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65・〔閑話〕王子と親友

第二王子クリズウィッドの話です。


 昨晩は人生で一番長い夜だったが、今日は人生で一番長い一日になるだろう。

 そう思い、部屋に運ばせた簡単な朝食を急いで食べていると、侍従がやって来てクラウスが話したいと言っているがどうするか、と問うた。


 まさか昨晩のうちにアンヌローザと話したのか。

 私にチャンスをくれと平伏叩頭したのは深夜だったのに、あれから彼女に会いに行ったのか?


 彼を部屋に通すよう言いつけて、手にしていたパンをおく。


 それとも彼女が会いに行ったのか。


 クラウスがやって来て、食事中にすまないと言う。その表情は複雑すぎて感情は読み取れない。


 席についた彼に侍従が葡萄酒だけを出して下がる。そういえばアンヌローザは彼がとんでもないうわばみだと知っているのだろうか。


「彼女から聞いた。舞踏会が始まる前に婚約解消を告げたそうだな」

「ああ。本当はお前にも普通に伝えるつもりだったが、気が変わったんだ。ちょっとした意地悪だ。それぐらい許されるだろう?」

「……すまない」


 椅子に背を預ける。寝不足の身体が重い。だけれど心のほうは、思いの外痛んでいない。むしろ自分で幕引きをして、すっきりしたのかもしれない。

 もう要らぬ不安に悩まされたり、友人を牽制して自己嫌悪に陥らなくていいのだから。


「昨日、久しぶりに彼女と上辺だけではない楽しい時間を過ごせた。これで良かったと思っているよ。懸命に私の婚約者として振る舞っている彼女を見るのは、余計に彼女の心が私にないと思い知らされて、辛かった」

「……すまない」

「彼女が好きな男がウェルナーではないと知っていた」


 クラウスは初めて、表情を変えた。驚いている。


「お前が誤解していることも知っていた。その方がお前はがんじがらめになって何も出来ないだろうと思って放っておいた。……怒ったか?」

「いや」クラウスは深く息を吐いた。「私は文句を言う立場じゃない」


「なあ。『私』と『俺』。本当はどちらを使っている?」

 クラウスが私の前で自分を『俺』と呼んだのは二度。尋ねなくても、こちらが本当だろう。

「『俺』だ。貴族らしく見えるよう、行儀よく振る舞っていた」

「なるほど。昨日、彼女に聞いたんだ。好きな男はどんな男かって。ずっと気になりながらも怖くて聞けなくてな。ようやく尋ねられたのが、よりによって昨日だった。そいつは下町育ちでガサツな男だという」


 クラウスは無言で私を見ている。


「優しいお人好しだけれど顔は知らない。彼女は慕っているけれど、恋人じゃない。町歩きが危険だからと、ただ付き添ってくれているだけ。一年もの間、毎週毎週」

 言葉を一旦切る。

「水曜の午後」

 それはクラウスが教会に用があるからと、必ず仕事を抜け出すのと同じ曜日、同じ時間帯だ。


「……卑怯ですまない」とクラウス。「そばにいたかった」

「お互いに卑怯者同士で、引き分けだな」

 自然に笑みがこぼれた。


 春の庭園で、自分を助けた修道騎士が死んだと知ったアンヌローザは、色を失って倒れた。あの時はなぜそこまでショックを受けるのかと不思議に思ったものだが。

 最初から彼女にとってクラウスは、大きな存在だったのだ。


 私は良い決断をしたのだ。


「婚約解消はする。だが一つ、条件がある」

「なんだ」

「私はお前にはめられた。人生の予定になかった王位につくことになってしまった」

「お前は、ユリウスやオズワルドより良い王になる」

「そんなことは知らん。国と国民のために即位する、と言えば格好いいのかもしれないがな。これは私なりの、お前への償いだ。父のせいで苦労したのに、国まで押し付ける訳にはいかないだろう?」

「クリズウィッド……」

「その代わり、私のサポートをしてくれ。私の望みはそれだけだ」

「分かった」


「ここまで来たら、自分で傷を抉る覚悟だ。いつ彼女と話した? あの後か?」

 クラウスはうなずく。

「あんな深夜に彼女に会いに行ったのか?」

「まさか。偶然会った。彼女は眠れないからと、廊下を散歩をしていたようだ」


 向かいの友人の顔を見る。生まれつきなのか、修道騎士団にいたせいなのか、はたまた堅物ラルフのせいなのか、こいつはとんだ朴念仁だ。他人の恋は応援しているくせに、自分に関することは全く分かっていない。


「それは偶然じゃないだろう? 眠れなかったのは、きっとお前を心配してだ」

「いや。その時はまだ、彼女は俺が毎週護衛していた男だとは知らなかった」

「だけどお前に惹かれていた」

「……え?」

 クラウスは阿呆のような顔で瞬いた。

「気づいてないのはお前だけだ。だから婚約解消を決意したんだろうが。いや、違うか。彼女自身も気づいてなかったかもな」


 クラウスはまた、え、と声を上げてみるみるうちに赤くなった。こんな顔は初めて見る。


「先週の緊急舞踏会。お前に罪滅ぼしのつもりで、彼女とダンスできる機会を作った」

「そうだったのか?」

「そうだとも。なのにお前はその機会を、彼女が『好きなウェルナー』と踊る機会に変えてしまった。あの時彼女がどんな顔をしたか見ていなかっただろう」


 彼は手で口を覆った。素手だ。美しく整った顔に不釣り合いな無骨な手。大きくゴツゴツとして、指の節が目立つ。騎士の手、なのだろう。


「お前以外、みな見ていた。おかげで私の立場は急変。惹かれ合う二人の仲を裂く役回りになってしまった」

「……そうなのか?」

「居たたまれなかったよ。まあ、それももう過ぎたことだ。で?」

「『で?』とは何だ?」

「深夜に密会、両想いを確かめあって、弾みで手出ししてないだろうな?」

「するか! まだお前の婚約者だ!」

「『まだ』な」

「……すまない」

「いや、私が手出ししておけばよかった。せめてキスぐらいしてから……」


 クラウスが恐ろしい目をしている。彼女はまだ私の婚約者なのに。


「冗談だ。嫌われたくないからな」

 と、クラウスが深いため息をついた。

「そういえば、クラウディアだ」

「彼女がどうかしたか?」

「彼女に『好きな男にマーキングをもらえ』と言ったらしい」

 思わず吹き出す。

「ねだられたのか!?」

「ああ」

「本気にするなとは言ったぞ」

「なんだ? 知っていたのか?」

「目の前で話していたからな」

「笑いごとじゃないぞ。クラウディアがこの先どんな嘘を吹き込むかと思うと恐ろしい」

「頑張れ。順番を守れよ。彼女の名誉のために」

「守るさ。けど、散々我慢してきたからな。キツイ」

「知るか! 私にぼやくなんていい度胸だ」

「しょうがないだろう、親友の悩みぐらい聞いてくれ」

「鬼だな!」


 クラウスは口の端に笑みを浮かべると、グラスを取った。こちらの手の甲には大きな傷がある。


「……凄い傷だ」

 彼はちらりと手に目をやって、ああ、とうなずいた。

「最初から『死神』だった訳じゃない。傷なんて身体中にある」

 言葉を失う。私は擦り傷ひとつ、負った覚えがない。

「修道騎士になって良かった。おかげで今回は大事な人たちを守ることができた」

「……そうか」

「そうだとも」


 クラウスは晴々とした笑顔を浮かべて、葡萄酒を飲み干した。


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