★陽の光の下で
通り抜けていく風が花の香りを連れてきた。もうすっかり春だね。
井戸端で「これからは水の冷たさを楽しめる季節になるんだなあ」って思いながら、僕は勢いよく桶に水を移す。
ふふふ、もう数えきれないくらい水汲みをしてきたからね。今じゃ服を濡らすことだってほとんどないよ。
これは厨房へ持って行くための水だけど、あとで馬用の水も汲んであげようかな。世話をする馬も増えたし、使用人も大変になっただろうし……。
「あっ、いたいた! エレノアぼっちゃーん!」
考えていたら、メイドがそんなふうに叫んで駆けて来る。
僕は思わずため息をついた。
「あのさ、僕のことを『エレノア』って呼ばないで。……って、もう何度も言ったよね?」
僕が“エレノア”だったのは三年くらい前のことなのに、このメイドは僕のことをまだ「エレノア」って呼ぶ。サラに聞かれたとき誤魔化すのが困るから、早いとこ直してほしいよ。
「あやー、忘れてました。すみません!」
だけど謝るメイドの言葉はいつも通り軽い。やれやれ、この調子だと今後も僕のことをエレノアって呼ぶだろうな。
「まあいいや。ところで何か用?」
「はいな! 馬車の用意ができましてございますよ! 坊ちゃん方の準備ができたらどうぞ玄関へお越しください!」
「……もしかしてそれ、誰かに『伝えてほしい』って言われた?」
「よく分かりましたね! イアンさんに頼まれたんですよー!」
ニコニコするメイドには照れたところも恥ずかしがるところもなかった。……ということは、なんで御者のイアンがわざわざ自分に伝言を頼みに来たのかは気づいてないみたいだね。やっぱりこのメイドには遠回しなアプローチなんて意味がないと思うけど……そのへんは本人たちのペースもあるしなあ……。
「ほらほら坊ちゃん、ぼんやりしてないで。あとはアタシがやっときますから、はやく奥様のところへ行ってくださいな」
「ちょっ、押さないで! それにサラはまだ『奥様』じゃないよ。結婚式まではあと半年あるんだからね」
「またまたぁ。一緒のお屋敷に住んでるんですから、奥様みたいなもんじゃないですかー」
「違うったら!」
確かに昨年から一緒に住んでるけど、僕たちはちゃんと節度あるお付き合いをしてるんだからね。なんて言っても、どうせ覚えてくれないんだろうな。
とりあえず水のことはメイドに頼んで、僕はサラの部屋へ向かう。以前は玄関付近だけピカピカだった窓ガラスも、今じゃ屋敷中がピカピカだ。おかげで僕の前髪がくしゃっとなってるのもよく見えるよ。むむむ。
そのまま鏡代わりに覗き込んでちょいちょいと直してたら、後ろを老執事が通りかかった。
「おはようございます、若君」
しかも若い従僕を二人も連れてる。
僕も慌てて向き直って「おはよう」って返すけど……変なところを見られちゃったなあ、僕も気を抜かないようにしよう。
ありがたいことに「働きたい」「戻って来たい」って言ってくれる人がいるおかげで屋敷内はだいぶ賑やかになってきた。少し前とは様相が変わってるんだ。
この三年……いや、あの新年の宴からだと二年半くらいかな。パートリッジ家はまさに「激動」という言葉がぴったりな状況になってる。
まず僕にとって一番大きな話は、サラとの正式に婚約したこと。
没落しかけのパートリッジ家と新興貴族の結びつきは社交界でもいろいろと噂になった……らしい。
僕はよく知らないけど、姉上からはたまに「パートリッジ家の人間ということもあって、わたくしは毎日大変ですわよ? ええ、当のご本人は遠い本邸におられるから、王都の様子などご存知ないでしょうけれど」なんて嫌味を受け取るからそうなんだと思う。ごめんって。
でもさ。僕は僕で忙しいんだ。サラと一緒に大きな事業を始めたからね。
何をしてるのかと言うと、実は競馬場の運営。
僕とサラがピクニックへ行ったあの湖の横にはいま、見事なコースが円を描いてるんだ。
競馬自体は貴族のたしなみだし、社交の場としての一面もある。競馬場を持っている貴族も多いからさほど目新しい物じゃない。
だけど今回の『パートリッジ競馬場』が革新的だったのは、平民にも開かれてるってこと! さすがにこんな競馬場は他に見ないよ。ちなみにこの提案をしたのはサラ。そもそも、競馬場経営の案を出したもサラだ。あとは建設お金もサラの個人資産から出てる。……サラ、ありがとう。
そんなわけで、騎手にはいろんな身分の人を採用した。
観客席だって価格帯を分けて誰でも見られるようにしたし、ゲーム感覚で競馬を楽しめるように賭け金も少額からにした。
その気軽な空気感が受けて、今や周辺の住民たちが娯楽の一つとして足を運んでくれるようになってる。
景品の“野菜たっぷりスープ”や“山ウズラのパイ包み (簡易版)”、“ハジケモモのクッキー”なんかをみんなが美味しそうに頬張ってくれてるところを見ると僕も嬉しくなるんだ。ぜひお腹いっぱいになって帰ってほしいな。
もちろん来客は近隣住民だけじゃないよ。遠方からもやってくる人たちがいる。だからモート邸――僕が“エレノア”として通っていたあの屋敷を宿泊施設として生まれ変わらせた。
支配人は、僕の父上。
父上はね。お金の扱いってことに関しては、まったく才能が無かったと思う。問題はいろいろあるけど……やっぱり一番は性格かな。素直というか、お人好しというか、悪意に疎いというか、そういう辺りが特にね。
だけどその短所が接客では長所になったんだ。
誰に対してもおおらかに出迎える父上は、平民の人にとってみると「貴族なのにこんなに気さくな方は初めて」と感じるらしい。一方で貴族たちは「余裕のある物腰に慣れ親しんだ空気感がある」って安心するみたいだ。
おかげで部屋は毎日予約のお客さんでいっぱい、大繁盛。本当にありがたいよ。少し前には王太子妃ご夫妻もこっそり宿泊にいらしたし……そうそう、ルークも来てた。なぜかエレノア姉上と一緒に邸内の食堂で昼食もとってたけど、あれはどう解釈すればいいんだろうね。
そうだ、姉上といえば。
パートリッジの競馬場は確かに革新的なシステムだったけど、それだけでこんなに人が来るはずはない。
じゃあ、有名になるような出来事が何かあったのか?
実はあったんだよ。
競馬場の始動と前後して、あのロナ・エグディの新作がドネロン劇場で公開されたんだ。
それが『蹄音の向こうで』っていう劇。
この作品の舞台は、なんと競馬場!
平民出身の青年騎手が観客の令嬢と出会い、さまざまな困難を乗り越えて想いを成就させるって話だよ。
もちろんうちの競馬場にそんな事実はない。
でもほかの場所と違って平民の騎手を採用してるからね、それが劇の内容を思わせるってことで王都から人が押しよせてくるわけ。
もしかしたら姉上は、パートリッジ競馬場設立の計画を知ってたのかな。
質問してみたけど、つんと顔を背けた姉上は「偶然ではなくて?」って答えただけ。サラに聞いても「さあ?」って首を傾げるばっかりだから、真相は闇の中だよ。
いずれにせよ、この上演開始がパートリッジ競馬場の追い風になったのは事実だ。おかげでジェフリーも……。
「……ふふ」
僕は屋敷の中を歩きながら小さく笑う。
競馬場が順調なおかげで、あれだけあったパートリッジの借金はあと何年かで返し終わる計算になってる。
ジェフリーも、婚約の場で渋い顔をしていた姿はどこへやら。今じゃ僕のほうへすり寄ってきたりなんかもしてるんだ。
この前は競馬場で会うや否や帽子を脱いで、
「おはようございます、パートリッジのご当主様!」
なんて言いだした。
僕はまだ当主代行であって領主じゃない。正式な当主の移譲は結婚後にしようって父上とも話してある。だからそう返したら、ジェフリーは金の髪……カツラをなびかせながら両手を広げたんだ。
「では今日は義親子として話をしようではないか!」
まったく、調子いいんだから。
で、いったいなんの話をするのかと思ったら、もちろん商談。
「競馬場内での新規建造や改良などがあったときには、我が商会を利用してほしいのだよ。親類価格で安くしておくから安心したまえ。その代わり、観覧席の特等券販売を私にも扱わせてくれるね?」
なんて言いだすんだから呆れるより先に感心しちゃった。
このたくましさが商売の秘訣なのかもしれないね。
だけど彼がどんなに計算高い理由を抱えていても今の僕は平気だよ。なんといっても最高の味方がいるんだ。
母上もそれを知ってるのかな、踊り場の肖像画は見るたび嬉しそうになっていく。
「そうだ母上、聞いてください。『暁の王女』は八株になりました。僕たちの結婚式のときにはもう少し増えてると思います」
絵の中で微笑む母上が「良かったわね」って言ってくれたような気がした。
階段をのぼって二階についた僕は一つの扉を叩く。中からの返事を待ってゆっくり開けた。今のパートリッジ本邸にはどこにも蝶番の壊れた扉なんてないけど……このクセはあと何年かは抜けそうにないだろうなあ。
「おはよう、グレアム!」
部屋からは春の暖かい風が吹いてくる。サラは大窓の向こう、バルコニーからこちらを見ていた。薄紅色のドレスがとってもよく似合ってる。ああ、可愛いな。なんて嬉しいんだろう。僕も自然に笑顔になっちゃうよ。
「なにか見える?」
僕が聞くとサラは下の方を示した。近寄って覗き込むと、玄関前に馬車が停まっているのが見える。これから競馬場へ向かう僕たちのために用意されたものだね。“エレノア”がモート邸へ行き来するためにつかっていたあの馬車は、手入れがいいから今もピッカピカに輝いてるよ。
「私、屋敷に馬車が来るときはとても嬉しかったけど、そのぶんだけ見送るときは寂しかったの。だけど今は去って行ったりなんてしないでしょう? ものすごく幸せだなって思ったら、ずっと馬車を見ていたくなって」
ときどきサラはちょっと妙なことを言う。
「……えーっと……お客さんにもっといてほしいなって思うとき、あるよね」
困った僕がなんとか言葉を返したら、サラはすべてを分かってるような静かな笑みを見せて、背伸びをしてキスをくれた。そういうときのサラは昔を懐かしむ空気感をまとってる。これもいつものことなんだ。
でも、すぐに元通り。晴れやかな顔で笑って僕の手を取るよ。
「さ、行きましょう。御者さんも馬も待ちくたびれてしまうわ。そうそう、新しいイベント案を考えたのよ。馬車の中で聞いて!」
僕がうなずくと、サラは機嫌よく歌い出した。
「ららららーららー、らららららーららー」
いつものあの曲、僕とサラの思い出のワルツだ。
歩き出したサラを止めるようにして、僕は歌に合わせて小さくステップを踏んだ。馬車を待たせてるのは分かってる。でも、少しだけ。
サラは驚いたように目を見開いたけど、すぐ同じように動き出してくれる。こうして一緒にいられるのは、なんて嬉しいんだろう。
降り注ぐ陽射しの中、ターンの途中でサラはふと踊りをやめた。そのまま僕にもたれかかってくる。
「これからもっと忙しくなるわね。騎手さんたちの育成や、馬の調達もある。グレアムには領主としての仕事も待ってるでしょう?」
「うーん、そうだね。頑張れるかな……」
ため息でもつきそうな調子で呟いたら、腕の中でサラが「ふふ」って小さく笑う。
「心配しなくても平気よ。私は物語の続きを知っているもの」
「物語? なんの?」
「私たちの物語よ!」
サラは顔を上げた。浮かんでいるのは、お日さまみたいに明るい笑顔だ。
「これからの私たちはね、どんなに大きな山があっても絶対に離れないの。手を取り合って進んで、乗り越えたあとは一緒に笑顔で踊るのよ!」
僕は胸がいっぱいで何も答えられなくなった。代わりにサラの手をぎゅっと握りしめる。
そうだね、僕たちならきっとなんでもできるよ。
この世に魔法なんてない。
でも、僕だけにかかる魔法はある。
繋いだ手のぬくもりが、その証明だよ。
(イラスト:むなかたきえ様)
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