6 想い③
すると、手にしていたチョコレートがなくなった。
不意に目を覚ました類が、横からかすめ取ったのだ。
「あまいにおいさせちゃって。次は、口移しでちょうだい」
「類くん、なんの冗談」
「冗談なわけないでしょ。甘いものは、あまいしぐさで食べるから、おいしいんだよ。ほら、早く。今なら誰も見ていないよ」
キラキラの目を輝かせながら、間近で訴える。
愛らしくて思わず承諾しそうになる。この顔を曇らせたくないから。
「だ、だめだよ。誰も見ていないってことは理由になりません。この前も、不本意な写真がネットに流れたばかりだよ。自重しなきゃ」
「さくらのけち。いいじゃん、ふたりっきりのときぐらい、甘えさせてくれたって。これだから、モテない女の相手はしんどいな、まったく。自意識過剰もいいかげんにして」
類の本音が出た。
さくらを、からかいたいだけだなのだ。
「類くん。ことばが悪いよ、姉に向かって」
「じゃあやって、口移し。できないだけでしょ、この意気地なしが。さくらができないなら、ぼくがしてあげるよ」
自意識過剰扱いの次は、意気地なし呼ばわり。
とことん、さくらを怒らせたいらしい。
「私は口移ししてほしいなんて、一度もお願いしていない。類くん、ふざけないで……って」
さくらが最後まで言い終わらないうちに、類はさくらの唇にチョコレートを運んでいた。
ただし、指先で。
「はい。おいしいね、チョコレート。これならいいでしょ、ぼくにも食べさせて。あれ、なんでそんなに真っ赤になっているわけ。もしかして、期待しちゃった? 飛んできたのがぼくの指で、残念がっているのかな」
「残念がってはいません。分かった。食べさせてあげる。だから、黙っていて」
「はいはい」
おそるおそる、さくらは類と同じように、指でつまんだチョコレートを類の唇に運んだ。
さくらを騙したりからかったりする、かわいげのない口である。
「よし。いただき!」
さくらの手首を強くつかんだ類は、チョコレートを食べ終わると、遠慮なくさくらの指先を舐めはじめた。
驚いたさくらはあわてて手を引っ込めようとしたけれど、類の力には勝てず、されるがままになってしまった。
類のやわらかくて長い舌が、さくらの爪を這うように舐める。
猫みたいだ。
「類くん、お願いだから放して」
もう一度、腕を引いてみたけれど、強い強い力で押さえつけられていて、びくとも動かない。
身体は細いのに、これだけの力がどこに秘められているのだろう。
「口移しができないなら、これぐらいは耐えてもたわないと。ぼくに逆らったら、玲のいる場所まで案内しないよ。さくらの指、かわいいね。すごくかわいい」
類は、玲の消息という切り札を持っている。
おっとりのさくらが、ひとりで玲を見つけられるはずがない。
類は、ずるい。
こんな状況に陥ってしまうのならば、はじめからおとなしく、一瞬で済む口移しに応じていたほうがよかったのかもしれないけれど、もう今さらである。
諦めたさくらは、類の思うようにさせておくことにした。
京都到着のアナウンスが流れるまで、類はさくらの指を舐め続けた。
京都には、午後七時ごろ到着。
風が冷たくて寒い。
新幹線のデッキからホームに降りたさくらは、思わず身震い。
「貸してあげる」
類は着ていたコートをさくらの肩にかけた。
「でも、それじゃ類くんが」
「ぼくは新幹線の中で、じゅうぶんさくらにあたためてもらった。それに、すぐ車に乗るし」
また、天使のほほ笑みである。
階段を下り、『八条口』という改札を通過。
類の歩みに迷いはない。
雑誌の撮影などで来ることがあるのかもしれないが、まるで自分の庭のようにするりと進む。
いかにも観光客が幅を利かせて歩いているけれど、平日の夜だからか、帰宅途中のサラリーマンも多い。さくらのような制服姿はあまり見かけない。
「おなか、空いていない? 先に、ごはんを食べる?」
気遣いを見せるほど、類は落ち着いていた。
「だいじょうぶ。玲のところに、連れて行って」
「あいつに、そんなに会いたいんだ。はー、やれやれだね」
玲に会って、早く連れ戻したい。
せっかくの京都をとんぼ返りなんてもったいないけれど、明日はまた学校。
日本一多忙なモデルの類だって、仕事だろう。
類はタクシーに乗るよう、さくらを促した。
「西陣まで行ってください。五辻の昆布あたり」
運転手にそう指示すると、類は黙り込んだ。
質問は禁止だと言われてきたものの、聞きたい心をおさえられない。
「西陣ってところに、玲はいるの?」
もちろん、返事をしてくれなかった。
さくらは類の肩をつかんで揺らす。
「お願い、類くん。三人で、今日中に家に帰れそう?」
「玲次第じゃないかな。玲が帰りたいなら、帰れるし、そうでないならどうなるか」
「そんな」
「どうしても一緒にいたいなら、説得すればいいじゃん。さくらが」
「私が?」
「そう。きみにかかっている。ぼくは、連れてきただけ。西陣には、柴崎家の親戚が住んでいるんだ。幼いころ、何度も連れて行ってもらってさ」
目的地に車が着くまでの間、類は昔の話を教えてくれた。
「小さいころから、玲は親戚の家のとりこになっちゃって。なにかあるたびに、通っていたな。小学生がひとりで新幹線に乗って、京都通い。最近は落ち着いていたんだけど、久々だね。西陣は、織物の町なんだけど、親戚の家では、糸染めをしているんだ」
「着物に使う糸?」
「そう。工場兼自宅。白い絹糸に、色がついて上がってくる様子はすごくきれい。ま、工場は年中暑くて、ぼくには無理だけど。玲は糸染め職人になるって、かたくな。ほんとうは、中学を出たらすぐに西陣で修業したがっていたのを、母さんと親戚のおじさんが、せめて高校は出なさいと、止めて。食事は出すけど、住むところは自分で用意しろって……あ、それで玲のやつ、掛け持ちでアルバイトを」
「そうか、だからあんなに働いて」
高校を卒業したら弟子入りを許されても、東京から引っ越していかなければらない。
家を借りるにも、生活用品を揃えるにも、とにかくお金が要るはずだ。
玲の性格上、全部を母の聡子に出してもらうというのは選択肢にないだろう。
京都の大路を北上したタクシーは、十五分ほどで西陣へ到着した。
観光地でいうと、北野天満宮……通称天神さんが近い。
大きな通りはまだまだ車の交通量も多くて賑やかだけれど、道を一本入るとひっそりとした家々が軒を連ねている。
このあたりは、昔ながらの町家が残っているらしい。
「昼間は機織りの音とか、聞こえてくるんだけどね。京都の中心部は開発されまくっているから、西陣のほうが古い京都っぽくて、風情あるよ」
こっち、と言いながら類はさくらの手をつないだ。
新幹線に乗っていたときよりも、指先がずいぶん冷たくなっている。
「類くん、コートを」
「いいよ。だいじょうぶ。もうすぐだから」
少し進むと、類は足を止めた。
「ここ。裏が工場になっているんだ。たぶん、玲はそっちにいるはず」
「ピンポンしなくていいの?」
「うん」
類は細い私道に入る。
不法侵入ではないかと怖気づきながら、さくらが続く。
奥には、明かりがついていた。
工場、と呼ばれている土間から、じわじわと熱気が流れてきた。
さくらと類はガラス戸越しに中の様子をそっと窺ってみる。
濃い灰色の、地味な作業服に身を包んでいる若い男性がひとり、白い糸をくくっている。
ぼんやりとした暖色系電球の明かりしかない上に、帽子を被っていたからはじめは顔が分からなかったけれど、ふと、頭を上げてくれた。
玲だった。
さくらたちにはまだ気がついていない。
「玲、いたね」
さくらは類に同意を求めた。
「やっぱりここだった」
聞けば、玲と直接の電話やメールをしたわけではないらしい。
それでも通じてしまうのは、血がつながっているゆえの仕業か。
玲はずっと糸と格闘している。
伸ばしたり、まとめたり、くるくると手で巻いたり。
「あれ、なにをしているんだろう」
「弟子入りするっていっても、製品用の糸をすぐに染められるわけじゃないからね。ああやって、糸の扱いを学んでいるだろうね。気が遠くなりそうなほど、地味な作業だよ。さ、それより早く帰ろうって怒鳴り込んできて。今夜中に帰れなくなるよ」
「う、うん」




