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異世界料理道 --外伝集--  作者: EDA
前伝 黎明の森

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第1章 01 明日を求めて

2025.12/19

・今回の更新は全7話です。毎日更新いたします。

 母なる森が、燃えていた。

 これまで自分たちを育んでくれた森が真紅の業火に包まれて、天空に黒煙をたちのぼらせている。それはすべての同胞にとって、自分の母親が生きながら焼き殺されるさまを見守っているようなものであった。


 今は夜であるはずなのに、森を焼く炎が昼間より明るく世界を照らしだしている。

 祝宴の場で盛大にあげられる儀式の火は、あんなにも人の心を熱く満たすのに――今は、この世の終わりのごときおぞましさである。また、森を母とする森辺の民にとって、それは世界の終わりに等しい惨劇であるはずであった。


「忌まわしきシムの黒蛇どもが、貴様たちから住むべき場所を奪ったのだ!」


 どこか遠い場所で、誰かがそんな風にがなりたてている。

 幼きジバ=ルウは悲嘆の涙を流す母親の腕に取りすがりながら、その言葉をぼんやりと聞いていた。


「その怒りを力にかえて、剣を取るがいい! 今こそ貴様たちを、誇り高きジャガルの軍に迎え入れてくれよう!」


 すると、重々しい声がそれに答えた。


「それは、確かな真実なのであろうか? 我々は、森にさまよいこんできた東の民を助けたこともあるが……その者は、信用に足る人間であったと記憶している」


「東の民を、助けただと? 貴様たちは森に住まう蛮族なれども、れっきとした南の民であるのだぞ! この黒き森とて、ジャガルの領土であることに違いはないのだからな!」


「助けたと言っても、水をやって森の外まで送り出してやっただけのことだ。王国の掟がどうであろうと、死に瀕していた人間を見殺しにすることはできまい」


「蛮族め……だから貴様たちは、背信を疑われていたのだ! 貴様たちはただでさえ、東の民さながらの見てくれをしているのだからな!」


「何にせよ、確かな証もなしに刀を取ることは許されん。それが、我々の掟であるのだ」


 どうやらそれは、森辺の族長の声であるようであった。

 今もなお母なる森は無残に燃えあがっているさなかであるというのに、その声はいっさい揺らいでいない。それは、幼いジバ=ルウには理解し難いほどの強靭さであった。


「この腰抜けどもめ! であれば、農奴となるがいい! まずはこの地に砦を築き、その後は兵糧を確保するための畑を耕すのだ! それでようやく貴様たちも、王国に貢献することができよう!」


「それは、我々の歩むべき生ではない。我々は、森の子であるのだ。母なる森が滅んだならば、新たな森を探し求める他ない」


 族長の決断に賛同を示すように、あちこちから雄々しい声があげられる。

 すると、どこの誰とも知れない男の声は恐怖と惑乱の気配をにじませた。


「そ、そんな真似が許されると思うのか? 王国の民は、王国のために力を尽くすのだ!」


「何と言われようとも、我々は森の子としての生を捨てるつもりはない」


 族長の力強い言葉に、いっそうの喚声が巻き起こる。

 その隙間から、弱々しい男の声が聞こえた。


「き、貴様たちが暮らせる森など、もはやジャガルには存在しない! 我々の命令が聞けぬというのならば、南の王国から出ていくがいい!」


「承知した。では、すぐさま出立するとしよう。……同胞よ! 涙を流しているいとまはない! 母なる森に別れを告げて、新たな安住の地を目指すのだ!」


 怒号のごとき喚声が、世界を揺るがした。

 ジバ=ルウはわけもわからないまま、母親の腕をぎゅっと抱きすくめる。すると母親も涙を振り切って、ジバ=ルウの身を抱いてくれた。


 かくして、母なる森を失った森辺の民は夜の世界に足を踏み出し――長きにわたる苦難の生を歩むことになったのだった。


                 ◇


 安住の地を目指す旅は、過酷のひと言につきた。

 何せ森辺の民は母なる森とともに、さまざまなものを失ってしまったのだ。真紅の業火はあっという間に森を包み込んだので、水や食糧や家財道具を持ち出すいとまもなかったのだった。


 おおよその人間は着の身着のままで、黙然と歩を進めている。同胞の半数近くは母なる森とともに魂を返し、生き残ったのは二千名ほどであるという。普段はなかなか顔をあわせる機会もなかった遠方の氏族もひとかたまりになって、荒野の道なき道を北上していた。


 それでも男衆の大半は狩人の衣を纏い、腰には刀をさげている。きっとそれは森辺の狩人にとって、生命と同じぐらい重要なものであるのだろう。森で生きるには刀が必要であるのだから、それを捨てて生き延びても意味はないのだろうと察せられた。


 しかしまた、この苦難の旅のさなかには刀を振るう機会もほとんど存在しなかった。

 荒野で狩ることができるのは虫や蜥蜴ぐらいのものであったので、刀を振るう必要もなかったのだ。また、弓まで持ち出せた人間はほとんどいなかったため、鳥を狩ることもかなわなかった。


 なおかつ、外界には悪しき心を持つ人間が多数存在するのだという話であったが――さすがに二千名もの一団を襲うことはかなわなかったのだろう。この長い道中で、森辺の民が盗賊団などに襲われることは一度としてなかった。


 よって、森辺の民に苦難をもたらしたのは、飢えと渇きである。

 荒野には、二千名の腹を満たす実りなど存在しなかったのだ。虫や蜥蜴を捕らえることができれば上等で、時にはしなびた草葉や木の根などをしがみ、泥水をすすって数日を過ごすしかなかった。


 そんな過酷な旅を続ける内に、同胞はひとりまたひとりと魂を返していく。

 真っ先に魂を返したのは、乳飲み子である。まともな食事を口にしなければ、乳をやることさえ覚束なくなるのだ。旅の十日目にはついにジバ=ルウの妹も魂を返してしまい、家族に大きな悲嘆をもたらすことになった。


 ジバ=ルウはルウ本家の家人であり、上には二人の兄、下には弟と妹がいた。ルウ家は親筋であったため、眷族よりは豊かな暮らしに身を置いていたが――この道中では、そんな身分も用をなさなかった。わずかな食料は均等に分け与えられて、力のない人間から順番に魂を返していくことになった。


 道中で魂を返した人間は、どことも知れない地に埋葬されて、弔いの祈りが捧げられる。そうして手厚く葬ることで、魂は母なる森に届けられるのだという話であったが――今はその森も、焼け野原となっているのだ。たった一年足らずしか生きられなかった妹の魂はどこに向かうことになるのかと、ジバ=ルウはひと晩泣き伏すことになった。


「わたしたちが新しい森を母とすることができれば、きっとみんなの魂もそちらに迎えられることになるんだよ。だから気持ちを強く持って、旅を続けないといけないのさ」


 母親は、そんな言葉でジバ=ルウや弟を慰めてくれた。

 そんな母親も日に日にやつれていき、その美しかった顔には老婆のような皺が刻まれていった。


 そうしてひと月も過ぎた頃には、毎日のように弔いの祈りが響きわたった。

 どれだけ荒野を突き進んでも、実り多き地に巡りあうことはなかったのだ。草木も生えていない岩山か、せいぜいが貧相な雑木林か――外の世界はこんなにも広大であるのに、森辺の民が健やかに生きていけるような地はどこにも存在しなかった。


「俺たちは、人目をさけるためにこんな荒れ地を進んでいるのだという話であったが……人がいないのは、実りがないからだ。もっと人里に近い地を進むように、族長に進言するべきではないだろうか?」


 夜には父のもとに眷族の家長たちが寄り集まり、深刻そうに言葉を交わしていた。

 ルウは、ドグラン、モーティ、シュティファ、デル、アレク、ロブルという六つの眷族を従えている。血気盛んなモーティの家長がそのように言いつのると、ルウの家長たる父は厳しい面持ちで「いや」と首を横に振った。


「どうやら我々は、外界の民にひどく恐れられているようであるのだ。迂闊に人里に近づけば、刀を向けられることにもなりかねん」


「ふん。外界の民など、おそるるに足りんわ。あの夜、偉そうに威張りくさっていた兵士どもも、見習いの若衆にも満たない力量だったではないか」


「しかし今は、俺たちも力を落としている。また、王国の民を傷つけたならば、王国中の人間が復讐の刀を手に取るかもしれん。俺たちはただでさえ王国の怒りを買っているようであるから、いっそう身をつつしむ必要があろう」


「そんな弱気で、血族を守ることができるのか? 昨日などは、アレク分家の家長までもが飢えて魂を返してしまったのだぞ」


 すると、アレクの家長が「うむ……」と弱々しい声をあげた。


「そして俺も、すでに二人の幼子を失っている。……アレクの親たるルウの家長よ、いっそ俺たちをルウの家人に迎えてくれないだろうか?」


「なに? アレクの氏を捨てるというのか?」


「うむ……もはやアレクの氏は、家人を支える役にも立たない。勇猛なるルウの氏を授かることができれば……新たな希望を胸に抱くこともかなおう」


 眠ったふりをして盗み聞きしていたジバ=ルウは、心から驚かされることになった。ルウの家人とて力を落とし、絶望の中でもがいているようなものであるのに――アレクの家長には、まだ力にあふれているように見えているようであった。


 つまりアレクの人々は、それよりも深い絶望にとらわれているのだ。

 今よりも深い絶望など、ジバ=ルウには想像することも難しかった。


 そうしてさらに、日は過ぎて――ついに、丸ふた月が経過した。

 いったい何名の同胞が魂を返したのか、幼きジバ=ルウにはそれを知る手立てもない。しかし、荒野を進む同胞の一団は、ふた回りも小さくなったように感じられた。


「どうやら他の氏族においても、氏を捨てる氏族が増えてきたようだ」


「うむ。ケラルなどは、本家の家長が魂を返してしまったからな。それで長兄は、まだ見習いの若衆であるというし……無理に家長を立てるよりは、親筋たるヴィンの家人となるほうが心も安らぐのであろう」


「ケラルの家長といえば、たったひとりで大物の黒猿を仕留めたという名うての狩人であったのにな」


「飢えたあまりに、病魔を招いてしまったのであろう。あるいは、腐った虫の屍骸でも口にしてしまったのであろうかな」


 夜な夜な交わされる家長たちの語らいも、どんどん陰鬱な内容になっていく。

 それでジバ=ルウが身を震わせていると、隣で横たわっていた母親が優しく頭を撫でてくれた。


「眠れないのかい……? ひもじい思いをさせて、すまないねぇ……」


「ううん。かあさんこそ、もっといっぱいたべないとだめだよ。きょうだって、じぶんのぶんをおとうとにあげちゃったでしょ?」


「あたしはもう乳をやる相手もいないから、いいんだよ……森辺の行く末を作るのは、あんたたち幼子なんだからねぇ……」


 そのように語る母親は、とても透き通った眼差しをしていた。

 そして――その瞳がまぶたに隠されると、もう二度と開くこともなかったのだった。


 ルウの本家の家人も、ついに五名になってしまった。

 そして、女衆はジバ=ルウひとりきりだ。ジバ=ルウは下の兄たる次兄の手を借りて、まだ三歳である弟の面倒を見る毎日であった。


 母親を失ったことで、弟はいっそう気が弱くなってしまった。移動の際には次兄に背負われて、泣くか眠るかのどちらかであった。


 そんな中、ジバ=ルウは懸命に自らの足で歩いている。

 このふた月ほどでジバ=ルウが涙を流したのは、家族を失ったときだけだ。ジバ=ルウはすでに五歳であり、家の仕事を手伝う立場であったため、決して家族の重荷にならないようにと覚悟を固めていた。


 守られるべきは、幼き弟であるのだ。旅のさなかにはジバ=ルウが果たすべき仕事もほとんど存在しなかったため、せめて家族に面倒をかけないように振る舞うしかなかった。


 そうしてさらにひと月が過ぎると、アレクに続いてデルとロブルも氏を捨てることになった。

 六つの眷族が、ついに半分になってしまったのだ。もしかしたらこの時点で、同胞の人数も半分に減じていたのかもしれなかった。


 それでも、過酷な旅は終わらない。

 時には険しい断崖やどろどろとした泥沼などに行く手を阻まれて、大きく迂回を余儀なくされながらも、ひたすら北上する。


 北を目指すのは、南の王国から遠ざかるためである。また、東の側には敵対国たるシムの領土が広がっているため、一時的に進路を変える際には常に西側が選ばれていた。


「あれは……山の影ではないか?」


 そんな声があがり始めたのは、過酷な旅が四ヶ月を過ぎた頃であった。

 北方の地平線に、うっすらと黒い影が見え始めたのだ。黒く見えるということは、岩山ではなく緑に覆われている証であるはずであった。


「まずは、あの山を目指すのだ。浮足立って、気を抜くのではないぞ」


 族長は、そんな風に言っていた。

 族長筋たるガゼの本家の家長である。彼はすらりと背が高く、他の狩人よりも痩せ細っていたが、誰よりも力にあふれかえっていた。


 そして彼は、美しい白銀の瞳をしている。

 森辺の民は髪や瞳の色もさまざまであったが、白銀の瞳というのは滅多に見かけない。その目には、何も見逃すまいとする鋭い輝きがたたえられていた。


 そして族長たる彼は、不思議な刀をさげている。

 彼の瞳と同じ色合いをした、美しい刀だ。それはどうやら外界において、『鋼』と呼ばれる材質であるようであった。


「どうやら鋼というものは、外界にしか存在しないらしい。他の狩人が使っている石の刀とは、まったく切れ味が違っているそうだぞ」


 ある夜、次兄がやわらかく微笑みながらそんな風に説明してくれた。

 そして、かたわらに置いてあった刀を取り上げる。次兄はまだ八歳であったが、ひと月ほど前に分家の狩人が魂を返した際に、この刀が受け継がれたのだった。


 その刀は、黒猿の骨の柄に黒い石の刃が輝いている。

 巨大な黒猿の前腕の骨であるので柄の長さはなかなかのものであるが、その先端に大人の手の平ほどの大きさをした菱形の刃がくくりつけられているのだ。森辺の狩人は、こんな小さな刃で凶暴な黒猿を狩っていたのだった。


「この刃は黒猿の骨に当たると、簡単に砕けてしまう。だから、骨をさけて肉だけを断つんだけど……族長の持つ鋼の刀は、骨ごと断ち切れるという話なんだ」


「ふうん……だけどそれは、がいかいのかたななんでしょ? どうしてぞくちょうが、がいかいのかたなをつかっているの?」


「それはわからないけれど、族長筋に伝わる品であるらしい。以前はもっとたくさんあったみたいだけど、百年や二百年も経つ内に最後の一本になっちゃったんだってさ」


 では――古きの時代には、森辺の民も外界の民と仲良くしていたのだろうか。

 ジバ=ルウは少し興味をひかれたが、もっと幼い弟は言葉の意味がまったくわからない様子で、ぐずり始めていた。


「おなかすいた……たべるものは、もうないの?」


「うん。さっきの木の実で、最後だよ。足りないなら、葉っぱを噛むか?」


「はっぱはにがいから、きらい……かあといもうとにあいたいよぅ」


 母の死からは二ヶ月、妹の死からは四ヶ月も過ぎているのに、弟はまだその悲しみから脱せずにいた。

 しかし弟は、まだ三歳であるのだ。次兄も優しく笑いながら、弟の小さな頭を撫でるしかなかった。


 そして、そんな次兄も弟もジバ=ルウも、枯れた木のように痩せ細っている。

 大人たちは子供を優先して食料を分け与えているのに、それでもまったく足りていないのだ。今日などは、干からびた蜥蜴とひとつまみの木の実しか口にしていなかった。


(それでもぜったいに、しぬもんか……かあさんといもうとのぶんまで、あたしたちがいきぬくんだ)


 そんな覚悟を振り絞りながら、ジバ=ルウはその日も泥のように眠ることになった。


 それから、およそ半月後――森辺の民の一団は、ついに目的の地に辿り着いた。

 地平の果てに見えていた、黒々とした影の麓である。


 それはまさしく、緑に覆われた山であった。

 そしてその山の麓には、かつての故郷たる黒き森よりも広大な森が広がっていたのだった。


 そんな雄大なる山と森を眼前にして、森辺の同胞たちは歓呼の声をあげていた。

 誰もが骨と皮だけの姿になり、もはやひとしずくの力も残されていないように見えるのに――彼らは魂を振り絞るようにして、歓喜の雄叫びをあげていた。


 しかしジバ=ルウは、気持ちが定まらない。

 四ヶ月半ぶりに見る森の威容は、あまりに圧倒的であり――なんだか、背筋が寒くなるほどであったのだ。


(でも、きっと……あたしたちは、またしあわせにくらしていくことができるんだ)


 そんな思いで内心の弱気をねじ伏せて、ジバ=ルウは弟を背負う次兄の顔を見上げた。

 それに気づいた次兄もジバ=ルウに笑顔を返してから、背中で眠る弟の身を揺すった。


「ほら、お前も見てごらん。やっと新しい森が見つかったんだよ。これでまた、美味しいものをたくさん食べられるよ」


 しかし弟は、まぶたを開こうとしなかった。

 そしてそのまぶたは、もう二度と開かれなかったのだ。

 それでジバ=ルウは、三度目の涙を流すことになったのだった。

2025.12/19

・本日、異世界料理道の書籍版第37巻が刊行されます。ご興味を持たれた御方はよろしくお願いいたします。

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