270話
しかし、そのトラブルや事件も含めて〈ヴァルト〉なわけで。ウルスラは眉を顰めながらも口角は上がる。
「どっちがこのお店らしいか、と言われたら——」
「間違いなく、アニーがいるほうをお客さんは選ぶだろうね。我々の心配など知らず。いや、知ってるかも」
キッチンは大慌てになることをビロルは何度も経験している。食事の提供が遅くなることについて、正直ドイツでは珍しいことではない。だが、もちろん早く食事をしたい人もいるわけで。そんな時にアニーが「あ、紅茶の時間だ」なんて思っちゃったりしたら。
まぁ、今日もそんな感じだったわけで、事なきを得たが、このヒリついた感覚。一週間空いただけでも懐かしさを感じる。これだよこれ。集中していたほうが〈ヴァルト〉って感じ。待ってた。いや、待ってない。
今はオーダーも落ち着いて、まったりとコーヒーを楽しむ人達が時間を過ごしている。そのフワッとした重力を見据えながら「そういえば」とウルスラが話を切り替える。
「お土産はなにもらったんですか? アニーから」
内容は帰ってきた際のお土産について。隣国ではあるし、パリへは行ったこともあるのでちょっとだけ予想はつく。そしてアニーの性格からして、直感で選んだものになるはず。事前には自分用の紅茶のことしか考えていないハズ。
背筋をなぜか伸ばしたビロルは、コルクでできた蓋の容器を思い浮かべて答える。
「塩」
「塩?」
その回答に思わずウルスラは顔を覗き込んだ。塩。塩? なんで塩?
ちょっとだけ不満そうなビロル。せめてなにかそのまま食べられるものを期待していただけに、まさかのチョイスは想定外。
「俺と店長はプロヴァンス地方のカマルグの塩と、ブルターニュ地方のゲランドの塩。なんか間接的にあいつ用のお菓子を作れと言われているような」
そもそもベルリンでも手に入るし。いや、塩の花とも呼ばれるこの調味料は、たしかに高品質で味わいが深いのは知っている。料理人にとって真珠みたいなありがたいもの。だけど。だけどなんか。なんか違う気がする。




