夜はすぐそこ
この日に見た夢はよく覚えてる。
僕がパートリッジ本邸の庭で『暁の王女』が花開くのを待っていたら、後ろから声が聞こえたんだ。
「もうすぐ咲くのね!」
振り向くと目を輝かせるサラがいた。十歳のサラじゃなくて、十六歳のサラだ。
僕は返事をしようとして……ふと気がついた。
今の僕はどんな格好をしてるんだろう。“エレノア”? それとも……“グレアム”?
僕は自分の格好を確認してから返事をしようと思った。
そうしたら、目の前には漆喰で彫刻された花模様が広がっていたんだ。
最初のうちは自分がどこにいて、何をしてるのか分からなかった。だってあたりは『暁の王女』の香りでいっぱいだったんだよ。もしかしたら本邸の庭にいるのかなっていう気がしたけど、庭に漆喰の花模様なんて無いし……。
ぼんやりしたまま考えて、僕はようやく「見ているものは、別邸の天井だ」って気づいた。庭にいたのは夢だったんだね。じゃあ、この香りは? 僕はまだ夢の中にいるのかな?
……いや、違う。夢じゃない!
勢いよく起き上がった僕が振り返ると、『暁の王女』は引き出しタンスの上で見事な薄紅色を見せていた。
カーテンの隙間から届いた朝日に照らされて、まるで花自身が輝いてるようにさえ思えたよ。
「咲いた……!」
本邸を出る時には硬かった蕾、それがこの大事な日に開いたんだ!
ありがとう! 本当にありがとう!
なんだか嬉しくて堪らなくて、僕は部屋の窓を思い切り開け放った。空気は冷たいけど今日もとってもいい天気! 部屋に光がたくさん入り込んでくるよ!
リンゴン、と鳴り始めたのは、新年を祝う鐘だ。向こうの通りの馬車にはどれも豪華な飾りがついてる。道を行く人もみんな着飾ってるよ。いつもと違う空気感、新しい年の始まりだね!
じゃあ、僕も始めようか!
身支度を整えて、まず最初にやったのは水汲みだった。
これは日課だからいいんだよ。
別邸のメイドも執事も特に何も言わなくなってきたけど、廊下ですれ違った姉上は、腕まくりの僕を見て少し眉をひそめた。目は「こんな日にまで手伝いをしなくても」って雄弁に語ってる。でも僕が、
「姉上、新年おめでとう!」
ってウキウキしながら言ったら、
「おめでたいことですわね」
って返してくれたんだ。
……まさか僕のことを言ってないよね? って気がついたのは、部屋に戻ってからだったけど。
そうそう。食事もね、今日はいつもより少し豪華なんだ。なにしろ新年だもんね。ああ、お祝いの料理、美味しいなあ、嬉しいなあ!
本邸のみんなも、今日は特別な料理を食べてるかな。食べてると、いいな。
昼食が終わると、姉上はメイドと一緒に部屋へ向かった。出かける準備を始めるんだね。
僕はもう少しあとにしようかと思ったけど、執事に「グレアム様も、どうぞお仕度を」って促された。せめて食後の皿くらい片付けても良かったんだけど、言われたからには仕方ない。
部屋へ戻った僕は借りてきた服を取り出した。なめらかな布がくすぐったいな。だけどいつもの服と違って生地がしっかりしてるぶん、気持ちもちょっと引き締まった気がする。
僕自身の準備が終わったら、あとは最後の仕上げだ。
『暁の王女』を花瓶から取り出して、水に浸した布で茎を覆う。咲き具合は七分くらいだし、見た感じとっても元気だけど、花びらを落とさないよう慎重にね。で、来たときと同じように革袋へ入れて……これでよし。
さすがに胸から革袋を掛けて王宮へ入るのは問題がありそうだから、紐を短くして腰に結んだ。これなら飾りってことで許される! ……はず。駄目かな? でも、『暁の王女』は絶対に必要なんだ。とにかくこれで行ってみて、駄目だったらまた考えよう。
「グレアム様、お仕度はいかがでございますか」
メイドに呼ばれて、僕はハッと顔を上げた。
窓から差し込む光はだいぶ色を濃くしている。おっと、意外に長く考え込んでたみたいだ。
「できてるよ。いま行く!」
王宮の宴は夕方も過ぎたころから始まって、夜遅くまで続くらしい。参加者が到着する時間はまちまちだけど、姉上は少し早めに行くって言ってたもんね。
僕が居間へ降りていくと、準備を終えた姉上がゆったりと椅子に腰かけていた。僕は思わず声をあげる。
「姉上、素敵だよ!」
ドレスの上品な淡い紫は、暁よりもう少し前の夜明けの空を思わせる色だ。綺麗に結ってある髪はもちろん、首回りや腕回りにも小さな飾りがつけられている。
派手なじゃないのに不思議と目を引くのは、“最高の淑女”の気品がなせる技なんだろうね。
一方の姉上は僕を見て難しい顔をした。そこに含まれている感情は険悪なものじゃなくて、心配や不安みたいなものだ。
そっか。戯曲家の姉上は分かってるんだね。僕が着てるこの服が、どの作品の、どんな役の衣装なのかって。
だから僕は姉上の前で両手を広げてみせた。
「この服さ、まず見た目が気に入ったんだ。そうしたら由来も良かったんだよ。なんていうか、今の僕にはすごくしっくりくる気がしてさ。……どう思う?」
そうしたら姉上はふっと肩の力を抜いて、
「お前が気に入っているのなら……そうですわね、十分だと思いますわ」
なんて言ってくれた。
腰に下げた『暁の王女』のことに触れなかったのは、姉上の優しさなのかもしれないね。
それからいくらもしないうちに執事が居間へ来て、馬車が到着したと教えてくれた。
パートリッジ別邸には馬車がない。借金の返済が滞ったときに持って行かれたからね。だから馬車や御者さんは、姉上曰く「ある方からご厚意で貸していただく」んだって。
確か前にも姉上は借り物の馬車と御者さんで本邸へ戻って来たよね。もしかしてそのときと同じかな?
なんて思いながら姉上と一緒に玄関へ到着すると、待っていたのは落ち着いた茶色の車体だった。横に立ってる御者さんも含めて見覚えがあるよ。やっぱり同じ人が貸してくれたんだね。
馬車には姉上が先に乗り込み、僕はそのあとに続いた。内部の座席は上品な深い色合いで、モート家のピッカピカの馬車にも劣らない乗り心地の良さがある。派手さは向こうの方が上だけど、お金のかけ具合は絶対に劣ってないね。なんて思いながら周りを見回していた僕の目は、窓の脇で止まった。
開かれたカーテンをまとめてる金具には丁寧な装飾がほどこされてる。そこにあったのは蝶と花の意匠で……。
……そっか、なるほど。
馬車が動き出した。
車輪が規則正しく音を立てる中、僕は姉上の横顔に問いかける。
「あのさ。姉上って、ロナ・エグディなんだよね?」
姉上は顔を動かさず、目だけを僕へ向けた。
「それがどうかして?」
「ううん」
僕が微笑って首を横に振ると、姉上は何も言わずにまた視線を外に向ける。白い手袋に包まれた手は、薄紫のドレスの膝にゆったりと置かれていた。
――さあ、王宮が見えてきた。夜はもうすぐそこだよ。




