幕があがるよ
扉の向こうでは、左右に一人ずつ女性が立っていた。
どちらも手には紙の束を持っている。
「お待たせしました。さあ、中へどうぞ」
柔らかい声が響くと、待っていた人たちが動き出した。整然と中へ吸い込まれながら、順に紙を受け取っていく。それを見た瞬間に顔をしかめる人もいれば、「やった!」って飛び跳ねる人もいた。
なるほど、あれが座席番号の紙なんだ。
この仕組みは道中にニコールから聞いていた。座席の番号は入場する際に二人の係がランダムに番号を配る。誰がどこに座るかは、この段階まで分からないんだって。
公平なやり方だと思うよ。
使用人の間にも上下関係はあるけど、こうして直前に配布すれば“いい席”の取り合いも起こらないもんね。
この小さな工夫ひとつ取ってもドネロン伯爵の人柄が見える気がするな、って僕は思ったんだ。
周りの人たちが少しずつ進んで行って、ついに僕たちの番がやってきた。
少し緊張した表情のニコールが女性から紙を受け取って、パッと顔を輝かせる。
「一列目の中央!」
観劇をほとんどしたことのない僕でも分かるよ、それはすっごくいい席だよね!
やった、って互いに手を打ち合わせたあと、僕はニコールの後に続いて劇場の中を進む。
あ、そうだ。周囲の人たちの邪魔にもなるから帽子は脱いでおこう。ここまで来たらきっと他の人も僕の顔なんて見ないはずだもんね。
それにしても立派な建物だなあ。
ドネロン伯爵はわざわざ自分の屋敷の一部を改修して、こんな劇場を造ったんだね。
壁際にはいくつも明かりがあって、象牙色の壁に施された金色の蝶と花を照らしてる。
座席は深い紅色のビロードで、とっても立派だ。僕たちの座席に到着して座ってみたら、僕の部屋の椅子よりずっと座り心地が良かった。
劇場に入ったときからどこからともなく音楽が流れてきていて、どこからなんだろうって僕はずっと不思議だったんだ。でも、ようやく分かった。舞台と客席のあいだが低くなってて、ここに奏者さんたちがいるんだ。前の方に座ったことなんてなかったからこんな場所があるなんて知らなかったよ!
珍しくてしばらく覗き込んだ後に席に戻ったら、ニコールがくすくすと笑ってた。うう、子どもみたいだったかな。
改めて椅子に座って、青い幕の下りた舞台を見ながら僕はどきどきする。あそこで役者さんたちが演じるんだね。まるで手が届きそうなくらいじゃない? すごいなあ、本当にいい席だなあ、ありがとうニコール!
ちょっと子どもみたいだとは思うけど、そわそわきょろきょろ辺りを見回していたら、不意に劇場内の明かりが消えた。
ざわついていた劇場内もすっと静まる。
まだ幕の上がらない舞台に明かりを持って現れたのは、灰色の髪を後ろで結んだ一人の男性だ。すらりとした体を上品な衣装に身を包んでることといい、外見から推察できる年齢といい、きっとあの人がきっとドネロン伯爵だね。
そうして彼は舞台中央に立って、朗々とした声で言ったんだ。
「皆、いつもありがとう。今宵は日々の忙しさを忘れて楽しんでほしい。――さあ、麗しき演劇の世界へ旅立とう!」
周囲から歓声があがり、拍手が巻き起こる。僕も大きな拍手をした。ドネロン伯爵が僕を見たような気がしてドキッとしたけど……まさかね。ドネロン伯爵の表情は変わらなかったし、なにより客席は暗いから顔の判別なんてできないはず。きっとただの見間違いだよね。
そんなふうに考えていたら、舞台の端がほんのりと明るくなった。そこには一人の吟遊詩人が立っていた。
「ようこそ、皆様! 遠い所よりこの場へ足をお運びくださいましたこと、心より感謝申し上げます!」
吟遊詩人の声が響き、みんなが息をひそめる。
だけどそれはただの沈黙ってわけじゃない。これから始まる物語への期待、みたいな熱気を感じるんだ。
僕が座ってるのは客席の最前列だからね。舞台に向けて押しよせて来るその空気を感じて、思わず手を握りしめたくらいだよ。これを一身にあびる役者さんたちってすごいなあ。
「これより皆様をご案内しますのは、今ではない時間、ここではない場所でございます!」
吟遊詩人が持っていた楽器をかき鳴らすと、舞台の幕がゆっくりと上がっていく。
そこでは砂色をした王宮を背景に、鮮やかな異国の服を着た人々が思い思いに過ごしていた。
端にある井戸の前で二人の子どもがしゃがみこんで何かをしていたけど、そのうちの一人、緑の服を着た男の子が叫ぶ。
「ねえ、ラジュワー。今度は追いかけっこをしようか!」
薄紅色の服を着たラジュワーが「うん!」と言って立ち上がる。
「この前はムダルが追いかける役だったから、今日は私が追いかける役をするわ!」
「ようし、絶対つかまらないぞ!」
叫んだムダルが走り始め、ラジュワーが追いかける。二人は歓声を上げながら舞台を走り回り、反対側の植え込みの前で立ち止まった。
そこでムダルが「楽しいね」って言って、ラジュワーが「うん」って答える。
「ねえ、ラジュワー。僕たち、大人になっても一緒に遊ぼうね!」
「もちろんよ! 私もムダルと遊ぶの大好きだから、ずうっと一緒にいられたら嬉しいもの!」
「じゃあ僕たち、大きくなったら結婚しようよ、そのとき僕は、両手いっぱいの花束を持って会いに行く!」
「待ってるわ!」
僕は『約束の花束をあなたに』のあらすじを知っている。
前にサラが教えてくれたからね。
主人公の王子ムダルは、商人の娘ラジュワーと仲良しだ。
子どもの頃に「大きくなったら結婚しよう」と約束した二人だけれど、やがて身分の差を思い知る。
大人になったラジュワーは“悪女”を演じて誰の求婚も受けつけなくなるけど、ムダルだけは諦めずに求婚を続ける。ムダルは最後に“約束の花束”を渡してラジュワーの心をつかみ、ついに周囲も二人のことを認める。そんな物語。
この先にはつらくて寂しいことがあるというのに、舞台にいる二人の子どもは暗い未来に思いをはせることなんてなくて、今と同じ楽しい明日が来ることだけを無邪気に信じてる。
それが昔の僕とサラの姿に重なって見えて、なんだか、胸の奥が、ギューってなるんだよ……。
どうかこのままの時間で止まってほしい。
先になんて進まないでほしい。
なんて、そんな勝手な僕の祈りなんて当然のように通じない。
物語は進んで、物語の中の時も進む。
次に出てくるのはラジュワーの父親。
商人だった彼は王宮をあちこち巡り、高官たちの秘密を握ったり、付け届けをしたりして末席とはいえ官職を得た。
ラジュワーの家は立派な屋敷に変わり、門の前には毎日のように馬車が並ぶ。
そうして子どもだったムダルは立派な青年へ、ラジュワーは美しい娘へと成長して、ここから二人のすれ違いの日々が始まるんだ。




