リンが帰ってきた日
おまけの番外編になります。
3章と4章の間、リンが下宿先のローラの家から帰ってきた日のお話です。
気持ちよく晴れたとある日の朝、ローランド王国の王都には車輪を鳴らして走る荷馬車の姿があった。荷台に1人、御者台に並んで2人、若い男達が乗っている。
沢山の荷物を積んだ馬車は商店街を歩く人波を縫い、綺麗に舗装された石畳の道を進んでいた。
「――隊長」
馭者台の若い男が不意に隣で手綱を握る赤毛の青年に話し掛けた。隊長と呼ばれた青年は進路を見据えたまま「ん?」と短く応える。その切れ上がった強い目のせいか、彼の無表情はどこか威圧的だ。それでも彼の下について長く、隊長の為人をよく承知している若い男は、ごく気安い調子で問いかけた。
「なんで妹さん、ローラの家に預けてたんですか?」
「……俺が忙しかったから」
「もう大丈夫なんですか?」
「うん、大丈夫」
「…へぇ…」
若い男は腑に落ちない顔で話を終えた。
彼はローランド王城で働く新人の兵士である。そして隣の男は彼の所属する部隊を取り仕切る上級兵士、アーロン・アルフォード隊長だ。
今日は隊長の妹さんが下宿していた家からもとの家に戻ってくるということで、休暇の彼ともう1人が引越しの力仕事に駆り出されている。
下宿先から運び出した荷物とともに、今、隊長の家へと向かっているところだった。
隊長の妹は15歳だそうだが、2人の兵士に面識は無かった。
誰かの話によると、隊長とは似ても似つかない美人だという噂もあるが、真偽は明らかになっていない。
彼女は暫く上級兵士付きの侍女であるローラのもとに預けられていたそうで、その理由が『忙しかったから』で、戻ってくるのは『もう大丈夫だから』らしい。――正直隊長の仕事の忙しさが前と今で変わったという気はしないのだが。
隣の隊長はただ黙々と馬車を進める。彼の尊敬する隊長は、今日も落ち着いた威厳を放って見えた。
―――さすがにコイツらにまで本当のこと言えないって。
アーロンは隣の兵士がリンについて深く追求しなかったことに安堵していた。
今日は休暇を利用してリンの荷物を一度に運んでしまうため荷馬車を借りている。そして自分と同じく休暇の隊員を職権を乱用して付き合わせている。
リンは今学校に行っていて、授業が終わり次第家に帰ってきてくれることになっていた。
リンが15歳を迎えたあの日、初めて彼女が自分のものになってくれたあの夜、今までアーロンを葛藤させていた何かは綺麗に消え去ってしまった。
妹として一緒に暮らしていたリンを女として見てしまった罪悪感、まだ若い彼女に手を出すことの躊躇い、それでも彼女を欲してしまう自分への恐怖、その全てから逃げるようにリンを遠ざけた。
そんな情けない自分に、リンは変わらず、真っ直ぐに想いをぶつけてくれた。
何が正しくて何が間違っているのか、どうでもよくなったあの夜。もう、離れられないと思った。
今までリンを預かってくれたローラに対しては、嘘はつきたくない。
そんな気持ちからリンとも話し合い、真実を告げることを決めた。
「俺達、本当の兄妹じゃ、ないんだ」
2人で訪れ、そう伝えた時、ローラは驚きで暫く言葉を失くしていた。
―――
――――――
「…え?」
たっぷり時間を置いて、向かいに座るローラが小さく呟いた。
ローラの隣のキャリーは何やら嬉しそうに頬を緩めている。こうしてアーロンが家にやってくることも、その目的も承知していたのだろう。
アーロンはリンと並んで座り、ローラを前でまるで恋人の母親に結婚を報告する男のように硬くなっていた。
「ごめん、突然こんな話…。今まで、黙っていたことも…」
「う、ううん」
ローラは慌てて首を振った。
「大事な話があるってことだったから、どうしたんだろうって思ってたけど…。そっか…」
ローラは今聞いた話を頭の中で反芻しているようだった。まだ驚きを引き摺り、呆然としている。
そんなローラに、アーロンは一呼吸置いて話を続けた。
「リンも俺も、親は居ないんだ。リンが12の時に縁あって出会って、独り者同士一緒に暮らそうかってことになって…」
ローラが聞きながらゆっくりと頷く。
大雑把な説明なので理解が追いつかないかもしれないが、本題はここからなのだ。
アーロンは一息つくと「それで話っていうのは…」と言いかけて言葉を呑んだ。ただでさえ戸惑っているローラを前に、言いにくい。けれどもちゃんと言わなければならないのだと、アーロンは覚悟を決めて口を開いた。
「俺達……、リンが卒業したら…結婚したいと思ってるんだ」
「――きゃぁぁぁ~!!!」
キャリーの歓声に、アーロンは驚いて目を丸くした。
「キャ、キャリーっ…!」
リンが慌ててキャリーを窘める。だがキャリーは興奮に頬を紅潮させ「よかったね、リン、よかったねっ」と盛り上がっている。
キャリーはリンからどこまで聞いているのだろうと考えると、居たたまれなくなってくる。アーロンは内心冷や汗をかきつつ、ローラを窺った。
ローラはアーロンとリンを交互に眺め、ふと頷いた。
「なんか、納得…」
「え…?」
「すごくお似合いだと思う」
「え…」
反応に困り思わずリンを見ると、彼女も自分を見ていた。眉を下げたリンの顔は、真っ赤になっている。
そんな2人を前に、ローラは感嘆の吐息を洩らした。
「そっかぁ…、素敵。羨ましいなぁ」
どう返していいのか分からない。アーロンは無性に恥ずかしいのを堪えつつ「有難う…」と呟いた。その場の空気に耐えきれず、話を進める。
「あの、それで…。今まで長いこと預かってもらって、本当に感謝してるんだ。俺の勝手な気持ちで振り回して申し訳ないと思ってる。…で、さらにまた振り回すことになっちゃうんだけど…」
「…リンちゃんに戻ってきて欲しいんだ」
先回りされ、思わず声を失う。図星であることを察したのだろう。ローラはふふっと楽しそうに笑った。
……格好悪いことこの上ない。
虚脱感とともに、アーロンはがっくりと項垂れた。
「…はい」
観念してそう答えたアーロンに、ローラはまたクスクスと笑った。
―――
――――――
アーロンの借りている部屋のある建物の前に到着すると、アーロン達は手早く荷物を家に運び込んだ。
リンが出て行った時は突然のことでほとんど身ひとつだったが、その後家具は徐々にローラの家に移動していた。それらをまたひとつひとつ運び込む。
「隊長、妹さんの部屋どっちですかー」
部下が訊ねる。アーロンは一瞬迷ったが「こっち」と元々リンが使っていた部屋を指差した。
「はーい」
兵士達は流石力仕事でも難なくこなす。アーロンも一緒に動きながら、内心失敗したなと思っていた。
リンが戻ってきてくれるなら、部屋は同じにしようと思っていた。というか、同じにしたかった。でもリンを妹と思っている兵士の手前、とりあえず荷物はもとの部屋に運ぶしかない。
兵士達の働きにより、荷物の搬入はほどなく完了した。
「終わりましたーっ」
「有難う。助かった。じゃ、なんか食いにいこうか。奢るから」
丁度お昼の時間である。働いてくれた兵士達には、しっかり美味しいものを食べさせなくてはならない。
「ご馳走様でーす!」
特に遠慮する様子もなく、兵士達は声を揃えてそう応えた。
午後の授業を終えると、リンはキャリーと一緒に学校を出た。
「今日はもうリンと一緒に帰れないんだなぁー」
キャリーがたいして残念そうでもなく、笑みを浮かべながらそんなことを言う。リンは赤くなりつつ「途中までは一緒だよ」と返した。
「引越し終わってるかな」
「うん、アーロン今日お休みだから、学校終わるまでに済ませておくって言ってた…」
「そっかぁー、優しいねっ!」
「……うん」
なんだか照れ臭い。それでも午後の気持ちいい風を感じながら、リンは内心胸を躍らせていた。
やっと今日からまた一緒に暮らせる。もうお休みの日を待たなくても、毎日会える。
幸せいっぱいで、緑豊かな帰途の景色がよりいっそう輝いて映った。
その頃、兵士達に食事をご馳走し、また家に戻って来たアーロンはリンの部屋で思い悩んでいた。
―――どうしよう…。
リンのベッドにはしっかり寝具が整えられている。ここで寝なさいと言わんばかりに。
素直なリンがこれを見たら、素直にここで寝てしまいそうだ。
リンのものは流れで全てここに運んでしまったが、寝る場所だけは絶対一緒がいいと思っているのに。
せめて枕だけでもあっちに持っていこうかと考え、手に取った。
そして我に返る。
自分の行動にあまりに下心が透けて見えて、自分で呆れた。
とはいえ、もう今までの『兄妹』としての生活を始める気は無いのだ。一度『恋人』になってしまった今、それは絶対に無理なのだから。
アーロンは暫くその場に佇んでいたが、やがてふぅっと息を吐くと、持っていた枕を元に戻した。
変な気を廻さず、自然に任せたほうがいい。リンだって同じ気持ちでいてくれるかもしれないのだから。自分にそう言い聞かせその場を離れると、入口の鍵が開く音が聞こえてくる。
アーロンはハッとして玄関の方を振り返った。
鍵を開けて中に入ると、リンはドキドキしながら「ただいま」と奥に声をかけた。
足音がして、居間からすぐにアーロンが姿を見せる。そして「おかえり」と笑顔で迎えてくれた。
その微笑みに、リンの心臓はドクンと跳ね上がった。
「あ、た、ただいまっ」
正視出来ずに目を伏せる。なんだか物凄く照れてしまう。思えば誕生日のあの日から、まともに2人きりになったのは初めてだった。
リンは靴を脱いで部屋に上がり、アーロンの前に立った。彼の大きな手がリンの頭に優しく触れる。
「お引越し、終わった…?」
「うん」
「ごめんね。全部、お任せしちゃって…」
「大丈夫。うちの隊員働かせたから」
「えーっ!」
目を丸くするリンを、アーロンは楽しそうに笑う。そしてリンの背中を押し、2人は部屋へと入って行った。
アーロンの言うとおり、引っ越しは完了していた。
確かにリンの荷物は全部綺麗に納まっている。リンがかつて使っていた部屋に…。
―――あれ…。
「荷物足りないものないか見ておいて。俺、夕食作るから」
そう言って炊事場へと去っていったアーロンを見送り、リンは自分の部屋に入った。学校用の鞄を置いて部屋を見渡す。
部屋は別々なのだろうか。また一緒に暮らすのなら、部屋は同じにするとアーロンは言っていたような気がする。だがリンの部屋は、かつて彼女が出て行く前と全く変わらない様子でそこにあった。
思わず溜息が洩れる。落胆している自分に気付き、リンは我に返って赤くなった。
―――何考えてんだろう、私っ…。
アーロンはいつもと全然変わらないのに、1人で盛り上がってしまっている。
リンはそんな自分の煩悩を追い出すように頭を振ると、部屋を出て炊事場へと向かった。
「私も手伝うっ」
料理をするアーロンの側に行き、リンはそう言って彼の隣に立った。
「ありがとう」
アーロンが微笑んで応える。リンもナイフを持つと、野菜をひとつ手に取った。
「ポレト剥くね」
「うん、任せた」
かつてよくこうして並んで料理をした。片想いだったリンの胸躍る時間のひとつだった。そんな懐かしいドキドキが戻ってくる。
でも、あの時と今は違うはず。リンはふと手を止めると、アーロンの横顔を見詰めた。
今はもう、”恋人”のはず…。
まだ実感が湧かない。
目が離せなくなったリンの視線に気付いたのか、アーロンの目もリンを見る。大好きな茶色の瞳が、リンの顔を映して止まった。
束の間、見詰め合う形になった。
―――キスして、欲しいな…。
つい、そんなことを考えた時、その想いが届いたかのように、アーロンがそっと顔を寄せてくれた。
唇が優しく触れ合う。目を閉じながら、リンは胸いっぱいの温かさに包まれていた。
野菜とナイフを持ってなかったら、抱きついてしまいたかった。
アーロンは唇を離すと、リンの瞳を覗き込みながらふっと微笑した。
「…料理中だった」
「あ、そ、そうだね!」
もっと触れて欲しいと思った気持ちを誤魔化すように、リンはまた慌てて野菜に向き直った。
―――危なかった。
アーロンは内心で呟きつつ、料理に戻った。
そういえば、リンを抱いたあの日から2人きりになるのは初めてだった。なんだかやたら可愛く見える。白い肌も金色の髪も翡翠色の瞳も、全てが輝いて映る。
早速暴走しそうになってしまった…。
別にもう無理に我慢する必要はないが、大人として夜までは待たないといけない気がする。
戻ってきてすぐ襲いかかればいかにもそれが目当てだったかのようだし、リンはまだ経験が浅いのだから、がっつくのは良くない。
「アーロン、ちょっと前ごめんね」
ふと、リンがそう言ってアーロンの前に手を延ばしてまた野菜を取る。
すぐそばを通ったリンの香りが鼻に届いて、また胸が高鳴った。
そんな自分に呆れて溜息を洩らす。
―――飢えてるな、俺…。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
リンの無邪気な問いかけに、アーロンは苦笑しつつ首を振った。
リンが帰って来たお祝いということで、夕食は豪華だった。
王都で買ってきたお酒も開けて、リンも少しだけ一緒に飲んだ。
「美味しい…」
リンは目を輝かせてそう言った。
「果実酒だから甘いだろ。でも少しにしておけよ。本当は子供に飲ませちゃいけないんだけど、今日は特別」
アーロンの言葉にリンが不満気に顔をしかめる。
「子供じゃないもん」
「…そうでした」
リンの過剰な反応にアーロンは極まりの悪い笑みを洩らす。
”子供”というのは未成年に対して言った言葉のつもりだったが、よく考えるとおかしい。我ながら、どの口が言っているのか。
「もう一杯飲む…」
そう言って注ごうとするリンの手を、アーロンはすかさず「ダメ」と言って止めた。
「どうして?」
「酔っちゃうだろ」
「平気だよ?」
「酒は後から効いてくるんだって。酔って寝られても困るし」
言ってしまってハッとした。困るって何がだ。自分で自分に突っ込みを入れる。
リンは一瞬固まったが、「そっか…」と言って手を退いた。
その頬は少し赤い。それがお酒のせいか、それとも自分の言葉の意味に気付いたのかは、よく分からなかった。
アーロンが片付けをしている間に「お風呂先にいいよ」という言葉に甘え、リンは体を洗った。
肌にお湯を流しながら、先ほどのアーロンの言葉を思い出し、また胸が高鳴るのを感じる。
”酔って寝られても困るし”
誕生日のあの日は、勢いだけでこの家におしかけてしまった。そして勢いだけでアーロンにすがってしまった。
冷静に考えると、すごいことをした気がする。
でも、あの夜、あの時間、すごくすごく幸せだった。とっても満ち足りた想いだった。――と言っても、あまりに頭の中が熱くなってたせいか、ちゃんと覚えてなくて、なんだか勿体無い。その点今日は心の準備ができるから、大丈夫…。
そんなことを考えながらそして風呂場を出て、脱衣所で体を拭く。夜着を身につけると、いつものようにガウンを手に取った。そしてふと手を止める。
寝間着が袖の無い薄いものなのでアーロンの前ではいつもこれを着ていたが、今日はどうしたものか…。
リンはしばらく悩んだが、いつもと違うことをするのもおかしい気がして、結局それに袖を通した。
リンがお風呂を終えるのと、アーロンが片付けを終えるのとは、ほぼ同時だった。
風呂場から出てきたリンに、アーロンは思わず目を奪われた。
濡れた金色の髪はまとめて頭の後ろで留められている。そのせいで白い首筋が露になっていて、やけに艶めかしい。
「終わったよ」
リンがアーロンにそう言って微笑む。愛らしい笑顔に胸を高鳴らせつつも平静を装い、「俺も片付け終わった」と応えた。
「アーロン、次どうぞ」
「うん」
かつてと変わらないやりとり。リンの後に、アーロンも風呂場へ向かう。兄妹だった頃と変わらない流れだった。
ただ以前はアーロンがお風呂に入っている間に、リンは先に眠ってしまっていたけれど。
一瞬”待っていて”と言いかけて止めた。そんな事は、強制することではない。
リンが同じ気持ちだったら自然に待っていてくれるはずだから。
「…行ってくる」
アーロンはそう言うと、リンと入れ替わりで風呂場へ向かった。
―――えっと、どうしよう…。
1人居間に残されたリンは、突っ立ったまま途方に暮れていた。アーロンはお風呂に行ってしまったが、自分は特にやることがない。
待っていてと言われたわけじゃないのに待っていたら、なんだか物凄く何かを期待しているかのような…。
それを考えると、かなり恥ずかしかった。
部屋で寝ていたら、後から来てくれるかもしれない。でも寝ているところを邪魔してはいけないと、アーロンは遠慮するだろう。
だからといってアーロンの部屋で待ってるなんて、絶対おかしいし!
リンはしばらく悩んでいたが、やがて名案が浮かび、自分の部屋へと走って行った。
アーロンが風呂場から出てくると、リンはまだ居間に居た。
けれども”待っている”という雰囲気ではなく、なにやら机に向かって筆を走らせていた。
アーロンの気配を感じてか、顔を上げる。そして彼の疑問に答えるように、「あ、宿題してたの。明日提出なんだ」と説明した。
「あぁ…!」
アーロンは納得して頷いた。学校から課題が出ているらしい。明日までにやっておかなくてはならないのだろう。
「大変だね。頑張って」
アーロンはそう声を掛けると、リンの背中を見ながら長椅子に腰掛けた。一心不乱に課題に向かうリンの姿に罰の悪い笑みを浮かべる。
―――邪魔しちゃいけないな…。
お預けをくらってしまった。アーロンは濡れた髪を拭きながら、大人しく宿題が終わるのを待つことにした。
筆を走らせながら、リンはアーロンの存在を意識しまくっていた。
宿題というのはもちろん嘘だった。起きている理由をつけるため、とりあえず問題集を解いている。
戻って来たアーロンはリンのすぐ後ろで座って、待っていてくれてた。
リンは若干わざとらしいかなと思いつつ筆を置くと、勢いよく問題集を閉じた。
「終わった!」
そして振り返る。アーロンと目が合って、また心臓が跳ねた。
「…終わった?」
「うん…」
どうしようもなく胸が高鳴って、リンは慌ててまた目を逸らした。言い訳にした課題を見詰めながら、独り言のように呟いてみる。
「寝よう、かな…」
一呼吸間を置いて、アーロンが「そうだね」と静かに応えた。
―――え…、寝ていいの…?
内心で問い返す。けれども口に出すことは出来ず、気まずい沈黙が流れた。
1人で悶々としている自分が恥ずかしくて、居た堪れない。リンは問題集と紙束を両手で抱えると、のろのろとその場に立ち上がった。
後ろを向くと、長椅子に座るアーロンと向かい合う格好になる。
アーロンは黙ってリンを見上げていた。
その落ち着いた目が、なんだか今は凄く嫌だった。動揺している自分を見抜かれているような気がして。
やっぱり子供だと、思われている気がして…。
「じゃぁね…」
目を逸らして、そう呟いた。他にどうしていいか、もう分からなくて。
リンはその場を逃げるように、自分の部屋へと足を向けた。
その途端、アーロンが長椅子から立ち上がり、リンの腕を掴んだ。思い切り引き戻され、手にしていた問題集と紙束が腕から零れ落ちる。
驚く間もなく、リンの体はアーロンに抱きしめられていた。
足元に問題集が落ちた。紙束も床を舞っている。
でもそんなのどうでもいい。
体を包むアーロンの温もりに、リンはきゅっと目を閉じた。
「”じゃぁね”じゃ、ないだろ…」
アーロンの咎めるような声が耳元で聞こえる。
「だって…」
リンは言いながら両手でアーロンの背中にしがみついた。
「だって、なんでお部屋別々なの…?」
思わず責めるような言い方になる。抱きしめてくれるアーロンの腕の力が強くなった。
「だよな…」
囁きながら、アーロンがリンの髪に口付る。
「ごめん…」
そして耳にも。
「ごめん、リン」
頬にも。
やがて目を閉じたままのリンの唇が暖かい温もりに塞がれた。
アーロンの唇。リンはそれを自ら求めるように、必死でアーロンに縋り付いた。
甘い口付けに溺れていると、やがて肩から滑るようにガウンが降ろされていった。足元にふわりと落ちていく。
口付けを繰り返しながら、アーロンの体に押されるようにリンは長椅子に腰を降ろした。そのままそこへ倒される。
アーロンの手がリンの体を撫で下りる。ぴくりと肌を震わせ、リンはそっと目を開けた。
視線の先では、居間の灯りが煌々と部屋を照らしていた。
アーロンの手が、リンの夜着の肩紐を下ろしていく。
「ア、アーロン…」
胸が露わになる直前、正気を呼び戻され、リンはアーロンの手を止めた。
アーロンは顔を上げると、リンを見た。
「なに…?」
「ここ、明るい…」
訴えたリンに、アーロンは「うん…」と応えたが、手は止まらない。
リンは慌てて「ま、待って!」と声を上げた。その制止に、アーロンは焦れったそうに問いかけた。
「なんで…」
「…恥ずかしいよ」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよぉ」
「……ダメ?」
身を捩っていたリンの動きが止まる。アーロンの茶色い瞳が、覗き込むようにリンを見ていた。
「俺でも、ダメ…?」
囁くようなその問いかけに、リンの胸はきゅぅっと締め付けられた。
―――”俺でも”…。
ふと体の力が抜け、リンは封じていたアーロンの手を離した。そして目を閉じる。
「ううん…いいよ」
自然に、そんな言葉が零れていた。
「アーロンになら、何されても、いいよ…」
囁いた声は、アーロンの唇に呑みこまれて消えた。
体中にアーロンの愛情を降り注がれながら、リンはいつしかまた何も考えられなくなっていた。
微かな痛みすら、甘い痺れに変わる。
そして自分の名前を呼ぶ彼の声を耳元で聞きながら、ただ幸せな温もりに満たされていった。
欲望を吐き出してしまうと、アーロンは大きく息を吐いた。
少しの間体を重ねたまま余韻にひたり、やがてゆっくり体を起こす。
自分の体の下で、リンは力が抜けたように目を閉じていた。
その桜色の唇に軽く口付ける。
リンはそれに応え、そっと目を開いた。
熱を含んだ瞳も上気した頬も、この上なく魅惑的で、おさまったはずの火が再び燃えそうになる。
けれどもふと我に返って周りを見廻し、アーロンは思わず苦笑した。
「…どうしたの?」
「いや、ごめん、何やってんだろ、俺…」
リンの本や宿題を解いたはずの紙が床に散乱している。脱がせた服と一緒に。
しかもここは居間で、寝室ではない。大人として夜まで待ったのはいいけど、結局この有様だ。
どれだけ格好つけようとしても、どうやら無駄らしいと思い知った。
リンから離れて床からガウンを拾い上げる。それをリンの体にそっと掛けた。
そして自分も手早く服を身につける。
着終わってまたリンを見ると、まだ気が抜けたように長椅子に横になったままだった。
ぼんやりとアーロンを見ている。
アーロンはクスッと笑うと、リンの体に掛けたガウンを摘まんで引っ張ってみた。
再び白い胸が露わになる。
「――だめっ」
リンは慌てて体を起こすと、それを引き戻した。楽しそうに笑うアーロンに、リンはみるみる真っ赤になる。
ガウンで体を隠しつつ、上目使いでアーロンを窺った。
「……もう遅い?」
「うん」
「…全部、見た?」
「うん。ありがと」
「あ、ありがとって……」
アーロンは立ち上がると、顔を上げられないリンの額に軽くキスをした。
「凄い綺麗だった」
リンは何も返せず、ガウンに顔を埋めた。
さっきまでは完全に”女”だったのに、そんな姿は小さな少女という感じで、可愛らしい。
アーロンはリンに「待ってて」と声を掛けると、床に散乱した紙と本を集めてリンの部屋に向かった。
アーロンが去ったところで、リンは急いで服を身につけた。正気に返ると、全身から火を噴きそうに恥ずかしかった。
初めての夜は真っ暗な部屋の中で手さぐり状態だったのに、今日はこんなに明るいところで…。
あたふたと身支度をして、ガウンを羽織る。
戻って来たアーロンの手には、リンの枕が携えられていた。
「本は机に置いておいたから」
「あ、うん…」
アーロンは長椅子の後ろを通って自分の部屋の方へと向かいながら、リンを振り返った。
「リンはこっちにおいで」
そしてアーロンは自分の部屋のドアを開け、またこちらを向いた。
ぼんやり突っ立っているリンを黙って見ている。
リンはハッと我に返ると、「うんっ…」と頷いて、アーロンのもとへと駆け寄った。
大きめのベッドに枕を2つ並べて、アーロンは苦笑した。
「初めから色々考えないで、こうしておけばよかった」
その言葉に、リンは思わず吹き出した。
初めての『恋人』としての生活に、色々考えていたのは、自分だけではなかったらしい。
嬉しくて、自然と頬が緩む。
「寝ようか」
「うんっ」
そして2人は同じベッドに入った。
「お帰り、リン」
「…ただいま」
暖かいベッドの中で改めて抱きしめ合い、優しくキスを交わす。
やがて幸せな温もりに包まれて、2人は心地よい眠りに落ちていった。
<完>




