9・3失恋
屋敷に帰り公爵令嬢に戻る。
水差しからコップに水を注ぎ入れ、ガーベラをいけた。
三本の花。
リヒターなんて、顔も知らない。名前が本当なのか、どこに誰と住んでいるのかも。
知っていることは、ケンカに強くてごろつきが彼を避けて、手はごつごつしていて傷があって、お金に細かくて、ガサツで口調は汚くて。
だけど、優しい。
なんだ。
知っていることのほうが多いや。
全然、好みじゃないのに。
私が好きなのはウェルナー・ヒンデミットみたいに穏やかで、知的で、紳士で優しい人。
リヒターなんて最後のひとつしか当てはまらない。
もしかしたら、あれかな。つり橋効果ってやつ。スリルのドキドキと恋のドキドキを勘違いしちゃうやつ。
出会ったときなんて、スリルのドキドキと、走りすぎて息が上がったドキドキと、ダブルだったもんね。
それならいいな。
勘違いなら。
だってリヒターには恋人のような相手がいるのだから。
私がその人よりいい生活をさせてあげると約束したら、私の『ひも』になってくれるのかな。
でも私、親のお金はたくさんあるけど、自分のお金はない。無理だよね。
リヒターの年が本当に三十なら、私をガキと笑って当然なんだろうな。私は美少女だけど、色気なんてこれっぽちもない。それぐらいの自覚はある。
「お帰りなさいませ、アンヌ様」
リリーがやって来た。
「あら? どうされたのですか、そのお花」
「花売りの少女がいたの」
「そうですか。花瓶を持ってまいりますね」
「いいの、これで」
立派な花瓶より、コップのほうがリヒターらしい。
ぽたぽたと涙がこぼれる。
散々泣いたのに。
「どうされました?」
リリーが駆けよってくる。
しゃくりあげてしまって声にならない。
首を横に振るのが精一杯。
好きだと気づいたときには失恋決定だなんて。
あんまりだよ……




