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裏話18・クラウスとボート

公爵クラウスの話です。

本編18・4の裏話になります。






 係留してあるボートを確かめる。幸い錠のようなものはない。使えるようだ。


 バカンスだとかボート遊びだとか、お貴族様は優雅なことだ。

 だが文句を言っても仕方ない。今はイメージを死守するために、これをマスターしなければならないのだ。


 ふと。

 人の気配を感じて目をやる。

 辺りを確認しに行ったブルーノが戻ってきたのかと思った。

 だが違った。

 そこにいたのはアンヌローザだった。


 なぜ、こんなところに? ひとりで? 早朝だというのに?


 浮かぶ疑問。

 それから思い返される昨日の痛み。


 宝探しだとかいうくだらないお遊びで男女ペアになるからと、くじをひかされた。

 だがうんざり気分で引いたそれは、アンヌとペアになれる幸運のくじだった。


 思わぬ僥倖に、喜びが表に出ないよう必死に押さえているところへクリズウィッドがやって来て、当たり前のように自分のくじと交換した。


 ……俺には抗議など出来ない。

 彼女は彼の婚約者だ。


 俺の前で彼はアンヌの腰に手を回し身体を寄せた。


 見ていられたのはそこまで。横恋慕している自分が悪いのだと頭では分かっているけど、荒れ狂う嫉妬でおかしくなりそうだった。


 ……彼女のペアは俺だったのに。




 その彼女がひとりでこんなところにいる。

 この機会を逃したら、次はもうないかもしれない。たとえ不格好なところを見せてでも、彼女との時間が欲しい。


 見栄をかなぐり捨てて、ボートの漕ぎ方を教えてほしいと頼む。

 教師役のブルーノが来ない、困っていると言うと彼女は了承してくれた。

 ルクレツィアと彼女には、どうしてなのか避けられている。てっきり断られるかと思ったのに、彼女は優しい。


 アンヌローザはボートに歩み寄ると、

「このロープをほどいて。乗るときは転覆しないようにそっとね」

 と言いながら自分でロープをほどいている。

 全くご令嬢らしくない。


「やるから、あなたはいい。手が汚れる」

「洗うもの。いくらでも水があるじゃない」

 浮かんだ笑みは、一応澄ました令嬢のものだ。だけど優しげに下がる目尻が人懐っこい。どうして彼女はこんなに可愛いのだろう。


 ふと視界の隅にブルーノの姿が入る。

 彼女に気づかれないように、帰ってくれと懸命に合図を送る。

 伝わったようで、さっと踵を返して姿を消してくれた。


 言われた通りにそっとボートに乗り込み、櫂を握る。

 目前にはアンヌローザ。町娘の格好も可愛いけれど、ご令嬢の平服も可愛い。そう伝えられたらいいのに。




 ◇◇




 思いの外、ボートの操舵は簡単だった。ほっとする。これならボロを出すことはないだろう。


 安堵したのもつかの間。アンヌローザが

「もしや今まで他のあれこれも予め練習をして?」

 と聞いてきた。


 彼女は俺の秘密を他言などしないだろう。だけど彼女の前では、もう少し格好つけていたかった。

 渋々と、そうだとうなずく。

「仕方ないだろう、貴族の育ちじゃないのだから」

 そう言うと、彼女は心底不思議そうな顔をして

「見栄っ張りなの?」

 と聞いた。本当に可愛い。ご令嬢の澄まし顔よりも幼く見えるが、彼女らしい。

「いつものツンケンしたご令嬢の態度はどこへ?」

 そう問うと、

「たまには休むんです」

 なんて言い訳をするアンヌローザの頬がちょっと赤い。


 恥を忍んで、ボートの教えを乞うて良かった。

 昨日の痛みを忘れられるほどに幸せな時間だ。



 と、眩しいと思ったら彼女の後方で、朝日を浴びた水面が煌めいていた。

 指し示すと振り返って見た彼女が、

「きれい!」

 と声を上げた。

 感激したのか横顔が上気している。

 朝の早い修道騎士には見慣れた光景だけれど、一般的な公爵令嬢ならば見ることはないのだろう。


 煌めく水面より、瞳を輝かせているアンヌの方がよほど見甲斐がある。


 今、俺がリヒターだったら、気軽に何か言えるのに。クラウスの立場じゃ滅多なことは言えない。


「ありがとう! 声をかけてもらったおかげだわ!」

 彼女が弾んだ声を上げて振り向く。

「それは良かった」

 とだけ告げる。






 お前が喜ぶのなら、俺は何十回だってボートを漕ぐ。


 頭に浮かんだ言葉は、胸の奥底に沈めた。


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