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狙われたドレス⑩

「静かだわ」


 ガラス越しの景色はすっかり見なれてしまい、ここに来たばかりのときのような感動はすでにない。


「初めてここから外を見たときは、夢の国かもしれないって思ったのに。……本当に私ってばかね」


 マニシャは、なにも知らない能天気なころの自分に乾いた笑いをこぼした。


 もし、あのときに戻れるのなら。最近は、そればかりを考えてしまう。


 けがをして意識を失っているジュエルスを看病していたとき、ころりとジュエルスの左の薬指から外れて床に落ちた指輪。痩せて指輪が合わなくなって落ちてしまったのだ。だから、彼の意識が戻ったら返そうと思って、それを自分のポケットに入れた。


 それから数日してジュエルスは意識を取りもどしたが、そのころには指輪のことなんてすっかり忘れてしまっていて、気がつけば一か月近くたっていた。そのあいだにジュエルスは順調に回復していったが、失った記憶を取りもどすことはなく、薬指にはめていた指輪のことも覚えていなかった。


 だから捨てた。


「……なぜ、あんなことをしたのかしら?」


 あのときは指輪にどういう意味があるのか知らなかった。指輪なんて平民の自分には縁のないものだし、貴族の世界のことなんてなにも知らなかったから。


 ただ、彼が自分のことを思いだすきっかけになることが怖かった。でも、もしあの指輪が結婚の証だと知っていたら……。いやそんなこと知らなくたって、捨ててはいけなかった。


 後悔ばかりだ。


 あのときすぐに指輪をジュエルスに返していれば。いや、あのときでなくてもいい。ジュエルスがマニシャを受けいれてくれるより前に指輪を返していれば、サフィリナを追いだしてマニシャが不相応な立場を手に入れることはなかったはずだ。


 もっと冷静になって、しっかりと物事を考えることができていたら。立場を弁え、感情を抑えることができていたら、人の夫を奪う愚かな人間にならずにすんだかもしれないのに。


「……」


 力なく溜息をついて、踵を返してソファーに向かいポスンと腰を下ろす。そして再び溜息。


 ここのところジュエルスは、セージと共に頻繁に視察に行っていて、数日間帰らないことなんてざらだ。長く領地から離れていたため、忘れていることや知らないことが多いというのが理由らしい。


「……自分とは住む世界が違う人だって、わかっていたんだけどな……」


 ジュエルスの言葉遣いや所作から、彼が平民ではないということはすぐにわかったけど、それには気がつかないふりをした。こんな山奥の小さな村までジュエルスを捜しに来る人なんていないと思っていたから。知らないふりをすればずっと一緒にいられると思っていたから。


 二人で生活をしていたあの時間は本当に幸せだった。記憶を失くしたジュエルスの心は不安定で、いつもマニシャがそばにいなくてはいけなかったけど、それさえも、ジュエルスに必要とされているようでうれしかった。


 でも、どこかにいつも不安な気持ちはあった。彼が記憶を取りもどしたらどうなるのだろうか? ここを出ていくかもしれない。そうしたらまた一人ぼっちだ。


 そんなことを考えると、知らずと涙が出て、そのたびに理由もわからないくせにジュエルスは慰めてくれた。そうやって二人は互いに依存していったのだ。


 でも二人の心が通い、妊娠をし、幸せいっぱいのころ、見知らぬ男が話しかけてきた、と彼から聞いたときからいやな予感がしていた。自分のことを知っている口ぶりだったと聞いたときから、眠れない夜が続いた。


 しばらくして、再び身なりのいい男の人がやってきて、ジュエルスに「君の家族が帰りを待っている」と告げたとき、絶望で目の前が真っ暗になった。だけど、マニシャが一緒ではないと絶対に行かない、とジュエルスが言ってくれた。あのときは本当にうれしくて。


 そのとき、絶対に彼から離れないと覚悟を決めたのだ。


 でも、その覚悟を一瞬で揺るがすほど、サフィリナは美しく、気品に溢れていた。あの人に敵うわけがないと、泣きたくなったほど。


 馬車を降りたジュエルスを見たときのサフィリナの顔は、今でもはっきりと覚えている。続いて馬車を降りたマニシャを見て愕然とした顔も。


 マニシャもまた、そんな様子を見て彼女の心を知ったのだ。彼女はジュエルスの安否を知ることもできず、不安と戦いながら彼の帰りを待っていたのだと。そしてふいに襲う、彼を奪ってしまったという罪悪感。


 それなのに、彼を失いたくないという思いが消えることはなく。


 ジュエルスが記憶を取りもどしたら自分はどうなるのだろう。記憶を取りもどさなくても、美しいサフィリナにジュエルスが心を奪われてしまうかもしれない。


 自分が奪った立場だというのにそんなことを心配していた。


 それに、セージやケイトリン、屋敷の使用人たちの困惑と失望、嫌悪の視線が怖かった。


 しかし、ジュエルスはそんな不安を払拭するように、マニシャと共に生きる、とはっきり口にしてくれたのだ。


 うれしかった。本当にうれしかった。だから、自分の幸せがサフィリナの絶望の上に成りたつものだ、ということを理解することができなかった。


「無神経……。誰に言われたんだっけ……?」


 覚悟をしていたはずなのに、貴族の世界はマニシャが想像するよりずっと厳しく、いかに半端な覚悟をしていたかを思いしらされた。


 ジュエルスは伯爵位を襲爵しているため、マニシャは伯爵夫人となったのだが、その伯爵夫人より下位の夫人や令嬢からの視線も冷ややか。


「伯爵夫人なんて名前ばっかり……」


 パーティーならジュエルスが一緒だからまだいいが、マニシャだけが参加するお茶会ともなれば悲惨だ。


 参加者全員から無視をされたり、噂話のネタにされたり、サフィリナと比べられたり。


 あからさまにマニシャを嫌悪し、近づこうとしない人ならまだいいが、そうではない人たちの攻撃は狡猾で執拗。親切だと思っていた人も、仲良くなれたと思っていた人も、実際には上辺だけで、裏ではマニシャの悪口を言い、悪意のある噂話を吹聴していた。トレイシーの一件に限らず、誰もかれもがマニシャを嫌い、平民上がりの略奪女なんて言われ、もう心が折れそうだ。


 相談できる友達はいないし、忙しいジュエルスにこんなことを言って煩わせたくない。セージやケイトリンにこれ以上失望されたくなくて、弱音を吐くこともできない。


「社交をしなくていいと言われれば、喜んで屋敷に閉じこもるのに」


 いっそのこと離縁でもしてしまったほうがよほど楽になれるかもしれない。


「……なにをいまさらそんなことを」


 そんな道を選ぶなら、最初から欲張るべきではなかったのに、マニシャは図々しくもこの場所に居すわってしまったのだから、あと戻りなんてできるはずがない。


「……エルのことが大好きだったのに、今ではこの気持ちさえ頼りない……」


 あんなに離れたくないと思っていたのに、まさか離縁という言葉がよぎる日が来るなんて思いもしなかった。


「大好きなのに……本当に大好きなのよ。でも、もう耐えられる気がしない……。苦しい……つらい……。どうしてこんなことになってしまったの? 私はただ、好きな人と幸せになりたかっただけなのよ。こんな苦しい人生なんて、望んでなんかいないのよ……」


 両手で顔を覆い、爆発しそうな感情を抑えて、それでも吐きだした悲痛な声は悲鳴のように部屋に響いた。涙がこぼれて手の平を濡らし、頬を濡らしても、一人きりの部屋では涙を拭ってくれる人もいない。


 まるでこの世界に自分一人しかいないような孤独がここにはあって、それはジュエルスが隣にいても同じだった。自分が腹を痛めて産んだウェストンを抱いていても、その孤独が消えてなくなることはなく、それどころかますますその色を濃くしていく。


(きっとこれから先、私に幸せが訪れることはないわね……)


 それならいっそのこと、体ごと深い闇の中に落ちこんで、そのまま消えてなくなってしまえればいいのに。


 そう願っても、神さまはそれを許してはくれなくて。


(ずっと私は苦しみつづけないといけないのね。きっとこれは私に与えられた罰なんだわ……)


 マニシャはうなだれたまま、長い時間出口のない心の闇をさまよっていた。



読んでくださりありがとうございます。

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