平穏と波乱の匂いの夜更け
赤ちゃんが屋敷にやってきて一ヶ月。旦那様はこちらがびっくりするくらいに、赤ちゃんをかわいがっているというか……自分の子分扱いしている気がする。
息子をかわいがるという感じとは違っていて、どことなく突き放す事もあるし、懐に入れる事もあるし、盗賊団のお頭が、新入りの子分をかわいがる調子だった。
そして赤ちゃんは、屋敷の離れにたくさん居る犬猫の中でも、大型の狼犬に気に入られた様子で、旦那様と一緒にそちらに行くと、狼犬が自分の子供のように面倒を見るわけで、まさに第二の母の様な狼犬である。
ふさふさの毛並みは赤ちゃんもお気に入りで、ごきげんで居るらしい。
私はその場にあまり居ないので、離れの管理人から伝え聞いた話だけだけれども。
私がその場に居ない理由。それはこの屋敷の奥様としての仕事がたくさんあるからだ。
旦那様の方は、仕事だけは出来るという奴なのか、細かい隙間の時間をひねり出すのがうまい。生まれついての公爵家跡取りだっただけの事はあるのだろう。
私達は大声で私の実家の事を話さないし、興味の無いそぶりを貫く事にしているが、それは旦那様に思うところがあるからだ。
「おれ達がぎゃあすか言うと、余計に騒ぎが広まって、お前の家の恥の上塗りになって、そこから嫁いできたお前の事も、周辺がろくな事言わないだろ」
生家の恥は自身の恥になりかねない、それが他家に嫁いだ貴族令嬢の悲しい運命でもある。
そして私は生まれからして、ちょっと褒められた物ではない部分があるから、余計に旦那様は言うのだろう。家の恥になる事は、旦那様にとって不利益だから。
それだけじゃないかもしれないけれども、それを旦那様が私に言わないので、彼の心の内は私の知るところではない。
そして。
「おう、嫁さん。ちょいと坊主の着替え頼むわ」
私はその日も、女主人としての仕事を行っていたのだけれども、その隙間の時間に旦那様が、赤ちゃんを抱っこして現れた。赤ちゃんはちょっと泥が着いている衣装を着ていて、また離れで犬猫に遊んでもらっていたのだな、とわかる姿で上機嫌でキャッキャしている。たくさんかまってもらったのだろうと、そこからもわかる姿だ。
「もう、お風呂はすぐには出来ないんだけど」
「わるいわるい、坊主は毎日あっちに行きたがるんだよ。おれにちょっと暇が出来たって嗅ぎつけた瞬間によお、足元にくっついてくるんだぜ」
「もう」
赤ちゃんというのはここまで活動的なのか。と思いつつも、私は笑って使用人の皆さんに、赤ちゃんのお風呂の用意を頼んだ。
赤ちゃんが来た事で、旦那様の横暴さが軽減した事で使用人の皆さんは、赤ちゃんに好意的なので、不快そうな調子はまるでなく仕事に移ってくれる。
アーノルドさんも、旦那様が屋敷で横暴な調子をちょっと減らしてくれた物だから、赤ちゃんの事を認めている。
そしてこの噂を聞いた旦那様のご両親は、息子が落ち着いてきた事に安心して、赤ちゃんに血のつながりはないけれども、自分達の自由にしていい物を、赤ちゃんが成長したら与えても良いと思っているくらいだ。
いかに旦那様が横暴な性格をしているかがわかるだろう。
「坊主は素直でかわいいなあ」
ぐりぐりと頭を撫でる旦那様に、赤ちゃんがキャアキャアと笑う。この屋敷に来てからの赤ちゃんは楽しそうに笑う事も多いし、旦那様が仕事場の一角を赤ちゃんのための遊ぶ空間にしているから、いつでも旦那様と一緒という状態が安心なのか、むやみな泣きわめき方をしないのだ。
床に降ろされて、きゃあきゃあと笑った赤ちゃんが、よちよちと私に近付いてくる。
私は抱っこを希望する甥っ子を抱き上げる。汚れるのは仕方がない? 大丈夫。
抱っこする前に
「防汚性二十五倍」
さらりと私は自分に汚れがつかないように魔数術を発動させるからだ。これをかなり高くした事で、汚れは弾かれて問題が無くなる。
「お前ずるいぞ、自分だけ!」
「私の見えないところで楽しんでて、そこだけずるいなんて、あなたが子供っぽい」
「うるせえなあ。お前の魔数術って本当に規格外な位の使いこなし方だよなあ、本当に師事した相手がいないのか」
「いない。旦那様の情報網なら、私の生まれも育ちも知っているでしょ。その中で師事できる高名な魔数術の使い手がいると思う?」
「いねえなあ。実地かあ、やっぱ強いのは実地体験ってのか」
赤ちゃんは抱き上げられて、してやったりという顔でにぱっと笑って私の胸に顔を埋める。
「おい、お前、そいつの胸はおれのだぜ」
「骨と皮とか言っていたくせに」
「骨と皮をこれからおれが育てるんだよ」
「……変態のいい方してる」
「男は皆どっかしら変態なんだよ! 性的対象の裸が好きじゃない男は居ないし、自分好みに出来る可能性がある、それも嫁さんなんて育てる一択だろ」
「……旦那様、変態の具合が加速してる。なんかものすごく、過去の盗賊のおっさんを思い出す発言」
「ほらみろ、どこの男も共通してる部分はある!」
「それを王国屈指の財産家かつ権力者かつ血筋の、公爵家当主が言うのなんて、表に出せない」
「お前だけに言っているから問題ない」
「あとこの子の教育に悪いから、そういう話は私だけの時にしてくれる?」
「……お前これはそんなに怒らないんだな」
「弱くて抵抗できない相手に性的嗜好を押しつけている訳じゃないから。これが、抵抗の仕方もわからなかったり、無知だったりする相手に対して、自分の性的欲望のはけ口よろしくぶつけるんだったら、屑の所業だからもうそんな事出来ないくらいの鉄槌を下すけど、私はあなたと対等な奥さんだし」
「すげー自信」
「私が反旗を翻したら、旦那様はお屋敷でとっても不便でしょ」
私がにっこり笑って言い切ると、旦那様がげひゃげひゃと笑った。
「違いない。お前ほんっとうに屋敷の管理も金銭管理も熟練の夫人と同程度以上だよな」
そういう話を笑いながらしている時だ。
少し急ぎ足のアーノルドさんが、礼儀正しく扉を叩き、旦那様の許可があってから入ってきてこう言った。
「旦那様、奥様、今表門の所で奥様の義姉様を名乗る方がいらして……」
「おー、意外と早いな」
「えっ」
「アーノルド、義姉の証拠もねえんだから、警邏に貴族を名乗る不届き者がいるって突き出しちまえ。そうそう、それに近い女を捜している、金持ちの商人がいないかも探しておけ」
私が知らない間に、旦那様は義姉様の事で何か知っていた?
うまく言葉が出ない私とは違い、旦那様はいくつもの指示をだして、アーノルドさんが一礼してその通りにするために去って行く。
「……あなた、何を」
したの、と言おうとした時。
「奥様、坊やのお風呂の用意が調いました」
女性の使用人の数人がそう言ったので、私は私監督の下、使用人の彼女達に赤ちゃんをお風呂に入れるため、赤ちゃんを抱っこしたまま部屋を出たのだった。
そしてその日の夜の事、火急の用事と言わんばかりに、生家の両親が来るという知らせが届き、実際にその日の真夜中にやってきたので、私は寝る前だったが支度をして、両親の待つ客間にむかった。
そして、客間に入った瞬間に、義母が顔を真っ赤にして
「この不幸者!! 義理の姉を商人に売り払って!」
「……おっしゃっている意味がまるでわからないのですが」
「本当に何も知らないのか?」
義母がわめき、ちんぷんかんぷんな私が冷静に問いかけると、父が問いかけてくる。
「逆に私は何を知っているとお父様達は思っていらっしゃるんでしょうか」
「……」
父はぐうっと言葉に詰まる。……家の恥を大声で自分からは言えないのだろう。と推測できる黙り方だ。義姉のあれこれはすでにとんでもない家の恥なのだろうし、なんとか隠そうとしているらしいが、賠償金の関係で義兄が走り回っているとも少しばかりは聞くし。
「お前……お前……そんなに義理の姉が憎いのか! そんなに婚約者を奪われた恨みが深いのか! ぶくぶくに太った醜い商人の手先に、義理の姉を骨抜きにさせて失踪させて! 義理の姉がその者達の正体を知って助けを求めに来ても、警邏に突き出したそうではありませんか!」
「……貴族を名乗る怪しい女性が、表門で暴れているという事でしたので、旦那様が警邏を呼びましたが……」
「ふざけるなあああ!!」
……私が知らないところで、義姉が何か起こしたのだろうとしか思えない。
しかし義姉……あなた、私から奪った婚約者はそこそこの美男子だったのに……商人の手先に骨抜きにされるなんて……その手先どれだけ美男子だったんだ……? あ、置き手紙にもっとお金持ちと書かれていたけれど、商人の手先はそんなにもお金を持っているように見えたのだろうか……
とんだ詐欺師だったのでは? 詐欺師に引っかかっただけで、私関係ないのでは?
時刻は来訪には非常識な真夜中で、こんな事を言われても関係ない。
私は大きく深呼吸して、両親に向き直った。
「これほどの屋敷の女主人がいちいち、表門まできて怪しい女性の対応をする事がある訳無いでしょう……使用人からの報告で、物事を決めていくのですよ……」
「うっ……」
これまた貴族夫人の常識を向けると、色々叫んでいた義母も同じように対応する側であるが故に、ぐと言葉に詰まり、そのまましくしくと泣き出した。
「我が家に問題のある行動はございません。それに出奔した義姉がこの屋敷に来るなんて想定外以外の何でもありません。警邏に引き渡された後の事はもっとわかりません」
「とある商人の使いが身元引き取り人として現れた、と言う。我が家に連れ戻したいが……警邏に引き渡されたなど恥。公爵家の力でなんとかしてくれ!!」
父が叫ぶ。しかし。
「今日はお引き取りくださいませ。このようなあり得ない時間に来ただけでも、要らない噂の火種になりますよ」
私は眠い。今日の疲れを癒やしたい。落ち着いて考えたいからもう寝たい。
それに……家計を火の車にしただけでなく、私の婚約者を奪って妊娠して奪って、だけでもなく、私の事を気に入らない愛人の娘だと思って、下に見ていた人を無条件に助けるほど私は優しくないのだ。
生まれてきた子供には罪がないから、大事に扱うけれども。
冷静に言った私が、助けるとも助けないとも即答しなかった事で、望みがあると思ったのだろう。
事実こんな夜中に訪ねてきたと言う事を、世間に知られたらあちらの方がいっそうの恥になる。
彼等はしぶしぶ帰っていった。引き下がった方が良いというまともな視点が残っていたのだ。
彼等が帰ってから私は疲れて、少し客間のソファに身を預けて……そのまま寝入ってしまったのだった。




