26、<誤算を犯した日の話> 話が違うとは言えないけれど。
今回は鮎川氏視点とさせていただきます。
上等です、悪い笑顔でそう言った彼女。
ぽってりとした唇は、今日は薄く開いている事が多くて妙に艶めかしく見えて。
そんな彼女に恐ろしく前向きな返事をもらった直後となれば、それを確かめたくて、証が欲しくてそこに唇を寄せた。
ぱっと顔を背けて、口元を右腕でガードされ、左腕で胸を押されて全力で拒否された。
「多分、明日あたりから口唇ヘルペス出ちゃうんで」
拒否された時は動揺のあまり固まってしまったけれど、理由を聞いて頑張り屋さんな彼女が愛おしく思えた。
「仕事と夏の疲れですかね」
「それもあるんですけど、田舎に行ってる間、甥っ子3人も一緒だったんですよ」
ああ、それは━━過酷そうだ。
田舎に行くついでに甥っ子も連れて行ったそうで。
食っちゃ寝生活をすると意気込んでいたのに、何とも人のいい。
「今日美味しいもの食べさせていただいたんで大丈夫ですよ。ウナギってビタミン豊富だったはず」
「旦那は元気で留守がいいって言いません?」
後日、彼女はにっこりと笑った。
「昔何かで読んだんですよね。自分の時間を大事に出来る男は、相手の時間も大事に出来るって」
「好きな人には、好きなように好きな事をしててほしいし」
そんな言葉に浮かれた自分が恥ずかしい。
そんな理解のある事を言う彼女は当然、自分も好きなように過ごす人だった。
盆の連休はご両親の住む田舎で過ごし、最終日に交際を申し込む事に成功した。
それなのにイエスかノーかという単純な話にならず、協議の結果「軽い気持ちで試してみよう」的な結論に落ち着いてしまったような気がしてならない。
「フェアじゃないので」
あの日、そう笑って言って彼女は自分の生態を教えてくれた。
「私、引きこもりですよ? 家ではネット三昧で、ミニカーとか、漫画とか、オタクでマニアックですよ? 高速の運転は苦手だからドライバーにはなれないし、自転車の応援にも行かないだろうし。そんな可愛げの無い女でいいんですか?」
この国の経済活動において、マニアの存在は大きいと思っている。
ミニカーや書籍代なんて自転車用品に比べれば可愛いものだ。
バイクの大会はスタートとゴールが別で、ゴールは山頂という山の中が多い。
応援には向かない競技なので問題はないし、自分の趣味に相手を無理に巻きこむ気は無い。
だから。
そんな意外な事を言われた時は「だったら会う時間も取りやすいか」と正直、期待したのだけれど━━
彼女は恐ろしくアグレッシブだった。
どうやら盆の同窓会で再会した女友達と意気投合したらしい。
すでに8月の週末はほぼ埋まっていた。
夏の終わりはその人物と「市内の温泉の女性専用、豪華宿泊プラン行ってきます」とテンションマックスで。
それから「なんか県境のあたりでSUP出来るらしいんで」と最近はやっているとテレビでも取り上げられていたStand Up Paddleboardにチャレンジした。
サーフボードの上に立ってパドルで漕ぐ、というあれだ。
「ちょっとハマりそうです」と悪い笑みを浮かべていた。
かと思えば「シルバーウィークは混むし、宿も高くなるんで」と9月の第2週に萩・津和野へ1泊2日の旅行に出掛けた。
どうやら連れの女性は高速道路の運転も苦ではないタイプらしい。
こっちは9月の隣県のヒルクライムの大会と、翌週にはチーム戦の5時間耐久マラソンの予定で、さすがに2週連続はちょっとばかりハードなスケジュールだった。
休日は基本的に別行動、時々食事を共にするだけの関係になってしまった。
やっと彼女が1日空いた週末は、以前からショップのメンバーとのサイクリングの予定があった。
「どうぞどうぞ、お気遣いなく」
にっこりと笑った顔には「一人を堪能します。ひゃっほうです」と書いてあるように見えた。
これまで外出続きだった分、引きこもってやりたい事があるに違いない。
「今回はどのあたりまで行くんですか?」
いつもそう何かと興味を示してくれはするけど。
関心は持つけど干渉はしないスタイルなのはありがたいけど。
彼女が出掛ける時はいつも行先を教えてくれるが、それは大抵「あそこ行った事あります? 混みますかね。早くに行った方がいい感じですか?」「車、置けますかね?」と情報収集のためだったりする。
とりあえず県内の主なレジャースポットは自転車で大抵行っているので答えられるし、そうなればそれは嬉しそうな顔を見られるのだけれど。
つらい。
さみしい。
これまでかつての恋人に言われた言葉。
あの頃は今一つ理解出来ず、結局の所は聞き流していたのだと今になって思う。
こうも言われた。
何を考えているのかわからない。
付き合ってる意味がない。
本当に、彼女達の気持ちがここに来てようやく分かった気がする。
まったくこの年になって情けないこと甚だしい。
彼女は初めから言っていた。
控える必要はないと。
まるで好都合だと言うように。
当然、この状況を不満に思っている素振りは皆無で、それについて何か言う資格もまたこちらには当然皆無で。
だから、自分の時間を楽しんだ後、彼女との時間を持つことにした。
「岬の方まで行ってきます。昼過ぎには戻りますから、夕食はご一緒しましょう」
「お疲れでしょうし、いいですよ」
気遣いか、あしらわれたのか分からない。
「ずっと激流下りに行きたかったんですけど、隣の県でちょっと遠くて行けなかったんですよね。最近もう少し近くで沢下りが出来るようになったらしくて。とりあえず近場から行ってみる事にしたんです」
ラフティングはボートに乗って漕ぎ倒す系、キャニオリングはヘルメットとライフジャケット等だけであとは身一つで激しく沢遊び。
どちらにしろ彼女のイメージとはかけ離れていた。
9月後半の飛び石連休の初日は高速で2時間の所へ日帰りで行ってくると言う。
それならばその日はトレーニングに使って、後半の休みこそは1日一緒に過ごそうと空けていた。
戻った彼女は電話の向こうで少し言い淀み━━
それから照れたように可愛らしく、しかし実に明るく言い放った。
「どうも肋骨やっちゃったみたいでして。しばらくおとなしくしてます」
━━は?
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<今日も涼太氏は呆れる>
鮎川さんと目が合うと、一瞬何か言いかけてやめた。
そしていつものように軽く挨拶をしてくれる。
この人のそんな態度は珍しい。
というか今までになく、完全にらしくなかった。
「あいつ盆の同窓会で久々に会った奴と盛り上がってました。体育会系同士だからひどい事になってるんでしょ」
『あれもしたい。これもしたい』
あの酔っ払い二人は思いつく限りの道楽を口にしていた。
二人とも定職を持ち、今の職場を長く務めあげている。
軍資金に不安のない、気ままな独り身。
基本的に体育会系で実行力がある性質となれば、相手がいれば行動に移すのは恐ろしく簡単な事だろう。
若ちゃんから最近の無法者ぶりを聞いて唖然とした。
「お前は鮎川さんに張りあってるのか」と言わんばかりのスケジュールで遊びまわっている。
何やってんだあいつ。
片方は別れたばかりで、本人も「遊び倒してやる」と言っていたから完全に憂さ晴らしなんだろうけど。
女同士の付き合いを蔑ろにしないという点では評価すると言いたいところだけど。
鈴原、ちょっとやり過ぎじゃないか。
お前は付き合い始めたばかりだろうが。
「あいつ引きこもりだって言ってたのに」
思わずそう言えば、若ちゃんは小さく笑った。
「本当の引きこもりなら飲み会の幹事なんてしないし、バーベキューとかフットサルの応援とか、行かないと思うんですよね」
━━そりゃそうだわ。




