7 いま、ここに宣言します!②
類にお金を借りればよかった、そんな思いがちらっと頭をよぎる。
類について帰ればこんな苦労はなかったのに、とも。
いやいや、この試練も乗り越えてこそ、なのだ。
財布の残金とにらめっこしながら、近場のコーヒーショップで簡単な朝食を済ませ、首もとに残された濃厚なキスマークなどを隠すためにスカーフを買い、さくらは再びバスに乗ろうと挑戦する。
乗り場を確認し、さくらは歩く。
今ごろ、学校では『さくらも休み』だと、純花が騒いでいることだろう。
休むとメールは送っておいたが、理由までは書かなかった。
昨日、学校まで類が迎えに来たことといいい、玲も休み続けていることといい、またまた面倒な話題の中心になっていなければ、いいのだけれど。
「白い服の素敵なお嬢さん、どこ行かはるん?」
いかにも頼りなさそうなさくらの動きを見ていたのか、バスの職員さんが声をかけれてくれた。
さくらの周りを歩いている人で、白い服はいない。
『素敵な』ということばが、『服』にかかっているのか、『お嬢さん』にかかっているのか、微妙なところだが。
「千本今出川、というバス停です。西陣まで行きたいんです」
「そやったら、次は洛バスの101が来るで。急行やし、早いで。乗り場はB2な」
「はい。ありがとうございます」
言われたほうを見ればちょうど、お目当てのバスが到着したところだった。
走らなくてもいいのに、心が脚に『走れ』と強く命令している。
慣れないサンダルが脱げそうになるけれど、がまんがまん。
早く、玲に逢いたい。
昨夜は暗くて気がつかなかったけれど、西陣は京都の北西に位置している。
さくらを乗せたバスは、目的地へと近づいてゆく。
玲に逢ったら、まずはなにを言おう。
無断で、京都へ行ったことを非難しようか、それとも今の勢いで好きですと告白してしまおうか。
告白。
玲に、告白?
考えただけでも、恥ずかしい。
類は自然な感じで、告白してくれたのに。
自分にもできるだろうか。いや、やるしかない。
そうこうしているうちに、降りるバス停へ着いた。
タクシーを降りたのも、このあたりだった。
時間こそ違うけれど、確かに見た風景がある。
工場までたぶん、自力で辿り着ける。
大きな通りから少し遠ざかるだけで、機織りの音が聞こえてきた。
西陣は織物の町なのだ。
『高幡糸染工場』。
看板の出ている町家のチャイムを鳴らそうとしたが、指先が震えていた。
ひとつ、深呼吸する。
玲がいなかったらどうしよう。
一緒に帰りたくないと言われたら、どうしよう。
どうしようが頭を駆け巡り、インターホンをなかなか押せないでいる。
「……さくら?」
戸が開いたと思ったら、そこには作業着の玲が立っていた。
客間に通されたさくらは、お茶を出してもらっている。
京町家特有の細長い家の奥は、昨夜類と覗いた工場に続いていた。
「こんなところまで、よくひとりで来られたね。場所、誰に聞いたんだ。母さんか?」
「……類くんに」
「あいつか」
会話が続かない。
お互い、言いたくないことを隠し持っていた。
類についてホテルへ行ってしまったことは、絶対に秘密にしておきたい。
昨晩のできごとは、さくらの黒歴史。
「俺が、ここでなにをしているのか、類から聞いた? 今日には帰るつもりだったけど、さくらはなにをしに来たんだ?」
「ごめん、将来の夢のじゃまをして。でも、どうしても玲に逢いたくて」
玲は困惑した表情を浮かべている。
やはり、来てはいけなかったのだろうか。
押しかけ女房のようで、息が詰まる。
渋面の玲を見ていると、告白なんてできそうにない。
「うれしいけど? まさか、来てくれるなんて思わなかったし」
ぽつり、玲がつぶやいた。
俯いて畳をばかりを凝視している。
「ほんと? ほんとにうれしい?」
「ああ。不意をつかれただけ、余計にうれしい。そろそろお前の顔とか声とか、懐かしくなっていたから」
「玲……」
「それに、今日はずいぶんかわいい服を着ているんだな。見違えた。お人形みたいだ。よく似合っている」
「あ、ありがとう」
照れるけれど、なんだかすごくいい感じ、に思えたのは一瞬だった。
ほのぼのムードを打ち破る、強敵が割り込んできた。
「あーっ、玲が勝手に、女の子を連れ込んどる! やーらしー!」
部屋に上がって来たのは、玲と親密そうに語らっていた、年上の麗しい女子。
昨夜は気が動転していて、誰なのかも詳しく問えなかった。
類が説明してくれようとしたのを、自分でさえぎった気がする。
もうひとりは中年の、おそらく高幡糸染工場の主。
「いや。こいつ、話しただろ、妹だよ。義妹! 俺が何も言わないで急にいなくなったから、わざわざ東京から捜しに来てくれたんだ」
「あー。あんさん、覗き見ちゃんか。昨夜も、来はったね。類と」
「のぞきみちゃん……」
とんでもなく不名誉な称号を得てしまった。
しかも、昨日のうちに知れていたとは。
血の気が引くという表現を、さくらは実感した。
「類と来た? 昨日、ここに?」
「へえ。工場で、玲は背中を向けとったさかい、気ぃつかんかったかもしれへんけど、昨日の夜、うちは確かに見たで。類と、一緒やった。でも、すぐに帰ってしもたな」
「今日、朝一番で京都入りしたと思ったが、昨日のうちに来ていたのか? しかも、類と」
「あ……その」
玲はさくらの両肩をおさえ、詰問した。
非常に、まずい。
このままでは、黒歴史を紐解くことになってしまう。
「まあまあ、玲。まずは自己紹介せんとな。わしは、高幡春宵。柴崎兄弟の父親の、兄や。隣の、やかましゅうてかなわんのが、ひとり娘の祥子。よろしゅうな」
中年の男性が、割って入った。とても礼儀正しい。さくらはあわてて深くお辞儀をした。
「柴崎さくらです。このたび、親の再婚で玲くんと兄妹になりました。玲くんとは、以前から学校のクラスメイトで、兄になると言われたときは正直、驚いたんですが」
「へえ、玲がクラスメイトで兄。まるで、漫画かドラマみたいやね。うちは、祥子。玲の婚約者。よろしゅうな、さくらはん」
「おい、祥子」
「ええねんで。玲はいずれ、工場の養子になるんやろ」
「高幡の家の養子にはなるけど、婿入りはしない」
「あーあ。全然、かいらしゅうあらへんなあ。幼うおすころは、うちの言いなりやったのに」
「祥子、そんぐらいにしておきなはれ。妹はんが困ってはるやろ」
玲はさくらに向き合い直した。
「……類と工場へ来たのか、さくら?」
笑ってごまかせない。
さくらは観念した。
「昨日のうちにね、京都入りしたんだ。学校が終わってそのまま。でも、工場の玲には、話しかけづらい雰囲気で……」
「うちが、玲のほっぺにちゅーしたさかい」
「祥子。あのときの、わざとか」
「そうえ。覗き魔撃退のためや。あんときは、まさか妹はんやなんて思わんかったさかい。ま、遊びや遊び。そないに、かっかするもんやないえ。玲、カルシウムが足りひんのとちゃうやろか」
「……おじさん。今回は、そろそろ帰らせていただきます。妹と、いろいろと内輪の話がありますので。また、すぐに来ます」
「待っとるで。高校生活最後まで、しっかり勉学に励みなはれ」
「はい」
玲の荷物はすでにまとめてあった。
二階で、普段着に着替えて出てくると、玲はさくらに聞いた。
「工場。少し、見学するか」
「いいの? 見てみたい」
糸染めの作業を行っていない時間帯の土間は、冷えていた。
「着物を作る工法には、ふたつの種類がある。先に布に色をつけてしまうか、さまざまな色の糸を用意して織り上げるか。西陣織では、先に糸を染めて織ってゆく。たくさんの種類の色糸を使う。色には、染料の組み合わせや量によって、気が遠くなるほどの種類がある」
聞いているだけでも、大変そうな仕事である。
「ここでは化学染料よりも、天然の染料を優先して使っているから、理想の色に染め上げるまでに、季節や天気によっても、微妙な匙加減が異なる。職人の勘だけが頼り。これは、俺が昨日染めた糸。こっちは今朝だ。同じ工程を踏んでいるのに、これだけ差が出る」
「うん。分かるよ。ぜんぜん、違う」
差し出された糸は、別の色と呼んでいいだろう。
明るい赤と、やや暗い赤。
「こいつを、発注者の思い描く通りに仕上げるんだ。これだという、確かな正解はない。おもしろいだろ」
糸を手に、語らっている玲は屈託なく、やさしい顔をしていた。
「俺は高校を卒業したら、おじさんの家に弟子入りする。糸染めは、ここでしか学べないから」
「家を出るの?」
「うん。決めていたこと」
聞いていない。聞かされていない。
さくらは激しい衝動にかられた。
「いや。玲と離れるなんて、絶対にいや。ここ数日だって、なにも手につかなかったのに。私を置いて、京都へ行っちゃうなんて。耐えられない。類くんから守ってくれるっていうことばは、嘘?」
「守るよ。だけど、お前ももっとガードを固くしてくれ。心配で心配で、頭がおかしくなりそうだ」
「東京と京都、離れていてどうやって守ってくれるの、玲? 私、類くんのことが怖い。でも、かわいそうだから拒めない」
「……俺は、けっこうショックだったんだ。類に、建築士になりたいって話、したんだろ」
「偶然、お互いの将来の、夢の話になって」




