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265話

 〈ヴァルト〉。閉店後の締め作業中。クローズドとなっていて、調理に集中できる作りのキッチン。その調理台上の吊り棚整理をしていたオリバーが声を上げる。


「むむ?」


 これは由々しき事態。そんな不安を孕んだ声色。店長とオーナー不在の今、この店が試されている。そんな気がする。


 それを聞いたダーシャ。同じく締め作業中。一応問いかけてみる。


「どうしたの、オリバーくん。なんかあった?」


 だいたいロクなことではない。この子とアニーが考え事をしている時は、基本的に非常にどうでもいいことが多いから。


 しかし、棚からコーヒーソーサーを一枚取り出したオリバーは膝から崩れ落ちる。


「……そんなッ! ボリスッ!」


「……ボリス?」


 当たってほしくないダーシャの予感が、絶対に当たってしまったと確信に至った。オリバーはテーブルウェアを愛しすぎた結果、それぞれに勝手に名前をつけている。そして男性名っぽいものを呼んだ、ということは。


 はい、と憔悴した様子のオリバーはソーサーを見せてくる。


「この子の名前です。グスタフスベリのベルサというシリーズになっています。よくアニーさんが使っているものです」


 左右対称に緑色の葉が描かれたデザイン。スウェーデンのデザイナー、スティグ・リンドベリを代表するもので、一九六〇年頃から生産されていたが、終了したあとも根強い人気で復刻版が作られたほど。ベルサの意味は『緑に囲まれた小さなスペース』。森の中の自分の居場所。


 勝手に店の備品を私的に使ってる事と、勝手に名前をつけているのは言っても聞かないだろうから置いておいて。なにをそこまで騒ぐことが、とダーシャは首を傾げる。


「それで、どうしたの? なにかあった?」


 問われ、指でソーサーの端の部分を指すオリバー。頭を抱える。


「……なんという……!」


 まるで地球最後の日であるかのように、ここから走り去りたい衝動を懸命に堪える。自分ひとりしかこの場にいなかったら、きっと『ショーシャンクの空に』のパッケージのように水道の水でも浴びながら叫んでいたことだろう。よかった。自分はまだ自分でいられる。

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