6 想い⑤
すでに、時刻は九時を過ぎていた。
東京へ帰るならば、駅に向かわなくてはならない。
けれど、脚が重くてくたくただった。
早く休みたい。
帰る、泊まる、を心で繰り返しながら、さくらの残り時間は、じわじわと確実に減ってゆく。
類は泊まるつもりだと言っていた。
ならば、赤いコートを返したほうがいいだろう。
東京に帰るだけならば、なにも新幹線でなくてもいい。
わりと家の近くまで運んでくれる、夜行バスだってあったはず。
とりあえず、もう一度、類に相談してみよう。
冷めきったコーヒーをカウンターに戻し、さくらは立ち上がった。
さきほど、類に教えられた階段を、さくらは上る。
地上に出ると、一気にひんやりとした夜気に包まれた。
ほんとうに、類は別れたときと同じ場所で待っていてくれた。
紙袋を、いくつも手にして。
けれど、類の周りにはきゃあきゃあと女の子が群がっていた。
こんなに暗いのに、類の正体が知れてしまうなんて、驚いた。
どこへ行っても、類はカリスマなのだ。
「今夜はプライベートだから」
苦笑ぐらいでは動じない女の子たちを前に、類は内心、怒りまくっているに違いなかった。
さくらは、強引に女の子を掻き分けて類の前に出た。
「お待たせ、類くん。寒かったでしょ」
さくらの姿と声を認めた瞬間、類の頬が緩んだ。
「さくら、待っていたよ。必ず来ると信じていたんだ」
「ごめんね、待たせちゃって」
「うん、嬉しい。これ、さくらのために、用意したお花。どうぞ」
渡されたのは、白いバラの花束。
淡い上品な色の花弁が夜に浮かんだ。
「わあ、ありがとう。きれい。いい香り」
花など、もらったのは初めてのことで、さくらは舞い上がってしまった。
小さなカードがついている。
花ことば、らしい。
『私はあなたにふさわしい』。
やっぱり、類はすごい。
きちんと女の子のツボを心得ている。
類に会ったら、借りたコートや預かったカードを返し、別れようと思っていたのに、決心がぐらついてしまった。
「うん。さくらは、やっぱり白がとっても似合うな。初めての夜を祝って、ね」
類はさくらに抱きついた。
周囲から、悲鳴が上がる。
「わ、私は、類の姉です、ただの姉! これからも、類の応援をよろしくお願いし……」
「早く。いい部屋、取ったよ。特別な夜にしようね」
さくらの手を握り、走る類。
思わず、さくらも走ってしまったけれど、違うのだ。
今、きちんと言わなくては。
「あのね、類くん。私、類くんに借りたコートを返しに来たの。カードも。で、東京まで高速バスに乗……」
「ようやくその気になったんだね、さくら。ぼく、絶対にさくらを大切にするよ。ずっと、ぎゅーっとしてあげる。泣かせない。玲のこと、忘れさせてあげるから」
さくらのことばを遮るように、類はたたみかけた。
最後のひとことが、特にさくらの心を抉った。
『れいのこと、わすれさせてあげる』
類のことばは、まるで禁断の呪文のように、さくらの身体を浸食していった。
「ほんとに、玲を……忘れ、させてくれる、の」
「うん。おいで。怖くなんか、ないよ。ぼくが言った通り、きちんとお泊りの支度、してきたんだね。えらいよ」
そしてまた、天使のほほ笑み。
ずっと類といれば、玲のことをもう、考えなくても済むのだろうか。
そのことばと笑顔は、甘美な魔法。
……新幹線の終電には、もう間に合わない。
さくらは類とホテルのエレベーターに乗っていた。下界が、どんどん遠ざかってゆく。
案内された部屋は、都大路を臨めるスイートルームだった。
「すごい。夜景、きれい」
花束をテーブルの上にそっと置き、さくらは大きな窓に張りついていた。
右手に、京都タワーが届きそうな位置に建ち、その背後には真っ直ぐな道が東西南北に整然と交差している。
細微なおもちゃのようで、しかしきらきらと輝いてる。
「さくらは田舎者だね。まずは脱ぎなよ、コート」
「あ、こういうところ……慣れていなくて」
嗤われてしまった。
さくらは俯いたまま、類にコートをするりと脱がされた。
「ありがとう。とてもあたたかった。それと、カードも。助かりました」
「ちゃんと使った?」
「うん。着替えに夜食。全部、使わせていただきました」
「なら、いいけど」
カードを受け取ると、類はセーターを脱いてシャツ一枚の姿になった。
細いのに、引き締まった身体のシルエットがさくらの目を刺激する。
耐え切れなくて思わず、視線を逸らしてしまう。
部屋をよく見渡してみると、ふたつ置いてある大きなベッドは意味ありげにぴったりとくっついている。
これで、実は泊まる部屋は別々です、なんていうオチはないだろう。
「これ、さくらの明日の服」
この一時間で、類はさくらの服や靴を買ってきていたらしい。
ベッドの上に広げられた。
「女の子に着てほしいのは、やっぱりスカート。ワンピースかな。制服もいいけどね」
天使の流し目に、息が詰まった。
コートを返したら、ひとりで帰るはずだったのに、なにも言えなくなってしまった。
意思が、なんて弱いのだろう。さくらは自分を恥じた。
けれど、類の用意してくれた白いワンピースはとてもかわいい。
こんなかわいい服を着て、類の隣を歩いてみたら、少しは自分に自信がつくかもしれない。
「似合うかな」
「さくらのことだけを一生懸命考えて選んであげたんだから、間違いないよ。明日、これを着て一緒に東京へ帰ろう」
もしかしたら。
すべてを類に任せておけば、安全安心なのかもしれない。
今まであがいていたことが嘘のように落ち着いた。
類は自分よりも年下なのに、甘えてしまっていいのだろうかという罪悪感も生まれて来るほどに、類はやさしくて広い。
「ありがとう、類くん」
「ぼくは、大切なさくらのために、当然のことをしたまで。さくら、今夜はぼくのものになってね」
類の手がさくらの腰をぎゅっと包んだ。
「類くんがいてくれて私、ほんとうに……よかった」
さくらが目を閉じたのとほぼ同時に、類のキスが降ってきた。辿る唇の痕がどんどん熱を孕んでゆく。
動きを止めずに、類はさくらの制服のリボンを奪った。
「さくら。ぼくのさくら。もう逃がさない。ぼくのものになりたいって言って」
「……全部、類くんにお任せする。類くんのものにして」
「うん、任せて」
いやな気持ちはなかった。むしろ、自然に思えた。
「あの。先に、シャワーを浴びたかったんだけど、だめ? 私、一日中外にいたし、臭わないかな?」
「さくらのにおい、好きだって前に言わなかったっけ。シャワーなんかしたら、流れちゃうじゃん。むしろ、このままがいいんだ。あとできれいに洗ってあげるから、心配しないで。ぼくが十八歳になったら、結婚しようね。あと、半年のガマン」
「らいねん、けっこん……?」
「さくらを、誰にも渡したくない」
少しいびつな性癖をかかえているけれど、類のやさしい声がさくらの耳にとても心地よく響く。
これで、よかったのだ。
来年、結婚するなんて考えてもみなかった展開だけれど、類は極上の美男子で、とてもやさしい。任せていられる。
玲とは違う。
京都で生きる道を見つけている、玲とは、違う。
類となら、東京で一緒に暮らしてゆける。
そう、玲とは違う。
つれない玲と、類は別人だ。
きょうだいでも、まったく違う。
「どうしたの、さくら。どこか、痛い? つらいの?」
さくらは、泣いていた。
玲のことを思い出しただけで、泣けていた。
止まらない。
類を受け入れると決めたのに、玲のことを考えただけで胸が千切れそうだ。
「決めたはずなのに。類くん、と一緒にいるって決めたのに、心がきしむの。玲のそばにいたいって、心が泣いている」
「玲は、糸のことしか考えていないよ。さくらのことなんて、深く思っていない。そうやってまた、泣かされるって。あいつのことなんて考える余裕がないほど、さくらをぼくでいっぱいにしてあげる」
類の手は止まらない。
荒い息の下、さくらを求めることしかないようだ。
玲の名前を出した途端に、類は牙を出した。




