23・4第一歩
「ご、ごめんなさい」
自分の仕出かしたことの重大さに、心臓がバクバクして、声が上ずる。
ジュディットの表情が驚きから徐々に悲哀に変化している。
そりゃそうだよね。初めての社交界でドレスに盛大な赤い染み。しかもドレスは淡い黄色だ。
どうしよう。こんなときに限ってハンカチを持っていない。先ほどまでいた席にうっかりおいてきてしまった。
そうだ。胸の底上げにタオルを詰められている!
開いた胸元に手を突っ込もうとした。その腕をがしりと捕まれる。
クラウスだった。
「連れが大変な失礼をした」
彼は私の手を離すと、優雅にポケットからハンカチを取り出して、溢れたワインで汚れたジュディットの手を優しく拭った。
彼女は真っ赤になって硬直している。
「ドレスは私が弁償しよう」とクラウス。
なんでそうなる! あなたは関係ないじゃない! 慌てて口を挟む。
「私がぶつかったのですから、あなたはお気になさらずに!」
「いや、ラムゼトゥールからの弁償はお困りになる。そうですよね、伯爵」
クラウスはそう言ってジュディットの隣に立つ老人に顔を向けた。彼がゴトレーシュ伯爵だったらしい。目をみはってクラウスを見ていたが、私を見てラムゼトゥールと呟いたあとに、慌ててうなずいた。
そして娘に声をかける。
「ジュディット。今日はもう失礼しよう。ジュディット?」
ジュディットはぽわんとした顔でクラウスを見つめている。
これは完全に恋に落ちたに違いない。
「ドレスのことが余程ショックのようだ」とクラウス。
いや、そうじゃないよね?
え? 女たらしのテクニック?
「馬車まで送ろう」
あ。ゲームのセリフだ。驚いた。目が腐っているのか、手練れなのか、と図りかねたよ。
「あなたも一緒に」とクラウスは私を見た。
え? 私?
驚いて瞬くと、クラウスはうなずいた。
ゲームとは違う。
ゲームではなくたって、どう考えたってお邪魔虫だよね。
伯爵が、宰相のご息女には、と渋っている。だよね、私はいらないよね。
一緒に行ったら完全に恨まれて、悪役令嬢まっしぐらなのじゃないだろうか。
クラウスは再びジュディットの手をとった。その手をゴトレーシュの腕にかける……って、え? なぜそうなるの? ゲームならば優雅にエスコートする場面だよね?
ジュディットも伯爵も、驚きの表情だ。
「では行こう」
クラウスは手近な青年に、自分と私がゴトレーシュ親子を見送りに行くと、クリズウィッドに伝えるよう頼むと、澄ました顔でさっさと一人で歩き始めた。
仕方ないので、呆然としているジュディットに謝りの言葉をかけながら、私たちも後に続いた。
◇◇
親子の馬車を見送って、さあ広間に帰ろうとしたところで気がついた。いつも離れて控えているクラウスの従者がいない。
二人きりだ! まずいぞ!
取り巻きたちに見つかる前に逃げる口実を考えないと。
でもその前に。
「助けてくれてありがとうございました」
ちゃんとお礼は伝えないといけない。
だけどクラウスは呆れ顔だ。
「……ハンカチがないからって胸に手を突っ込んで底上げのタオルを取り出したら、クリズウィッドが泣くぞ」
「なんで分かったの!」
底上げタオルのことを!
「分かるに決まってる」
クラウスは深いため息をついた。
「普段と夜会とでは胸のサイズが違う」
「……本当に修道士だった?」
「修道士でもわかるレベルの違いだ」
「私じゃないわよ! 侍女がいつも勝手にやるの!」
「問題はそこじゃない。どこの世界に胸に手を突っ込む令嬢がいる」
「ここに」
返事はまたため息。あれ。リヒターといい、私はため息をつかせるプロだろうか。悪気はないんだけどな。申し訳ない。
「いえ、冗談よ。ごめんなさい。気が動転してしまったの。止めてくれて助かったわ。本当にありがとう」
クラウスはうなずいた。
「あなたはドレスをどうする?」
「ドレス?」
「少し飛んでいる」
指差された先を見ると、ウエストのすぐ下のスカートに赤い小さなシミが幾つかあった。両手を前で重ねてみる。
「隠れるわ。もっともこれくらい、目立たないしね」
「では広間に戻るか。次はウェルナー探しだ」
もういいかも、と思う。主人公は帰路にある。今日はもう何も起こらないだろう。
……私も帰ってふて寝をしたい。
でなければリヒターに会いたいな。
胸からタオルの話は絶対に笑ってくれるだろう。
だけどその前に、ルクレツィアにまずいことになったと報告をしなきゃ。ショックを受けなければいいけれど。
結局、逃げるきっかけを失い、二人で広間に向かう。
ついでに思っていたことをクラウスに言ってやろう。
「でもあなたも、どうかと思う」
「何がだ」
「だって完全に私は邪魔者だし、彼女はあなたにエスコートされたかったはずよ」
「で、私の取り巻きたちの餌食になってしまえ、と?」
クラウスの顔を見上げる。
「……それを気遣ったの?」
翠の瞳に見返される。
「それに、それではゴトレーシュの思う壺だ」
「どういうこと?」
「可愛らしい娘を私かジョナサン、ルパート辺りと結婚させて、権力の中枢に返り咲く予定」
「そうなの?」
「男連中はみんな知っている」
なるほど。ゲームの裏にはそんな設定があったのか。
クラウスは今月昇進をして、補佐にウェルナーがついた。父の意向を無視しての人事らしく、父一派はひどく憤慨をしている。
ウェルナーはクラウスの補佐についたことで有望株との見方が広がり、女性からの人気が急上昇中だ。
これでゲームと同じ状況になった。
だけど主人公にワインをかけたのは私になってしまったし、クラウスはエスコートをしないし、微妙に異なる点もある。
やはりゲームと現実の差なのかな。
どのみち、クラウスルートで確定だろう。ジュディットは恋に落ちた顔だったもの。
そして私は悪役令嬢として輝かしい第一歩を踏み出した……。
なんてことだ。
そんな風にひとりで落ち込んでいると。
「アンヌローザ!!」
私の名を呼ぶ声がした。クリズウィッドが前から足早にやってくる。
そばまで来るとナチュラルに私の手をとって指先にキスをした。
なんで今? 今日はもう、会ったときにしたよね?
やっぱり距離を詰められている。
「大丈夫だったか? 聞いたよ、ゴトレーシュ伯爵の娘とトラブルになったって」
心配そうな顔をしている。
「ごめんなさい。私が彼女にぶつかって、ドレスがワインで汚れてしまったの。でも公爵が間に入って助けてくれたわ」
クリズウィッドは手を離さないまま、友人を見た。
「世話をかけたな、すまない」
「いいや。お前は大使と一緒だと聞いていたからな。ドレスは私の方で弁償すると話してある。ラムゼトゥールでは火種になりかねない」
「そうだな、助かる」
クリズウィッドはうなずくと、私に、広間に戻ろうと言った。
「……あの。手を……」
離してくれ!
彼はちらりと私の手を見てから、離してくれた。よかった!
まったく、何を考えているのだか。
案外リヒターの言う通り、気に入られているのだろうか。
それとも婚約者らしく振る舞おうと努力してくれているのだろうか。
うん。後者だな。
後者だと思いたい……。




