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お春  作者: 生川 恵愛
第伍章
25/27

第弐拾肆話:油小路事件

 一くんが戻ってから数日。わたしの部屋にはめずらしくなった客人が現れた。


「……めずらしいですね、忙しいのでしょう?」

「まあ、暇ちゃうけど……今回だけは伝えとかなあかんはずやから」


 案じてくれる人の心遣いですらわずらわしく感じるほど、荒らんでしまった心を隠せないまま。当たってしまう形で返答したわたしをそのままに、山崎さんはみたこともないほどの真剣な眼差しを向けた。

 ゆるりと山崎さんへ視線を向けると、それを待っていたかのように彼は口を開く。

 土方さんの提案を近藤先生が快諾する形で決定したこと。それは、伊東さんの暗殺だ。

 耳を疑い目を見開いたわたしに告げられたのは、伊東さんの暗殺ののち、御陵衛士を潰すと暗に告げたということだった。


「近藤先生が……そう仰ったと?」

「……藤堂組長だけでも助けたる。そう考えとる組長もおる。おれも、沖田組長の代わりに助けたいと思っとる」


 ひとつうなずいたのち。力強い声がひびいた。

 突然握られた手のひらはふるえていた。

 ふと彼を見上げると、決意に満ちた、それでいてほんのりとうるんだ瞳がみえる。

 頼みます。ただひとこと告げるだけで精一杯だったわたしの手のひらを、いま一度強く握られた。

 山崎さんから聴いたのみで、ほかの誰からも話されることのない伊東さんの暗殺の件。

 それでもなぜかわたしは、確実に実行されるだろうと考えていた。

 そんな日はこないでほしい。そうねがいつつも、刻は残酷に進んでいく。

 なにも知らない隊士と、なにかを隠している隊士。ふたつの空気が混在している屯所内は、ずいぶんと居心地が悪い。

 そろそろか。覚悟を決めたわたしに、またもや山崎さんから伝えられたのは、近いうちに決行されるというものだった。

 決行される日は、一くんが戻って十日も経たないうち。その日はすぐにやってきた。

 土方さん、近藤先生はもちろん。左之さんや山崎さんまでも同席するという、伊東さんとの対談の場。しかもその場所は近藤先生の妾宅だという。

 同席できるはずもなく、結局山崎さんがいなければなにも伝えられなかったことに苛立つほど幼くはない。

 ただ、慕っていたはずの相手すら、組から離れれば簡単に殺めるという選択肢がでてしまう近藤先生の変わりようが恐ろしかった。

 平助の身を案じるがゆえ。近ごろはめっきりでることのなくなっていた布団を抜けだす。

 部屋の前に広がる廊下はやけに寒々しく感じ、思わずみぶるいした。

 がたつく障子戸はあまり開かない。だが、久々に肌をなでた外の風は心地よい。

 平助がいたならば、怒られてしまうだろうか。今宵はやけに平助のことを思いだしてしまうのは、いやな予感のせいかもしれない。

 いまごろ近藤先生たちは、伊東さんを招いて酒でも呑んでいるのだろうか。

 暗殺を実行する面々は凍えてはいないだろうか。

 ふと、あの薬を手にするべきだと心がさわぎ、平助からもらった簪と並んだそれを手にとる。

 引っ張りだした油紙の感触が冷えた指先にはすこし痛い。

 握りしめると、かさりと音を鳴らす。その音は漠然とした予感を後押しするようで、思わず胸をつかんだ。


「──悪化するぞ」

「一くん……」


 夜更けも近いだろうと気を抜いていたためか、それとももう勘が鈍ってしまったのか。

 突然背後からかけられた声にあわてて振り向くと、そこにはいまだ袴姿の一くんが腕を組んでいた。

 やはり今宵はずいぶんと冷える。羽織を着たうえに指先を暖めるように腕を組んだ彼の姿は、めったに見られるものではない。

 無言でとなりに座した彼を横目に、わたしは雲のある空をみあげていた。

 吐いた息は白く、空に溶けていく。消えゆく寸前のわずかなそれを眺めながら、なにかいいたげな一くんの雰囲気を感じていた。


「今回の伊東暗殺、総司はどう思う」

「なんですか? 藪から棒に」


 なにを伝えようというのか。真剣な眼差しに、弱った心のうちを射抜かれた気がした。

 くわしいことはなにも聴かされてはいないのだ。なにを答えることもできない。

 小さく首をふり応えたわたしに、一くんは一度迷ったように口をつぐんだ。

 すぐに開かれた唇からつむがれた言葉に、わたしの手のひらはこぶしを握る。

 そしてそののちの言葉に、一瞬にしてわたしの思考はとまってしまった。

 頭は真っ白になっているというのに、行かなくてはと心が叫ぶ。

 よろりと立ちあがるとどこにこんな力が残っていたのかと思うほどすばやく走りだした。

 背後で一くんの声が聴こえた気もするが、それがわたしの脚をとめる理由にはならない。


「っは……くそ!」

「沖田組長!?」


 足がもつれて倒れこむ。いつの間にこれほど息が荒れていたのかとおどろきながら、自らの脚をひとつたたき叱咤する。

 それでも立ちあがることすらできなかったわたしは、握りしめていた手のひらを開いたとき。前方から声がひびいた。

 その声の主はいつも冷静だったはずなのに、なぜかいまはめずらしく焦っているようで。

 なぜかこぼれた笑みをそのままに、油紙に包まれた丸薬をひと息に飲みこんだ。


「こないなところでなにしとんねん! 大人しく屯所で待っとけて……」

「なぜですか!」


 丸薬を飲みこんだ瞬間腹の底から沸きあがるなにか。

 走り寄りながら怒号にも似た声を発する彼の言葉をさえぎり叫んだ声は、昔のように張りのあるものだった。

 おどろいた声の主──山崎さんは、わたしの手の中を一瞥するとすべてを察したように目を伏せた。

 平助を助けたいとねがい、それを実行しようとするのは永倉さんや左之さんしかいない。そのほかの実行する隊士たちはそれを知らないというのだ。

 山崎さんも陰ながら尽力するというが、たった三人で助けられるというものか。

 下唇を噛みしめると、口内に血の味がひろがった。

 山崎さんはわたしをとめることは諦めたらしい。目の前で背を向けてしゃがんだ彼の背中を訝しげにみつめていた。


「……おぶったる。せやから、必ず助けるんやで。大事な人を助けられへんことほど、悔しいことはないはずやから」

「山崎さん……感謝します」


 少しずつ効いているのか。徐々に昔のように力の入るようになってきた身体を動かし、山崎さんの背に乗る。

 わたしが痩せてしまったためだろう。彼の背中はとてつもなく大きく感じた。

 山崎さんに連れてきてもらった場所は、七条油小路の一角だった。危険だと少し離れた場所に降ろされる。

 もう子の刻になろうか。辻はまだ静まり返っているが、幾人もの殺気が充満している。きっと新撰組の面々なのだろう。

 横たえられた伊東さんの遺体は、あまり好いていなかったわたしですら痛ましいほどに傷つけられている。これをみた御陵衛士の心中を思うと、裏切ってでていった者たちとはいえ、思わずきつくまぶたを閉じた。

 最後から近寄ってくる複数の足音が聴こえ、山崎さんとともに物陰に身を潜める。

 複数の人影はかごを持ち、伊東さんの亡骸へ駆け寄った。


「伊東先生!」

「兄上……!」


 弾かれるような声は、鈴木さんをはじめとした御陵衛士として新撰組を抜けた人たちのものだった。

 平助もいるのだろうか。思わず立ち上がりそうになったわたしの肩を力強い手のひらがとめた。

 いまはまだ行くべきではない。山崎さんの瞳はそう語っている。渋々物陰に戻ったわたしに、山崎さんは耳打ちをする。


「計画やと、このあと新撰組が一斉に飛びだして斬り合いになるはずや。せやから、その混乱に乗じておれらも飛びだす。沖田組長は藤堂組長を助けることだけを考えるんや、ええな」


 さすがの山崎さんも緊張しているのだろうか。いつもより固い声色に、わたしはひとつうなずくことしかできなかった。

 山崎さんのいう通り。すぐさま新撰組らしき人影が物陰から飛びだし、昔の仲間たちにためらいもなく刀を向けた。

 後頭部からはためく鉢巻の結び目が、暗闇の中味方と見分けるために用意した新撰組の証だろう。

 それをみつけられたのは、左之さん愛用の槍のおかげだった。

 山崎さんへ目線を向けると、行けといわんばかりにうなずかれる。久々に腰に携えた刀の鞘を握りしめ、おなじようにうなずき応える。

 わたしが立ち上がるのとほぼ同時。山崎さんは低い姿勢のまま走り去った。

 戦場へ向かい刀を避けながら必死に目を凝らす。

 平助はどこだ──。なにか目印は──。

 思わずもれた舌打ちは、きっとすぐにみつけられない自分自身へのいらだちだ。


「おは……じゃない、総司!?」

「平助! よかった……」


 なつかしさすら憶える斬り合いの音がひびく中、近くから聴こえたなつかしい声。

 ふり向くとそこには探し求めていた、護るべき人がいる。

 すぐさま駆け寄り、相手の新撰組の刀を受けとめた。

 おどろきの表情を隠せない隊士に心中で謝罪し、刀を押し返す。


「彼はわたしが」

「は、はい!」


 病のため床に伏せていたのではなかったのか。瞳はそう問いていた。わたしも瞳と声色で返答する。大事ない、案ずるな。と。

 ちらちらとほかの隊士からの視線を感じ、その方向を一瞥する。何人かびくりと肩をふるわせ、ようやく目の前の相手を本気でみつめはじめる。

 平助を相手にしようとした隊士が走り去ったのを見届けたのち。無言で平助の手を引き、戦闘の輪から外れる。


「おい、なんだよ……! ていうかおまえ、身体は──」

「逃げて、後生だから」


 若干のいらだちを含んだ訝しげな声。振り向き際に握った手を引き寄せ、抱きしめる。

 いまのわたしには周りのことなど目に入らない。そもそも、周りも自らの戦闘に夢中でこちらなどみていないだろう。

 このまま死ぬことなどない。わたしもこうして病を克服したのだから、ともに生きていこう。

 残酷なうそ。克服するどころか悪化しているのだが、いまのわたしをみればそれをうそだとは思わないはずだ。

 平助はわたしを見上げて笑顔をみせた。


「一、士道ニ背キ間敷

 一、局ヲ脱スルヲ不許

 一、勝手ニ金策致不可

 一、勝手ニ訴訟取扱不可」

「なにを……」

「おれは組を一度抜けたろ。だから、これで裁かれるべきだ」


 困ったように笑う彼に、いいたいことが伝わってしまった。

 わたしはまた、護るべき人を護れないのか──。

 絶望感とともにあふれた涙。平助はそれをそっと指でぬぐうと、一度鞘に収めていた刀をすらりと抜いた。

 間合いをとり構えたその瞳は、わたしにも構えろと訴えている。

 だめだ……彼に切っ先を向けられるはずがない。

 いやだとただ首を振るだけのわたしに向け、平助は鼻先すれすれに刀を振り下ろした。


「甘えるな! これは戦なんだ! おれはおまえの敵で、こうして刀を向けてんのに……死ぬ気なのか!?」

「いやだ……平助に刀なんて向けられるはず……!」

「知ってんだよ。おまえの労咳がひどくなってきてるってこと。」


 うそは簡単に見抜かれてしまった。

 なんで、とつぶやくこともできずに固まったわたしに、平助はやはりといった様子で肩を竦める。

 右手に刀を下げたまま。平助はゆらりとこちらへ足を進めた。

 なでられたほほは、わたしの涙か、彼の汗か。かすかに濡れている感覚がした。

 彼の体温が愛しくて、思わず伸ばした右手を重ねる。目をつむると、真っ暗な世界に彼の手の感触だけが月明かりのように降り注ぐ。

 そのとき。互いに油断していたことを後悔した。

 わたしからみえたのは、平助の身体を突き破った刀身。

 口の端からこぼれた血は、久々にみた他人のもの。これほど鮮やかなものだったのだろうか。

 倒れゆく彼の身体を支えることすらできず立ち尽くし、彼のうしろからみえたのは、新撰組としての仲間だった。


「ご無事ですか、沖田組長!」


 平助を殺めた彼の声はどこか遠くに聴こえる。脚が笑い、崩れ落ちるようにひざをついた。

 じわりと血に広がる紅色の液体が袴を重くする。

 四つん這いで近寄り、ふるえる身体をむりやりに動かして、うつ伏せに倒れていた彼を仰向けにした。


「へい……すけ──」

「お、はる──ごめん、な……」


 常からは想像できないほどの弱々しい声。刻々と彼に迫りくる死の香りは、わたしのものとはちがっていた。

 荒い息でこちらをみつめる瞳は徐々に虚ろになる。必死に傷口を抑える手のひらからは、彼の生命がこぼれているようだった。

 おもむろに、ゆるりと平助の腕が持ち上がる。

 己の血に濡れたその手のひらは、わたしのほほをなでた。

 もう、声をだすことすらできないのだろう。

 ごめん。そうくちびるが動くと、切なげなほほえみを残して、平助は力尽きた。


「へい……す、け──?」


 からからに乾いたのど。張りついた言葉をむりやりに引きずりだすと、それは蚊の鳴くようなものにしかならなかった。

 眠っているかのような、どこかおだやかな表情。まだこんなにも暖かいというのに、血はとまらない。

 ──彼はもう動かない。永遠に。

 頭で理解した瞬間。自分の中でなにかが弾けるような、なにかが引きちぎれるような。そんな感覚におそわれた。


「あ……ぁあ──あぁあああぁあっ!」


 流れ波打つ血潮が、叫べといった。

 獣のように叫ぶしかないわたしに気づいたのは、どこかで手を回していると思われた山崎さんだったらしい。

 我を忘れただ平助を抱きしめて名を呼び叫ぶわたしには、誰だったかなどとはわからないけれど。

 彼しか目に入らないわたしの意識を途切れさせたのは、薬が切れたからか、それとも他者からのものだったのか。それともあまりの衝撃からか。

 いつの間にやら気を失っていたらしい。目を覚ましたとき広がっていたのは、常に眺めている天井だった。

 明らかに悪化しているとわかるほど、動きの鈍い身体。なぜだ。そう考えた瞬間よみがえるのは、彼の死に際。

 やけに冷静だった頭が熱を帯び、じくりと焼けるように胸が痛む。


「平助──なぜ、わたしを置いて逝ったの。いやだ、いやだぁ……」


 耐えられずにこぼれた言葉。それに伴ってか、これまでに流したことのないほどの涙が一度にあふれだす。

 叫ぶ力すらないわたしには、ただただ嗚咽にも似た声をだすほかなかった。

 閉めきられた障子に、人影が映る。背を向けていたわたしに気がつくはずもなく、その人物に嗚咽は聴こえていただろう。


「──沖田組長」


 遠慮がちにかけられた声に混じり、にゃあとひと声聴こえる。

 我に返ったわたしに涙を拭く隙すら与えず、声の主は薄く障子を開けた。

 相変わらずの藍色の着流し。格好からみるに、久しぶりの非番なのだろう。

 慌ててほほを拭うわたしに気づかないふりをして。山崎さんは気を紛らわすように笑顔をつくった。


「こいつ、拾うてきたんです。おれにそっくりやろ?」

「黒猫……それも子猫ですか。愛らしいですね」


 ただそれを自分にそっくりだという山崎さんには同意しかねるが。

 言葉にはしなかったその思いを、山崎さんはしっかりと受け取ったようだ。苦笑いを浮かべほほを掻く彼は、わたしに気を使っていることが手に取るようにわかった。

 申し訳ないと思うが、それでも笑顔を作ることなどできはしない。

 それからのわたしは、会話といえば山崎さんとのみ。

 一番隊の伍長もいつの間にやら変わってしまったらしく、報告へくることもない。

 ほかの組長たちも忙しなくしているというのに、その理由すら知らない。足でまといだとわかってはいるものの、新撰組から離れることのできないわたしは、弱い人間なのだろうか。

 山崎さんは、訪ねてくる度にあの子猫を連れてきた。それどころか、隊務のときですら連れているようだ。

 “くろ”という安直な名をつけられた子猫は、隊士たちにも可愛がられているらしい。

 山崎さんの穏やかさとは反対に、屯所内は徐々に忙しなくなっているように思えた。

 そんな中、師走に入ってすぐ。王政復古の大号令が発せられた。

 ひと月ほど前。新撰組はかつての仲間を嵌め、わたしは大切な人を亡くしたばかり。

 それでも刻はとまってくれるはずもない。

 わかってはいても、京都守護職ならびに京都所司代廃止というあまりに大きな変化には、ついていけそうにもなかった。

 これに伴い、新撰組は新遊撃隊に編入することに。大きな戦が近いと予期した近藤先生に促され、わたしは近藤先生の妾宅へと移る。

 それは事実上の新撰組離脱なのだろう。

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