「生まれ変わったら今度こそ一緒に」と非業の死を遂げた恋人が、今世ではクズ男になっていた
よろしくお願いします。
覚えている最後の光景は、視界を埋め尽くす、夥しいほどの赤だった。
床や壁や衣服を濡らす赤。轟々と爆ぜ、燃え広がる赤。
どこもかしこも、世界には赤が満ちていた。
「……守れなくて、ごめん……俺の、アンジェ。……生まれ、変わったら……今度こそ、一緒、に……生、き」
赤に満ちる景色の中。
沈みゆく私の意識と魂に、最も強く焼け付いたのは、光を失い虚ろになっていく、彼の瞳の赤だった。
◇◆◇
「――ローザ嬢、私が君を愛することはない。だから、私にそのようなものを期待するな」
全く同じ色の赤い瞳。
硬そうな毛先までそっくりな、銀色の髪。
長い銀糸の睫毛と高い鼻梁。
十七歳にしてすでに完成された、端正な白皙のかんばせは、不機嫌なときに寄る眉間のしわの深さまで一緒だ。
前世で私が愛した男性――ザックと全く同じ見目を持つ、今の婚約者が、私と二人きりになった途端に放った言葉が、よりにもよってこれだった。
「……それは、どういう」
「私には、大切な人がいる。しかし、君との婚約は政略的なものであり、今すぐには解消することができない」
「あの、大切な人って――」
「――君には関係のないことだ。いいか、二度と私に踏み込むな」
あまりの物言いに、私は一瞬、呆気にとられてしまった。
外側はザックそっくりだが、中にはまるで違う人が入っているみたいだ。
「……別人、なのかしら」
「……今、何と?」
「いえ。何でもございませんわ」
「ああ、間違っても私と彼女との仲を裂こうなどと思うなよ。そうなれば、誰であろうと容赦はしない」
刺すように私を見つめる冷酷クズ男の瞳は、前世で最後に見た世界の赤に似ていて、少しだけ身震いした。
――前世の彼が前世の私を見つめる瞳は、同じ赤でも甘く柔らかな苺のようだったのに。
顔を見た瞬間に少し期待してしまったが、やはり、彼はザックとは別人なのだろう。
考えてみれば、私だって、前世の私と見た目は全然異なっているのだ。
前世のアンジェリカは、柔らかなウェーブがかった金髪に青色の瞳を持つ、淑やかな見目の女性だった。
けれど今の私は、薔薇のように鮮やかなストレートの赤髪と、緑色の瞳の、すこしきつめな顔立ちである。
きっとザックの魂も、全然違う容姿の、誰かの身体に入っているに違いない。
目の前のセドリックは、偶然ザックとそっくりな見目に生まれてきただけの、全くの別人。
もしくは、前世の記憶を引き継いでいるのは私だけで、セドリックはザックだった頃のことを覚えていないのかもしれない。
私はそう思って、彼との仲を深めるのを諦めようとした。
だが――、
「……はあ。ここまで誰とも婚約を結ばず、どうにか粘ったのだがな。あとひと月で再会できるはずだった……ああ、約束したのに……俺の天使――」
聞こえよがしにぼやいた彼の言葉を耳に捉えて、私は、もしかしたらと考えを改めたのだった。
◇◆◇
前世の私、アンジェリカは、不思議な力を持って生まれた。
傷を癒す、奇跡の力だ。
決して、強い力ではなかった。
軽い傷や火傷を治す程度のもの。
けれどこの世界で、そんな不思議な力を持つ人間は、他者からこう呼ばれ、迫害されていた。
《魔女》と。
私は死の直前まで、力を必死に隠して生きてきた。
ただし、自分の家族と、恋人のザックだけは、別だった。
男爵であり騎士でもあった父の打ち身、男爵夫人なのに土いじりが趣味だった母のあかぎれ、男爵家の料理人だったザックの火傷。
他の人が見ていないところで、そんな小さな傷をこっそり治して、慎ましやかに暮らしてきた。
しかし、そんな私に縁談が舞い込む。
相手は、妻を亡くした商家の男だ。
裕福だが、私の両親よりも年上で、好色と噂される男。
私とザックの仲を認めていて、私を溺愛していた両親は、当然その申し出を蹴った。
いくら金を積まれても、娘を嫁にやることはない、娘は好きな男のもとに嫁ぎ幸せになるのだ、と。
その回答に、商家の男は激怒した。
私の容姿が好みだったらしいことと、我が男爵家と上手く縁を結べば貴族へのコネクションが出来ると踏んでいたらしいこと――その二つのことが災いし、商家の男は私と男爵家に粘着するようになった。
そして。
商家の男が放った間諜に、私の隠していた力が露見してしまった。
ザックの火傷を治していたところを、見られてしまったのだ。
商家の男が抱いていた執着は、《魔女》への恐怖と憎悪に転化した。
男は、男爵領の民に私が《魔女》であることを広く知らしめ、そして――。
こうして前世の私は、ザックや両親と共に、この世を去ったのである。
領民たちに、裏切られて。
◇◆◇
そんなこんなで――、
「「「はぁ~」」」
今、私は、通っている貴族学園の友人たちと寄り集まっていた。
友人たちのうち三人が、扇で口元を隠しながら、一斉に大きなため息をつく。
私たちの視線の先には、一人の新入生と、見目麗しい令息たちの姿があった。
令息たちは、ここにいる友人たちの婚約者だ。
もちろん、私の婚約者セドリックの姿もそこにある。
「なんなのかしら、男爵令嬢の分際で」
「全くですわ。少し見目がいいからって」
「あんなに殿方を侍らせて、はしたないですわ!」
ここは、十五歳から十八歳までの貴族子女が通う、学園のカフェテリアだ。
件の男爵令嬢パメラが、令息たちを侍らせて一緒に食事をしている姿も、もうすっかり見慣れた光景になってしまった。
「アイリス様、ローザ様。お二人は、どうしてそんなに落ち着いていられるのですか?」
「あら。だってわたくしは、殿下を信頼しているもの」
宰相令息の婚約者から話を振られて即答したのは、第一王子殿下の婚約者、公爵令嬢のアイリスだ。
幼い頃から第一王子殿下と婚約を結んでいると聞く。
今は殿下もパメラのそばに侍っているが、殿下には何か思惑があってそうしていると、アイリスは信じているらしい。
「ローザ様は? お二人は婚約したばかりと伺いましたが、その……平気なのですか?」
私に尋ねてきたのは、辺境伯令息の婚約者だ。
「そうですね……私は、セドリック様の事情を知っておりますので。仕方がないかな、と」
「事情、ですか?」
騎士団長令息の婚約者が続けて尋ねたが、私は首をふるふると横に振って、口を閉ざした。
前世の記憶があるだなんて、他人に話して、信じてもらえるようなことではないだろう。
それこそ、再び《魔女》と認定されてしまったら、たまったものではない。
視線の先では、前世で何度も鏡越しに見た姿――ゆるくウェーブした金髪と青い瞳を持つ女が、アンジェリカとは全く異なる仕草と表情で、笑っていた。
「……答えられませんよね。踏み入ったことを尋ねてしまい、申し訳ございません」
「いいえ、構いませんわ」
今世の私、ローザは、伯爵令嬢。政略で結ばれた婚約者セドリックは、侯爵家の嫡男である。
年齢は、私が十五歳、セドリックが十七歳だ。
私は、パメラと同じ新入生。セドリックは、最高学年の生徒だった。
「ですが、事情がおありというなら納得ですわ」
「ええ。そうですわね」
「時折セドリック様は、切なそうな、遠い目をされていることがございますものね」
「……え?」
友人たちの言葉に、私は驚いた。
彼は――セドリックは、もしかしたら、パメラの中身が彼の天使ではないと気づき始めているのかもしれない。
「でも……だからといって、私を見てくれることは、ないのよね」
ついこぼしてしまった呟きに、私は友人たちに心配されることになってしまった。
自分たちも非常識な令嬢のせいで辛い思いをしているというのに、こうして本気で他人の心配をしてくれる彼女たちは、これからも良き友人でいられる――そんな風に感じたのだった。
*
それからしばらくの時が経ち。
学園で主催されるパーティーで、事件が起こった。
なんと、パメラに想いを寄せる令息の一人が、刃傷沙汰を起こしてしまったのだ。
犯人は、私の知人でも、友人たちの婚約者でもなく、いつも彼女を取り巻く輪の少し外側にいた令息である。
後で聞いた話によると、彼は婚約者も恋人もいない、子爵家の令息だったとのこと。
彼は、婚約者がいるにもかかわらずパメラと懇意にしている令息たちが、許せなかったそうだ。
そして。
刺されたのは、ちょうど彼の手近にいたらしい、セドリックだった。
犯人に刺されたところから、じわじわと赤が広がってゆく。
「いやあああ!」
つんざくような叫び声は、私から発せられたものだった――そう気がついたのは、騎士団長の令息に犯人が取り押さえられた後のことだった。
私は無我夢中で、セドリックの元に駆け寄る。
「セドリック様! 大変、血がたくさん――」
「ぐっ……、ああ、今度は……、守れた……」
「だめ、喋らないで!」
セドリックを抱き起こして、話しかけているのは私なのに――こんな時にも、セドリックの視線はパメラに向いていた。
そのパメラはというと、間近で刃傷沙汰に巻き込まれたのがショックだったのか、顔を青ざめさせて腰を抜かし、令息たちに介抱されている。
「セドリック様……どうしよう……!」
私は、必死に彼の傷口を押さえる。
けれど、恐ろしいほど鮮やかな赤が、私の指の隙間からどんどん溢れてゆく。
「……俺の、天使……、でも、約束……は、かはっ」
「だめ、だめよ! 逝かないで、お願い!」
私は必死に、婚約者に――前世からただ一人愛し続けている人に、声をかける。
いくら冷たくされても、結局彼への想いを諦めることができなかったのだ、私は。
瞼の裏に、あの日の赫光がよみがえる。
ちかちかと、眩しく。
それは他の光も全て呑み込み、前世の最期のさらにその後に見た、真っ白な光へと変じていく。
「いやよ……、だって、生きるって! 一緒に生きるって、約束したじゃない! お願いよ、ザック!」
――あまりにも必死で。
周りの音も景色も、何もかも意識に入らなくなっていた。
だから、私は、気がつかなかった。
自分が何をしているのかも。
誰に何と呼びかけ、何を話しているのかも――。
「……もういい。もういいよ、ローザ嬢」
「ひぐっ、よ、良くない……っ、ザックが、いないと、私、生きられな……っ、ザック、を、助け……っ」
愛しい人を腕に抱いて泣きじゃくる私の頬に、誰かの手がそっと触れた。
温かくて、力強くて――ひどく鉄臭いけれど、とても懐かしい触れ方で。
「――もう、いいんだよ。助かったんだよ。ローザ嬢……大切な、俺の、アンジェ」
「たす、かった……?」
ようやく視界が開けた私の目の前にあったのは、端正な顔を歪めて泣き笑いをしている、懐かしくて愛おしい人の、かんばせだった。
この世界で唯一、大好きな赤色――甘く柔らかに細められた彼の目には、泣きはらした私の顔が映っている。
「ああ……やっと、会えた。……いや、違うな。こんなに近くにいたなんて」
「ザッ……、セドリック様?」
「どちらでも構わないよ。君が俺の天使なんだろう? ローザ嬢」
私は、ぎこちなく笑って、頷いた。
私の目からほろりとこぼれた涙が一粒、セドリックの胸元を濡らす。
「懐かしいな、その、困ったみたいな泣き笑い。やっぱり、君がアンジェなんだな。それなのに、俺は、君を遠ざけようとして、傷つけて……俺は……っ」
「ううん、いいのよ。私、分かってるから」
「それでも、俺は……ああ、最初から君としっかり向き合っていれば――」
「――ローザ嬢。君が、そうだったのか」
二人きりの世界に入り込んでいた私たちを現実に引き戻したのは、第一王子殿下の声だった。
「殿下……?」
「傷は内臓にまで達していただろう? そのような重傷まで一瞬で治してしまうとは、途轍もない力だな」
「……っ!」
殿下のその言葉で、私はようやく、自分が何をしてしまったのか、ここがどこだったのかに、気がついた。
――私は、瀕死のセドリックに、癒しの力を使ってしまったのだ。それも、公衆の面前で。
「ローザ嬢。それほどの強力な癒しの力、ずっと隠していたのか? セドリック、君はローザ嬢の力のことを、知っていたのか?」
冷たいその声色に、セドリックが私を抱き込む力が強くなる。
私も、怖くなって震えながら、彼にぎゅっとしがみついた。
――私も、知らなかったのだ。
アンジェリカだった頃は本当に些少な力しか持っていなかったのだが、今の私の癒しの力が、こんなに強くなっていたなんて。
私は、再び不思議な力を持って生まれてきたことに気がづいてから、これまで一切力を使ったことがなかった。
自身の力が露見するのが怖くて、たとえ自分や家族が怪我をしても、ぎゅっと目をつぶり見て見ぬ振りをして、やり過ごしてきたのだ。
「わ、わた、私は……申し訳……っ」
「殿下……どうか、どうかお見逃しを……」
「見逃すわけがないだろう」
殿下はぴしゃりと言い放ち、突然、ふうと息を吐き出して相好を崩した。
私とセドリックは、その「安心した」と言わんばかりの表情を見て、混乱する。
「ようやく見つけたよ、白の《聖女》。ああ、本当に苦労した。これでやっと、父上も私の立太子をお認め下さるだろう」
「え……《聖女》? え?」
「立太子……?」
殿下は、完璧な笑顔を浮かべて頷いた。
どうやら、《聖女》というものを見つけることが、国王陛下から課せられた課題だったらしい。
「幸い、目撃者も多数いる。ローザ嬢の力は、ここにいる皆が証明してくれるだろう。君たちは、身を清め、着替えて、ゆっくり休むといい」
周りを見渡すと、皆が目を輝かせて、私に拍手を送っていた。
理解が及んでいないのは、輪の中心でいまだ凄惨な赤色に染まっている、私とセドリックだけだ。
「あ、あの……皆さん、私が……《魔女》が怖くはないのですか?」
「はは、かつて《魔女》が迫害されていた時代ならともかく、今は《魔女》は崇められ、敬われる時代ではないか。特に、癒しの力を持つ《魔女》は白の《聖女》と呼ばれ、赤、青、黒の《聖女》と並び、非常に希少な人材だ」
その言葉に、私とセドリックは顔を見合わせた。
私は《魔女》の現状を知るのが怖くて、ずっとその話題を避けていたのだが、それはセドリックも同じだったらしい。
「事情は、後で必ず説明する。今は、湯浴みをしてくると良い」
私とセドリックは、盛大な拍手に見送られ、困惑しながら、パーティー会場を後にしたのだった。
*
後日。
晴れて王太子となった第一王子殿下が、事情を話してくれた。
現在、私を除いて、この王国には《聖女》が一人もいないらしい。
実際に力を使うことを強要するものではないが、《聖女》の所在が分かっていて、かつ王族と懇意にしていること――それだけで、『王家は奇跡の力を手中に収めている』というアピールになり、求心力となる。
そのため、国王陛下は、第一王子殿下が立太子する条件として、《聖女》を発見することを課した。
「初めは、パメラ嬢がいずれかの……おそらく、黒の《聖女》かと思って近づいた。でなければ、良識ある男共がこんなに大量に骨抜きになるはずがないだろう」
しかし、彼女の口から出るのは、『ひろいん』とか『こうりゃくたいしょう』とか、意味の分からぬ言葉ばかり。
おかしな言動が続くのに、一向に《聖女》の力を表立って使う気配がなくて、殿下もうんざりしていたとのこと。
「だが、これでようやく、胸を張ってアイリスの元に戻れるよ」
殿下はそう言って微笑んだ。
アイリスは口では殿下を信じていると言っていたが、これでやっと心から安心できるだろう。
「しかし、セドリック。君はどうしてパメラ嬢に侍っていたのだ? 最近の君とローザ嬢の仲睦まじさを見ていると、どうしても信じられなくてな」
「……他言無用にしていただけますか」
殿下は鷹揚に頷き、人払いを済ませたところで、セドリックは口を開いた。
「私とローザには、一度別の人生を歩み、そして死んだ記憶があるのです。かつて、《魔女》が迫害されていた時代に」
殿下は形良い目を見開き、息を呑んだ。セドリックは、そのまま続ける。
「私は、前世の記憶を引き継ぎ、前世と全く同じ見目に生まれ変わりました。だから、もしかしたらアンジェも――前世の恋人も、同じ見目の女性に生まれ変わっているかもしれないと考えました」
「なるほど。その彼女が、パメラ嬢そっくりだったのだな?」
セドリックは、首肯した。
パメラとは、数年前に貴族子女が集まるパーティーで出会ったらしい。
セドリックは、彼女にアンジェリカだった頃の記憶がないことには早々に気がついていたが、記憶を引き継いだのは自分だけなのだろうと思い、大して気にも留めなかった。
しかし、セドリックの侯爵家と、パメラの男爵家では、身分が違いすぎる。
家同士の接点もなければ、政略上のうまみもない。
結局、婚約を結ぶどころか交流を図ることも叶わず、セドリックは彼女が学園に入学してくる日をずっと心待ちにしていたのだそうだ。
「私が彼女に固執してしまったせいで、真の最愛がこんなに近くにいたことに、気がつかなかった。――見ようとも、しなかった」
セドリックの端正な顔が、悔恨に歪められる。
私は、「いいのよ」と彼の腕を優しくさすった。
「……まあ、最初は『優しかった私のザックが、人の話を聞かずに相手を傷つける、とんでもないクズ男になってしまったわ』と思ってショックだったけど」
「うっ」
「でも、あなたと再会したのが、学園に入学する直前で良かったわ。おかげで、つらい期間が短くて済んだもの」
私も、パメラの顔を一目見て、「ああ、こういうことか」と納得したのだ。
だからこそ、セドリックに蔑ろにされても耐えることができた。
いつか、いつの日か私に気づいてくれる日が来るかもしれない、と。
「パメラ嬢は……親しくなってみれば、アンジェとは全然違っていた。笑い方も、話し方も、仕草も、何もかも……違和感だらけで、気味が悪かったよ。何というか、少し邪悪な、別の生物と話しているような感じだった」
「ふ、邪悪に思えるというところには、同意するよ。……もしかしたら、パメラ嬢は本当に《聖女》、いや、《魔女》なのかもしれないな」
「昔はアンジェに《魔女》の呼称は合わないと思っていましたが、今のあの女にはぴったりの呼称ですね」
結局、パーティーの後、パメラは刃傷沙汰になったことが怖くなって、実家へ帰ってしまったらしい。
殿下から聞いた話によると、「もう少しで逆ハールートに入れると思ったのに」「誰なのよあのモブ……刃物なんてそんなイベント知らない」「こんなことに巻き込まれるなら、ヒロインなんてやめる。普通に穏やかに暮らしたい」などと喚いて、ずっと泣いていたという。
*
それから三年。
私とセドリックは、婚約当初の冷え切った関係が嘘のように、順調に絆を育んだ。
知れば知るほど、話せば話すほど、前世の私以上にどんどん今のセドリックに惹かれていく私がいた。
セドリックも、それは同じだったようだ。
「セドリック。私、見た目はアンジェリカと全然違くなってしまったけど……それでも、私でいいの?」
「ふ、そんなの今更じゃないか?」
純白の婚礼衣装に身を包み、甘く蕩けそうな笑みを浮かべて、愛しい人は私の手の甲に口づけをする。
その手も唇も、火傷しそうなほどに熱くて、私はくすりと笑った。
「今の俺は、中身が君だったら、老婆でも子供でも、犬猫でも植物でも昆虫でも愛せる自信があるよ」
「まあ! 私は、あなたが昆虫だったらちょっと自信がないかも」
「はは」
私が素直にそう返すと、セドリックはおかしそうに笑った。
「そうだな……俺が昆虫だったら、蜜蜂になって、毎日君に蜂蜜を届けるよ。そして、君が好きなハニーパイを食べるのを、間近で眺めるんだ」
「ハニーパイ、いいわね! ねえ、私、久しぶりにザックのハニーパイが食べたい」
「もちろんだよ、俺のアンジェ。これからはハニーパイでも、ベリーのタルトでも、かぼちゃのクッキーでも、いつでも好きなものを作ってあげる」
「ふふ。侯爵家のシェフが、びっくりしちゃいそうね」
「はは、そうかもな」
幸せに潤んだ赤が細まると同時に、私の唇に、火傷しそうな熱さがそっと触れた。
愛しい人と熱を分け合える喜びに、私の心は甘く震える。
「愛してるよ、ローザ」
「私もよ、セドリック」
リーン、ゴーン、と鐘の音が鳴る。
重厚な扉がゆっくりと開いていき、私たちは、今度こそ約束の道に、一緒に足を踏み出したのだった。
アンジェとザックが生まれ変わったとき、生まれ変わろうとしたアンジェの『器』に異世界の魂が入り込んでしまったため、アンジェの魂は、セドリックと婚約する可能性が高かった家の令嬢として生まれ変わりました。
癒しの力が異常に強まっていたのは、生まれ変わってからこれまで、一度も力を解放していなかったからです。
最後までお読みくださり、ありがとうございました!




