ張った。
さくらの白い首筋には、類のキスマークがまだはっきりと、いくつも色濃く残っている。
その痕跡を、類はにやにやと満足そうに眺めた。
家族に悟られないよう、首もとをわざと隠していたのに、類はお見通しだった。
「ぼくのキスひとつで、超感じてたくせにね。なのに、兄とはいまだにキスもしていない、清い関係か」
「なんで、知っているの?」
「あ、図星か。玲も、さっさとやっちゃえばいいのに。押しに弱いというか、男に免疫ないんでしょ? だからいつまでたっても、きっぱり諦められないというか第一、すべてにおいてパーフェクトなぼくが、ヘタレな玲に負けるとかありえない。年下だから、だめなのかな。ぼくのほうが、経験値高いよ。勇者レベル」
さくらを責め続けようとしていた類だったが、誰かの足音が近づいてきたので、素早くさくらの身から離れた。
ドアの向こうから顔を出したのは玲だった。
さくらが遅いので、心配して様子を見に来たようだ。
「ただいまー、玲」
あっけらかんと、類は玲に挨拶をした。
「さくらに、なにかしなかっただろうな」
「するわけないじゃん。荷物、持たせただけ。ぼく今、ちょっと理由があって、指を全部ケガしているんだ。なにかしたくても、できないよ。はあ、いいにおいだな。今日の夜はカレーか、ぼくにも出して、おなか空いたし。あ、オトーサン、母さん、おかえりなさい。ぼくも、ビールを飲んでいい?」
「だめだ。いくら働いていても、十七だろ」
「ちぇっ。玲のけち。たっぷりと働いてきたのに」
さくらは玲が類を牽制してくれているのを見守りつつ、中腰姿勢のままでそそくさとキッチンに移動した。
カレーの鍋を温め直す。
冷蔵庫に入っていたサラダも用意する。




