29、本当にもってこの人は!
ソファの前のラグに座った私の背後には鮎川氏、そして私の両隣には鮎川氏の足。
いたたまれない。
ソファに座った鮎川氏の足の間に座ってに髪の毛を乾かしていただくという、この状況。
ドライヤーを使っているから話しても聞こえづらくて、すぐにお互い無言になってしまった。
前傾姿勢でドライヤーを使うのなんてまさに地獄の苦行レベルなので、本っ当にありがたいんだけれども、そんなに丁寧に乾かさなくてもいいですよ。
がーっとやっちゃってください。
ちなみにお風呂の前には「髪洗いましょうか」とか「背中を流しましょうか」とか言われた。
確かにお風呂も本音を言うと入るのが憂鬱になるくらい痛いんだけど、そんな冗談を言うのはちょっと意外だった。
「僕が紗希さんと一緒にいたかったんですよ。紗希さんもお忙しいからこうでもしないと一緒にいられないでしょう?」
実に気まずい一時を過ごした後、本当に申し訳ないなと思って詫びたらそう言って笑った。
一緒にいたいと思ってくれたのか。
ていうか私、忙しい人間だっけ?
「鮎川さん見てたらもったいない気がしてきたんですよね、色々と」
だって、鮎川氏の私生活が充実し過ぎて眩しいんだよ。
今まで漠然と「行ってみたい・やってみたい」と思ってはいた。普段なら友達と盛り上がったところで「やってみたいねー」で終わっていたのにこの夏、いろんな体験が出来たのはこの人のおかげだ。
似たような趣向の、一緒に遊んでくれるアグレッシブな友達と再会出来たのは、本当についてた。
連れがいるなら、とすぐに予定を立てて、アラサーには多少ハードスケジュールに思えても、もっと恐ろしいスケジュールをこなす年長者がいるんだから「意外と出来るんじゃないのか」なんて無謀な予定を立てた。
感謝の意を込めて鮎川氏を見上げる。ちなみにこうして見上げるだけで痛みで「い゛う゛」とか呻いてるんだから、自分の間抜けっぷりが身に染みる。
そんな醜態を晒す中、そこで見たのはあの目。
私の時計とか、私があげた手ぬぐいを見ていた、「愛情感じちゃう人ですか」と思ったのと同じ、穏やかで優しいまなざし。
かっと胸の奥が熱くなって、取り繕うように口を開いた。
「まぁ、とりあえずやりたい事はほぼやり尽しましたので、しばらくはおとなしくしときます」
意外そうに目を見張られた。
「友達も復縁しましたしね」
ま、肋骨もこんな状態だし。
怪我を散々気にしてくれた友達は、『怪我をするような事してたのか』と慌てた年下彼氏に復縁を迫られたそうで。
年下彼氏さんよ、怪我をしたのは貴男の「元カノ」ではなく連れの私であって。
友よ、お前は会社でネタにしやがったな、とは思うものの復縁に一役買えたなら私も骨を折った甲斐があるってもんだ。
骨折り損にならなくてよかった。
モトサヤでなんだか以前以上に盛り上がってるみたいだし。
痛みをこらえながらソファに座ろうとすると、背中に腕を回されて両脇から持ちあげるようにそっと引き起こしてくれた。
脇に手を入れられるのはかなり恥ずかしかったし、子供みたいな扱いだったけど、助かった。
「紗希さんはこのペースで行かれるものを思ってました」
少しだけ驚いたように、意外そうに言われた。
ああ。
もう本当に。
この人はこういう所がいいなぁ。
フリーダムな相手をそのまま受け入れる気でいたのか。
そりゃまあ本人もたいがいフリーダムなんだけど、自分は自由にやるけど相手にそれを許さない男もいるし。
「言ってませんでしたっけ? 既婚の友達にそのうち自分の時間なんて取れなくなるんだから時間もお金も自由になるうちに遊んどけと言われまして、それはそうだな、と。ちょうど友達もフリーになった所で、やりたい事がけっこう似通ってまして。その結果が骨折なんですけど」
一瞬、じっと見られた気がした。
何か責められているような気がする。
あ、「友達もフリー」って言ったからか。お前は違うだろって事か。
気付かないふりをして慌てて次を話した。
「海外も考えたんですけど今のご時世、計画して予約してても世界情勢でキャンセルするか悩む展開にもなりかねないので」
海外は断念した。
「引きこもりに戻りますけど、ほっといてもらって大丈夫ですよ。でも時々でいいんで甘やかしてください。素直じゃないから嫌がる素振りを見せると思うんですけど、それでもめげずに、可愛くないと思いながらでいいんで相手してください。めんどくさい事言って申し訳ないんですけど」
どうだ。
本当にめんどくさい人間だろうっ、そう開き直って笑った。
当然、鮎川氏は驚いたような顔をしてから、笑う。
甘くて、とろけんばかりの、優しいおだやかな顔で笑って口付けて━━━だからお姫様抱っこは精神的にも年齢的にもキツイんですってば!
そのまま膝の上に横抱きに座らされるのを、降りようと咄嗟に肩を押せば、耳元で囁かれた。
「そんなに抵抗したら痛いでしょう?」
あの、声で。
初めて会った日、「さき」と紡いだその声。
私の事じゃないだろうと思ったから、私と同じ名前の人を少し羨ましく思った。
こんないい声で、そんな風に呼んでもらえるなんて、と。
そう思った声で、耳元で話されるんだからたまったもんじゃない。
えぇ、えぇ、肋もかなり痛いですよ。
これまで私と鮎川氏の距離はどことなく一線が引かれて、一定の距離が保たれていた。
それが一気に詰まったのを自覚せざるをえない。
「自分で座ります」
「ダメです。これから甘やかします」
うわぁ、そんな宣言ってある!?
完全に自分の首を絞めた。
「いや、こういうのは突然とか、さりげなくして欲しいもんでっ」
そんな宣言して「これから」感を出すのはやめて下さいっ。
訴えたのに。
「拒否されてもそれで挫けちゃダメなんですよね?」
言った!
確かにそれっぽい事、言った!
そう来るか!
からめられる長い指はごつごつとしていて男の人のそれで。
ああもう、いつまででも堪能していたいですとも。
女子って大抵「手フェチ」なトコあるじゃないですか、みたいな。
「嫌がる素振りを見せても続行していいなんて、どれだけ煽ってくるんですか」
ため息まじりにそんな事を耳元で言われたら、こっちは悶絶級に羞恥心を煽られるのですが!
「あまり恋愛感情を抱かれていないような気がして手を出しかねていたのですが……」
珍しく何か言葉を選んでいる。
私は観念した。
いや、別に避けてたわけでもないけどさ。
お互い個人で楽しめる人種だったんで、つい延び延びになっちゃっただけで。
「一人暮らしをしている好きでもない男の家に上がりこむような女だと思われていたのが心外です」
一瞬目を見張り、嬉しそうに笑う。
ああ、もう。
その顔はちょっと、たまんないな。
それにしても……失敗した。
いつもパジャマ代わりにしているのはTシャツとショートパンツで、それはいかがなものかとカップ付きのタンクトップタイプのマキシワンピを着ているのだけれども。
首回りや腕や肩が出過ぎだった。
お風呂上がりで暑かったから羽織らずにいたのが失敗だった。
囲い込まれるように抱かれ、二の腕に直接触れる大きな手と、首元に息がかかりそうな距離が落ち着かない。
ぶっちゃけ緊張するし、酔っぱらってもないのに全体重をかけて身を委ねるなどと当然出来ないわけで、鮎川氏の負担にならないようにといろんな所に力が入ってしまい、そうなると肋骨が地味に痛い。
痛み止めを飲んでいるとはいえ、痛い。
「すみません、完治するまでは待ちますがこれだけ」
そう言って重ねられた唇は優しく触れただけで、少しだけ物足りなく感じてしまったけれど宣言通り鮎川氏は紳士だった。
ああ、うん、そう言えばストイックって『禁欲的』って意味だったはず。
一向に体の緊張が解けない私に切なげに「痛そうですね」と言って、名残惜しそうに横抱き状態からは開放してもらえたけれど、完全に開放はしてもらえず長い足の間に座らせられ、もう一度抱きしめるよう腕が回された。
不格好だけど猫背な状態が一番ラクな姿勢で、私には一切負荷がかからないように包み込んでくれる配慮がありがたいやら申し訳ないやら。
振り返ってキスを返したいけれど、体をねじると痛い。
あーあ、だわ。
仕方ないので前に回された手を取って人差し指の付け根にキスする。
途端に耳元で一瞬息を飲むような気配と、それに続いて大きなため息が伝わった。
「完治したら覚えていてくださいね」
なんか怖いことを言われた気がする。
そうは言いつつも、もしくはそう言ったからこそかその後の鮎川氏はやっぱり案の定、実に紳士だった。
うん、まぁちょっと動くだけで「いだッ」とか「う゛ぅ」とか呻いている女相手だしね。
そんな気にならないだろうし、そんな気になられても困りはするんだけど。
そんな気になられようものなら今後、この付き合いを継続させるか真剣に考えさせていただく事にはなるんだけど。
でもですよ。
確かに私は薄っぺらい体ですけども、そんなに見事なスルースキルで、ベッドの隣で賢者か菩薩かという態度でいられたら、それはそれでちょっと釈然としないものがないわけではないんですよ。
でもまあ、それを言った所で応じられる訳でもなく、肋骨を折ってる私が全面的に悪いので、隣の気配は気になって寝られそうにないんだけど、ハイ、頑張っておとなしく寝る事にします。




