番外編・シンシアの或る一日
公爵令嬢シンシアの話です。
時期は『35・ダンスレッスン』の頃より少し前になります。
「シンシア様、朝食はいかがなさいますか?」
まだ寝ぼけまなこの私に小間使いのニンナが毎朝お決まりの質問をする。
「本日クラウス様はダイニングで召し上がるようです」
途端に目が覚め背筋がシャキンと伸びる。
「もちろん、ダイニングよ!」
にこりとするニンナ。
「そのように手配してあります。さあ……」
彼女がみなまで言い終わる前にサクッとベッドから降りる。
「ニンナ! 高速でね!」
「かしこまりました」
ニンナはうやうやしく返事をすると、ニヤリとした。彼女はまだたった二十歳だけれどベテラン小間使い並みの働きをするのだ。
私がボーッとしている間に寝間着を脱がせ新しい下着を着せ、髪をとかし、私の今日の気分にあった服を着せて髪をセットする。
実はニンナの手が八本あるか、ふたりいるかのどちらかではないかと疑っている。
そしてその間に彼女が新しく仕入れた情報、主にクラウスと三従者に関するものを教えてくれるのだ。
私が彼らの周りをこそこそと嗅ぎ回っていることを、ニンナをはじめとした小間使いたちは極度の心配性ゆえと憐れんで協力してくれている。
彼女たちは、ウラジミールが事故で早世したから、私がこんな心配性になったと考えているのだ。
当たらずとも遠からず。
とにかくも今は仲良しの彼女たちの協力があるからこそ、クラウスへのスパイ活動は成り立っているのだ!
「だけれどクラウスは王宮に泊まりだったのではないの?」
昨晩はクリズウィッド殿下たちと約束があると聞いていたのだけど。
「先ほど帰っていらっしゃったばかりです。ラルフさんと一緒に。日が変わるまで飲んでいたようですよ」
どうやらクラウスはかなりの酒豪らしい。よく屋敷でもブルーノとラルフと飲み明かしているようだ。いつだったか家令が珍しくクラウスに物申していて、不審に思い耳をそばだてたら、飲み過ぎだと説教をしていた。
家令もクラウスを心配するんだ!とちょっとだけ嬉しかった。
◇◇
食堂に入るとクラウスがひとり、上座に座っていた。父は身体が動かないので部屋からほとんど出ることはない。母はクラウスがいるときの食事は部屋でとる。
「おはよう、シンシア」
クラウスが穏やかな笑みを浮かべる。
「おはよう、クラウス」
彼は初めて会った日に私に言った。
『ウラジミールを亡くしたばかりなのに、私を兄とは呼びづらいだろう。好きなように呼んで構わない』と。
ゲームでは見たことがない哀しげな表情に、私は一瞬で、こちらの兄は絶対に守ると決意した。
食事が運ばれてくる。
クラウスは驚くほどに粗食だ。朝食はひと切れのパンと野菜のポタージュ、フルーツジュース、卵料理少々。それだけを時間をかけてゆっくりと食べる。
外では修道士の習慣が抜けないと説明しているようだけど、三従者はこんな食事の量でも仕方でもないらしい。
おかしいと思い、家令を問い詰めたら白状した。クラウスは五歳の時に毒殺されかかり、代わりに乳兄弟が亡くなったという。それ以降食事が苦手らしい。
ある時、彼に出されていたチーズをつまもうとした。私としては毒味のつもりで、クラウスに安心して食べてほしくてのことだった。
ところが摘まんだその手を素早くはたかれた。クラウスは恐ろしい形相で、
「私に出されたものを口にするな!」
と叫んだ。
茫然としていると彼ははっとして、取り繕った笑みを浮かべて
「行儀が悪いぞ」
と言ったのだった……。
後になってブルーノがやって来た。クラウスに出された食事には何があっても手をつけてはいけないという。彼は、かつて起きた悲劇を繰り返したくないという思いが強いらしい。
こんな繊細なクラウスには、是非ぜひ幸せになってほしい。
そう思っていたのだけど、まさか婚約者のいるご令嬢に横恋慕してしまうとはなあ。
クラウスをちらりと見る。朝の光を浴びて、無駄にキラキラしている。ゲームの力が働いているのか分からないけど、この人はイケメンオーラが壮絶にすごい。
今はもうなくなったようだけど、彼がうちに来た当初は、夜伽に呼ばれたい小間使いたちが用もないのに彼の部屋の前を歩き回っていたらしい。
どんな女性だって、彼が本気を出せば簡単に手に入るだろうに。
まあ、アンヌローザは私が知りうる中で最高に素敵な女の子だから、好きになっちゃうのは分かるけどさ。
彼女の心は完全にリヒターさんの元にあるし、立場は王子の婚約者だし、クラウスには全く望みがない。
可哀想すぎる。
「ね、クラウス。土曜日のダンスレッスン、絶対にやるわよ。他の用事を入れないでね」
「付き合わせてすまないな」
「役に立てて嬉しいわ」
にこりと、素敵な妹らしい表情をつくる。
何でもできるように見えて、ダンスが苦手だというクラウス。どうしても教師をつけたくないと言うので二人で練習してきたけれど、多分、初心者レベルだ。
だけど。
何も知らずにゆっくりとパンを食べているクラウスを盗み見て、笑みがこぼれる。
明日はこっそり特別講師を呼んだのだ!
さすがの彼も驚愕するにちがいない。
だってアンヌが来るのだもの!
『その時』を考えると、ついニヤニヤしてしまう。
クラウスは案外生真面目だから、ダンスの練習でもなければアンヌの手を握ることもしないまま一生を終えそうだ。
だからこれは、可愛い妹からのプレゼント。
明日はたっぷり愛しのアンヌローザを堪能するのよ!
「シンシアは良いことでもあったのか?」
クラウスが不思議そうにこちらを見ている。
「やけに嬉しそうだ」
「そうよ。だけど秘密」
「気になるな」
とクラウスは目を細める。
「そのうちに教えるわ」
「楽しみにしている」
この優しい兄が、どうしてゲームエンドで姿を消すのだろう。
私が絶対にあなたを守るからね!
◇◇
クラウスがブルーノを連れて出仕するのを見送ると、その足で父の元に向かった。毎日恒例のご機嫌伺いだ。
昔は父について、好きと嫌いの二択ならば好きを選んだ。だけど前世の記憶を取り戻し、存在を隠された兄がいることを知ってからは、好きを選べなくなった。
父にも言い分はあるかもしれない。だけどクラウスは正真正銘、彼の子供なのだ。どんな言い分があろうとも到底納得なんて出来ない。
それでも父だから、娘の義務として顔は見せるようにしている。
気が滅入るやり取りをして父の部屋を出ると、従者のロンサムに会った。
ロンサムは以前はウラジミールの専属だった。今はクラウスが連れてきた三従者の教育係兼父の担当だ。
「ロンサム、ちょっとこちらに」
彼を廊下の隅に呼ぶ。
「どう? 三従者に何か変わったことはある?」
彼も私のスパイ仲間なのだ。
「ええと」ロンサムは中空をにらみ記憶を探っている。「そうそう、アレンが最近ピアノをよく弾いてますね。執事たちは良く思っていませんが、小間使いたはちはうっとりしてます」
「そ、それは」クラウスのダンスレッスンのためのピアノだ!「今度王宮の余興で披露するためらしいわよ」
「ああ、そうでしたか」
大変だ。急いで口裏を合わせなくては。
「他にはありません」
と言うロンサムを労って、自室へ戻る。
「ニンナ。アレンを呼んでくれる?」
「出かけましたよ。クラウス様のご用事だとか。戻り予定は午後です」
さすがニンナ。チェックが早い。
「では帰ったら一番に捕まえてね。ラルフは?」
「午前中はお休みだそうです。教会へお出掛けになりました」
さすが堅物。
ラルフのひとりでの休日の過ごし方は、教会で祈りを捧げるか近衛兵の訓練に参加させてもらうかの二択しかない。もてるのに。
「それなら刺繍をしようかしら」
「ご用意してあります」
ニンナの言葉にテーブルに目をやると、確かにそこに一式が用意されていた。
「さすがニンナ。ありがとう」
「シンシア様の行動パターンは把握済みです。単純ですからね」
ニコリと笑みを浮かべるニンナに、反論しようもない。
椅子に座って、一式を寄せる。中から真新しいハンカチを手に取る。
「本当にクラウスの物ってよく失くなるわね」
「全く。ハンカチやら何やら盗んでどうするのですかね」
向かいに彼女が座る。
クラウスの私物に二人で刺繍をするのだ。イニシャルとそれに隠れて通し番号を。
ゲームによれば、クラウスが殺人の嫌疑をかけられる原因は盗まれたハンカチだ。
盗まれるのを防げればそれに越したことはないのだけど、残念ながら難しい。だから何かの助けになればと通し番号を入れているのだ。
これは私の発案で、万が一お母様や使用人から外部に漏れたら困るので、ニンナと二人で秘密裏に刺繍をいれている。
クラウスは外注すると言ったのだけど、私が自分でやりたくてやっているのだ。
それに刺繍をすることは、私は好きらしい。自分でも知らなかったけれど。デザインを考えるのも楽しいしね。
◇◇
母と気の滅入るランチを済ませて部屋に戻ると、アレンがやって来た。帰っていたらしい。
表情の読めない顔で
「ご用件は」
と生意気な口調だ。いつもながら、まったくお嬢様と認識されていない気がする。
ピアノの件を口裏合わせるように話すと、彼は承知しましたと頷く。そして
「お話はそれだけですか? では私はこれで」
「待って! あのね」
もっとアレンと話したくて思わず引き留めたものの、何も思いつくことがない。
と、ニンナが斜め後ろからトレイを出した。刺繍を終えたクラウスのハンカチが乗っている。
ナイス、ニンナ!
ハンカチを手に取りアレンに差し出す。
「いつものよ」
「ありがとうございます」
受けとるアレンの手袋越しの指が私の手に触れた。
悔しいけれどたったそれだけで、ドキドキしてしまう。
「アレンさん」とニンナが声をかける。「午後はお手すきでしょうか。お嬢様が刺繍のアイディア探しに雑貨店へ行きたいそうなのですが、同行していただくことは可能ですか?」
ああもう! なんてニンナは素晴らしいの! 確かにさっきそんな話はした。
私からアレンに言えないのを、彼女は本当によくわかっている!
「ロンサムに任された仕事があります」
なんだ……。がっかり。
「それが終われば時間が取れるので、問題ありません」
やった!!
じゃなくて。
ツンな顔をしているアレン。
絶対に私をからかって遊んでいる。
じとりとアレンを見つめるが、奴は素知らぬ顔でニンナと打ち合わせをしている。絶対に絶対、奴はドSだ。私が彼の一挙一動に振り回されているのを見て楽しんでいるに違いない。
ブルーノやラルフは優しいのに、なんでこんな意地悪な人を好きになっちゃったのだろう。
……いや、私はマゾじゃないから! 単に嘘をついて誤魔化さないところに惹かれただけだから!
……多分。
アレンが、後程お迎えにあがりますと言って退出すると、ニンナがニヤリとした。
「今から湯浴みして、磨いておきますか? 薔薇水のお湯を用意いたしますよ」
「いいのよ、いつも通りで」
「いいえ! うっかりキスしたくなるぐらい可愛らしくしますからね」
「いつも通りでいいってば!」
だいたいこの平凡顔はどう努力しても平凡なんだから。
「普通に清潔感があればいいのよ」
「全くお嬢様は。男の人は『俺のためにがんばって可愛くしてくれている!』っていうのに弱いんですよ!」
「そうなの? だとしてもアレンにそんな一般論が通じるとは思えないわ」
ニンナは口を開いたものの、何も言わないまま閉じた。
あなただって同意見なんじゃない!
「だけどありがとう、ニンナ」
◇◇
今流行りの雑貨店内で、刺繍のある品物を中心に見て回る。どれもこれも可愛くて欲しくなってしまうけど、全てを買うわけにはいかない。
全てを買えるだけのお金はあるけど、そんなに買っても使いきれない。うちでタンスの肥やしになるよりも、きちんと使うひとが買うべきだもの。
何より、今日はリサーチ!
……だけど。アレンの視線が痛い。きっと買い物しないなら帰りたいと思っているのだろう。
ここへ来る馬車の中も沈黙が痛かった。
もちろんアレンにもあれこれ質問をぶつけてクラウスのことを探るのだけど、いつも成果は芳しくない。うまくかわされてしまうのだ。
そして沈黙。
痛々しさに耐えきれなくなった頃に、服装を褒められた。よく似合っているだって! 嬉しくてにやけそうになったところで、奴はニンナのセンスを褒め称えた……。
なんだこのツンデレ。絶対に絶対、遊ばれている!
「あ! 可愛い!」
思わず声をあげてしまうほど目を引いたのは、白いふわふわ仔猫のブローチ。見事な刺繍だ。クラウス用刺繍には何のヒントにもならないけど、いいわ。
鏡の前で胸元に近づけてみる。うん、いい。
その鏡の中にアレンが映った。
「お付けしてみますか?」
「そうね、お願い」
ブローチを彼に渡す。
アレンはピンを外すと、私の胸元に付けようとした。
……。
というか!
手が!
めっちゃ胸に触れている!
急激に早まる鼓動。
ただ従者にブローチを付けてもらっているだけ。いつもニンナにしてもらっていることと同じ!
だけどアレンだと思うと、無駄に緊張してしまう。
ていうか、時間かかりすぎじゃない?
「出来ました」
鏡を見る。
私の顔は真っ赤。
お嬢様の威厳ゼロだわ。
アレンは隅に涼しい顔で映っている。
ああ、もう、本当に意地悪!
◇◇
その日のクラウスの帰宅は早かった。昨日は泊まりだったからだって。
買ったばかりのブローチをつけて晩餐の席につくと、クラウスは目敏く気づいた。
「今日は雑貨店に行ったと聞いたが、買ったのはその猫か?」
「ええ」
「可愛らしい。よく似合っているな」
目を細めているクラウスは、お世辞じゃない。本気なのだ。こんな平凡顔の妹を真剣に可愛いと思っているのだから、不思議だ。
顔の美醜に関する感覚がおかしいのかとも思うけど、とんでもなく美人のアンヌを好きなことを考えると、そうではない気もする。
彼女のどこを好きになったのか、ものすごぉぉぉく聞きたい。
だけど絶望的な片想いだし、多分だけど、そのことを隠していたいみたいだから聞けないでいる。
クラウスには幸せになってもらいたいのだけどな。今のところはこっそりダンスレッスンをセッティングするのが関の山だ。
ブルーノにはもう話してある。彼も大いに乗り気だ。はっきり聞いたことはないけれど、クラウスの片想いを歯痒く思っているようだ。ラルフ相手に
「まだ若いのだから恋に無謀になってもいいのにな」
と話しているのを聞いた。ニンナが。ニンナは誰のことを指しているのか分からなかったようだけど、私はピンと来た!
ちなみにラルフの返答は
「あんたは緩すぎる! 修道騎士のセリフじゃない」
だったらしい。
ラルフみたいな堅物は、案外好きな人ができたらどっぷり恋に溺れそうな気がする。
うーん、見てみたい。
「アレンはどうだった?」
「え?」
「意地悪をされなかったか?」
クラウスは変わらず穏やかな表情だけど、私は確実に真っ赤になっているだろう。
彼は深いため息をついた。
「どうにもあいつは人をいたぶるのが好きだからなあ」
「べ、別にそんなことは!」
噛んだうえに声が裏返ってしまった。
「あんまり酷かったら私に言え。もっともあの性格はそうそう変わらないだろうがな」
「……ええ」
クラウスがにこりと微笑む。
「ウラジミールの分までシンシアを守らないとな」
それは私のセリフだ。ウラジミールを守れなかった分、あなたは絶対に守る。
私もにこりと笑顔を返す。
「私もクラウスの素敵な妹をがんばるわ!」
「頑張らなくても十分素敵な妹だ」
嬉しそうに笑うクラウスは幸せそうに見える。
まずは金曜日よ!
素敵な妹からのプレゼントを楽しみにしててね。
私のお兄さま。
◇裏話◇
ブルーノのセリフ
「まだ若いのだから恋に無謀になってもいいのにな」
は、クラウスを応援するものだけど。
実は、ニンナを可愛いと思いながらも自分の年を考えて、彼女をフリ続けているブルーノの、羨望も含まれてます。




