31・2悪役令嬢だった
サロン蝶の間はご婦人、ご令嬢、紳士たちで溢れかえっていた。ちょうどそういう時間帯のようだ。
一歩下がって歩くラルフと広い室内をぐるりと回る。
立ち話をしているグループのそばで、つい、と飲みかけのグラスが差し出された。持ち主のご婦人は、
「ごめんなさい、ちょっと持っていてくださらないかしら? ドレスを直したくて」と言う。
なぜ私?と思いつつも、確かにご婦人の胸元が乱れていたので受け取る。
と。
ぱしり、とグラスを持つ手を払われた。
グラスが飛んで行き、誰かのドレスに当たって床に転がる。
悲鳴、それから静寂。
ドレスと床に広がる赤い染み。
訳がわからずにドレスの主を見ると、呆然としているのはジュディットだった。
「アンヌ殿! お怪我は?」
ラルフの焦りをにじませた声に我に返る。
「私は……」
大丈夫、と最後まではいえなかった。
「あらあらまあまあ」と大きな声で遮られた。
「ラムゼトゥール家のご令嬢が随分と酷い意地悪をされるのね」
意味が分からずに声の主を見る。見たことがある。どちらかのご婦人。クラウスの取り巻きの一人だ。
本当ね、なんて酷い、なんて声が追随する。
「宰相のご息女とはいえ、蝶の間の約束はお守りにならないと」
そうね、そうねとの追従。
ラルフが
「今のは事故です!」
と前に出たが、
「あら、そんな風には見えなかったわ」と皆口々に言う。
「ねえ、ジュディット」
最初のご婦人が厭らしい目でジュディットを見る。
「……私はよくは……」
消え入りそうな声の主人公。目を伏せ私を見ようともしない。
私。嵌められたんだ。
なんでか分からないけど、そうとしか考えられない。
「張り紙はもうないけれど、お約束は健在なのよ。アンヌローザ様はひと月、王宮への出入りは禁止になるわね」
得意げに言うご婦人。
ん?
王宮出入り禁止?
婦人の周りの女性たちもうなずいている。そういえば春にそんな張り紙があったっけ。
これは。もしかしなくても棚からぼたもちってやつじゃない? 王宮へ来なければ、主人公に会わなくて済む。
ルクレツィアとは、なんとかうちで会えるようにすればいい。
「わかりました」
素直にうなずくと、意地の悪い表情をしていたご婦人は意外そうな顔になった。
「わざとではありませんが、ジュディット様に飲み物をかけてしまったのは事実です。お約束とやらに従いましょう」
ジュディットに向き直る。
「度々ドレスを駄目にしてしまって、本当にごめんなさい。弁償は致しますし、それとは別にお詫びも致しますね」
主人公は俯いたまま、何も答えない。
こんなシーンがシンシアの進行表にあったな、と突如思い出した。場所はサロンじゃないし、時期はもっと先だったはずだけど、私が主人公にワインをかけて嘲笑うのだ。
今起きた事があのシーンだとすると、このあとクラウスが颯爽と現れて、戸惑っている彼女に声をかけるはずだ。
……って、声をかけるかな?
あの人、ゴトレーシュの意のままにはならないと言ってた気がする。
まあいいや。
とりあえず私は今日はしっかり持っていたハンカチを彼女の手に握らせ再度詫び、サロンの面々には騒ぎを起こしてしまったことを丁寧に謝罪して退出した。
終始ラルフが何か言いたそうにしていたけど、黙っていてもらった。
サロンから離れるとラルフが床に膝をついた。
「申し訳ありません!」
「やめて!」
慌てて彼を立たせる。こんなところを誰かに見られたら、またひと騒動起こりそうだ。
それになにより彼は私の命の恩人だ。膝をつかせるなんてさせられない。
「ですが私がサロンが苦手だと言ったばかりに!」
「いいのよ。多分、こういう役回りなの。きっと逃れられないのよ」
すっかり忘れぎみだったけれど、この世界で私は悪役令嬢だ。
最近クリズウィッドとの結婚や、ルクレツィアの片思いのことばかりを気にして、主人公への警戒が薄れていた。だから私のミス。
それに薄れていなかったとしても、私はどう足掻いても悪役令嬢のレールから外れることが出来ないのではないだろうか。
そんな気がしてきた。
「とにかく主人に取り成してもらいます」とラルフ。
それはそれで危険な予感しかしない。
私を陥れたのは、クラウスの取り巻きたちだ。きっと舞踏会場から彼に抱き上げられて退出したことが気に食わないから、こんなことをしたのだろう。
もうこれ以上、彼に関わってほしくない。
「いいのよ。火に油を注ぐだけだもの」
そう言うと、ラルフも分かってはいるのか、それ以上は何も言わなかった。
「あなたは気にしないで。私はラッキーだと思っているから」
「え?」
きょとんとしているラルフに微笑みかけてから、通りかかった侍女を呼び止めた。
もう一度ルクレツィアと話したい、と。
まずは彼女に一連の出来事を報告して、それからひと月の休暇だ。
王宮にいなければ、悪役令嬢として活躍もできないもんね。




