番外編・シンシアとウラジミールの幽霊
『ウラジミールの幽霊』はシンシアのお話。
『その後のお話』はラルフのお話。
お休みなさいませと頭を下げたニンナに、はっとする。
「そうだわ、明日の準備はしてあるかしら」
「整っております」
ニヤリとするニンナ。
「ありがとう。身重なのに悪いわね」
「お気遣いありがとうございます。では失礼致します」
パタリと閉まる扉。
読みかけだった本に栞を挟んで枕元に置き、ベッドに横になる。天蓋を見つめ、お兄様のことを思う。明日はウラジミールの誕生日。彼の好きだった百合の花を用意してお墓参りをする。命日はクラウスと一緒だけれど誕生日は私だけで行きたい。なぜそう思うのかは自分では分からないけど、エドの同伴も断るくらい、私はひとりで行きたいらしい。
罪悪感かな、と思う。
私はお兄様を救えなかった。
涙が頬を伝う。
今の私はとても幸せだけど、それはお兄様の犠牲の上に成り立ったものだ。お兄様だって幸せになりたかっただろうに。
目を瞑り、お兄様のことを考える。特別に仲がいい、なんてことはなかった。兄妹仲は普通。でも引きこもりの妹に、お兄様は優しかった。無理やり外に連れだそうとする母から守ってくれた。
だというのに私は彼を守れなかった――。
「シンシア」
目を明ける。名前を呼ばれたような気がする。
「シンシア」
まただ。聞き覚えのある懐かしい声。
跳ね起きる。と、ベッドの縁にウラジミールお兄様が腰かけていた。
「……お兄様なの?」
「ああ。久しぶり」
燭台の揺れる炎に照らされているのは、間違いなくお兄様だ。夢を見ているのだろうか。
「驚いただろう? 僕自身もとても驚いている」
そう言うお兄様の表情は穏やかで、驚いているようには見えない。
「ずっと見ていた。だけどまた言葉を交わせる時が来ようとは」
「『見ていた』?」
「ああ、死んでからずっと。どうやら僕はこの世界に未練があって、離れることができなかったらしい」
「お兄様……」
「死にたくなかったよ」お兄様が私の目を見て言う。「それから腹違いの兄のことなんて知りたくなかった。知らなければ父と母を好きでいられた。悩むことも、訳の分からない罪悪感に苦しむこともなかった。どうせ死ぬのなら、醜いことなど知らないままが良かった。
それにどうして助けてくれなかった。僕が死ぬことを知っていたのだろう?」
「……ごめんなさい」涙がこぼれる。「苦しめたかったのではないし、お兄様を助けたかった。本当よ」
お兄様のほの暗い目がじっと私を見つめている。
「僕より、美しい兄にそばにいてほしかったんじゃないの? だから僕を見殺しにした」
「違うわ!」
「違うと言うのなら、シンシア、君も幸せにならないでくれ。僕は不幸せなまま死んだ」
お兄様を見る。救えなかったお兄様。ゲームが始まるまでに何かが起きて屋敷からいなくなると知っていたのに。
「お兄様……」手をぐっと強く握る。「シンシアは幸せになります。自分のために。それから私を想ってくれるクラウスやニンナ、アンヌローザやルクレツィアのために。お兄様のお気持ちに添えなくてごめんなさい」
お兄様への罪悪感はきっと一生消えない。だけど私は私の人生をしっかり生きるのだ。
「そうか。シンシアは強くなったのだね」
「お兄様を助けられなかったから、二度とあんな思いをしないように頑張ったのよ」
「そうだね。見ていたよ。――できることなら、生きて見たかったけど」
お兄様の顔がわずかに緩んだ。
「思うんだ。最初から兄がこの屋敷にいたら。もしくは彼の存在を知ったあとにここへ招いていたら。僕はきっと彼を妬むことしかできなかっただろう。何もかも、彼は破格だ」
「……破格なのは、そうね」
「生きていたときは兄と話したいと思っていたけど、会わなくて良かったのかもしれない」
「クラウスはお兄様に会えなかったことを後悔しているようよ」
「知っているよ」
お兄様はさてと言って立ち上がった。
「よく分からないのだけどね、僕は生まれ変わるらしい。神様と名乗る人にそう言われた」
生まれ変わる?
それは転生だ。
「本当に神様ならば、生まれ変わる前にシンシアと話をさせてほしいと頼んだんだ。もう行かなくてはいけない。
さっき言ったのは全て本心だよ。何も知らないでいたかったし、死にたくなかった。シンシアだけ幸せになるなんて妬ましい」
そう言ったお兄様はにっこりした。
「だけど強くなった君にほっとしている。幸せになってほしいとも思っている。こちらも本心だ」
「お兄様!」
止まっていた涙が再びぼろぼろとこぼれ出す。
「ただ、ね。君の相手があのエドワルドという男なのが不憫だ。あのねじ曲がった愛情表現は生まれながらのようだから、きっと結婚しても翻弄され続けるよ」
「いいの。そんなところも好きだから」
やれやれとお兄様は頭を振った。
「幸せに、シンシア。シンシアも新しい僕が幸せになれるよう祈ってくれ」
「もちろんよ」
お兄様が私の頭を撫でた。ずいぶん小さい時にしてもらって以来だ。
「あ……」
ありがとうと伝えようとすると、お兄様の姿は消えていた。
◇◇
「お寝坊ですよ、シンシア様」
そんな声が聞こえて目を開ける。明るい部屋。ニンナが張り切って動く衣擦れの音がする。
朝のようだ。お兄様に会ったのは夢だったのだろうか。
――そう、夢に決まっている。罪悪感を軽くしたくて都合のよい夢を自ら紡ぎ出したのだ。
「昨晩、私が出たあとに何かされましたか」
そんな問いかけに、起き上がりニンナを見る。
「いいえ、何も」
「そうですか。百合の匂いがするのですけど」
「百合?」
「ええ。私も感傷的になっているのかしら」ニンナが動きを止めて、鼻をくんくんさせる。「でもやっぱり薫っています」
「……お兄様が会いに来たのだわ」
ニンナが私を見た。
「それは良かったですね! お祝いを言いに来て下さったのですか」
「……幸せになってほしいけど、相手がエドでは心配だと言っていたわ」
とたんに笑い出すニンナ。
「ウラジミール様、よく分かっていらっしゃる!」
ニンナも、優しい。
そんなのは夢だと断じない。
だけど百合の香りがするなんて。お兄様は本当に現れたのかもしれない。
朝食に降りて行くと、ダイニングには既にクラウスがいた。立ったままマントルピースの前でラルフと話をしている。私と挨拶を交わしてもまだ、そのままだ。楽しそうな姿が微笑ましいけれど、お兄様のことを思うと幾分かの哀しさも感じた。
と、何があったのかクラウスがラルフを蹴った。足を回して太ももを。バシリと重い音。すかさず、
「何をしているのですか」
と声がかかる。ロンサムだった。剣呑な顔をしている。
「伝統ある公爵家の当主とは思えない振る舞いです」
クラウスは肩をすくめラルフに「お前のせいで」と責任転嫁をしている。
「席について下さい。食事を運べません」
しおしおと大人しく従うクラウスとラルフ。現在ラルフはクラウスの従者をやめ、本業は警備隊員で屋敷では居候という扱いだ。食事も一緒にしている。それからエドも。
「ああ、すまない、遅くなった」
そんな言葉と共にエドがやって来た。
「当主より居候が遅いだなんて。皆さん揃いも揃ってたるんでいます」とロンサム。
「今日のロンサム、やけに厳しくないか」
ラルフがクラウスに囁いたけれど、丸聞こえだ。
「頼まれましたから」とロンサム。「クラウス様を立派な当主にすることと、エドワルド様がシンシア様に意地悪しすぎないよう監視すること」
「誰にだ」と不思議そうなクラウス。「後半は賛同しかないが」
ロンサムはわずかに表情を変えた。泣き出す手前に見える。
――ロンサムはお兄様にとても忠実だった。今日の墓参の共はニンナでもエドでもなく、彼だ。
「ロンサム。もしかして」
彼が私を見る。
「昨晩、会った?」
それだけで彼は分かったらしい。
「はい」
と短い答えが帰って来た。やはり泣きそうな顔だ。
「それなら夢ではなかったのね」
『幸せに、シンシア』
耳の奥に昨夜聞いた声がよみがえる。
お兄様も、次こそは。
心の中で祈る。
終えてクラウスを見ると、視線が合った。柔らかな笑みを返される。
聡いこの人は、私がウラジミール兄に会ったと分かっているのかもしれない。
「その人は」とクラウスは言った。「私たち兄妹をよく見ているのだな。ありがたいことだ」
百合の匂いが強く薫った気がした。
◇END◇
◇おまけ・その後のお話◇
(ラルフのお話です)
家令とロンサムに見送られてルカと共に屋敷を出る。前当主が出かけるときは使用人は勢揃いしなければならなかったらしい。だがルカは非効率だと止めさせた。手が空いている者だけでいい、という指示は回を重ねるごとに緩くなり、今やふたりのみ。
俺としてはそのほうが有難い。ずらり勢揃いした使用人軍団に見送られるなどぞっとする。
立場が従者から居候に変わったのは嬉しい。俺には従者という畏まった仕事は向いていない。だが公爵邸の中では居心地が悪い。かつての同僚に世話をされるのだから。向こうだって複雑な気分だろう。
そんな中で唯一、気兼ねなく接することができるのがロンサムだ。従者としてのプライドは高く、周りに要求するレベルも高い。勝ち気で傲慢、だけどあくまで完璧な従者たらんとしてのことだ。
俺が従者だったときは厳しく指導されたし、毎日のように小言をもらった。
そんなロンサムが主の前で顔に感情を露にするという珍しいことをした。シンシア殿との謎のやり取りも気になる。
「なあ、ルカ。朝食の席のアレは何だったんだ」
隣を歩くルカに尋ねる。身分は公爵、職業はヒラの警備隊員であるルカ。職場へは徒歩出勤だ。
「ん?」
ルカは小首を傾げる。いつの間にか首元を緩めている。早い。彼は制服をきっちり着るのは好きではないのだが、屋敷内でやるとロンサムや執事たちに直されてしまう。だからいつも外に出てから着崩す。
「ロンサムは誰に、ルカとシンシア殿のことを頼まれたんだ」
ああ、と頷いたルカの美しい横顔は悲しげに見えた。
「今日はウラジミールの誕生日だ」
思わず足を止める。
「……そうか。すまん、忘れていた」
「別にラルフは覚えていなくて構わないだろ。命日の墓参はしてくれているじゃないか」
「そうだが。――ん? それとロンサムとどう繋がる。まさか……」
「会ったのではないかな。シンシアも」
戦場では、亡くなったはずの者に会う話はよく耳にする。心温まるものもあれば、心臓が凍てつくようなものもある。俺はどちらも体験したことがない。そんなものは夢か、でなければ恐怖が見せる幻影だと思っている。マルコも、ルカもだ。
だけどそのルカが、そんな事を言うのか。
「ルカの弟ならば、きっと心優しき人だったのだろうな」
ルカがフハッと笑った。
「俺の実父はろくでなしだぞ」
「そうだった」
「だがシンシアが慕う兄だったのだ、ウラジミールはきっと良い男だったのだろう。手紙の返事も寄越さない兄のことまで案じてくれるような」
「……そうだな」
ルカがちょっと寄っていく、と小さな教会に足を向けた。早世してしまった弟のために祈りを捧げるのだろう。彼とて腹違いの弟には、ずっと複雑な思いを抱いていたというのに。
「弟よ。ルカは君の手紙を存命中に読まなかったことを、ひどく後悔しているのだ」
ルカの遠ざかる背中を見ながら呟く。幽霊なぞ信じてはいないが、なんとはなしに口に出した。
『知っている』
耳元でそんな声がした。
急いで周りを見る。だが俺の周りには誰もいない。
今の声はどこから聞こえた。耳に直接囁かれたような感覚だった。
まさか……。
いや、まさかそんな。
幽霊なんているはずがない。長く戦場に暮らしたが、俺は一度も会っていないのだから。
だが今朝のロンサムはおかしかった。シンシア殿の反応も謎だった。
まさか。
もしかしたら。
俺は白昼夢を見たのかもしれない。
だけどこういうのは幻か現実かなんて重要ではないのだと気がついた。今朝、ルカはなんと言った。『私たち兄妹をよく見てくれている』だ。ほんのりと嬉しそうな顔をしていた。
「ルカを見守ってくれて感謝する」
そう言って頭を下げる。
一陣の風が吹き抜け、あとには花の薫りだけが残った。
幽霊の日(7月26日)にちなんで書いた作品です。




