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64・4長椅子の上で

 長椅子に座る。ちょっと気持ちがふわふわしているのは、いいとして。


 クラウスは扉を開けて外のブルーノに、戻ってていいぞと言っている。

「理性は保てよ」

 との返事が聞こえて、顔が熱くなる。

「あんたと一緒にすんじゃねえ!」


 あ。確かにこの口調はリヒターだ。

 だけど振り向くと顔はクラウス。

 しばらく混乱しそうだ。


『優雅なお貴族様』の演技をやめたクラウスは、私の隣にすとんと座って足を組んだ。

 ところで。

「『リヒター』ってどこから来た名前なの?」

「リヒテンから」

 やっぱり。分かって見れば、最初から答えを教えてもらっていたのだ。元マルコ僧、元ヤコブ僧、そして三人目のリヒテンに由来する名前を持つ男。


「修道騎士の頃から情報集めするときは、傭兵のリヒターって名乗ってたんだ。まさかアンヌを助けちまうとは思わなかったし、正体は明かせねえ。あの時点でここでも裏町のリヒターで通っていたからな。そのまま名乗るしかなかったんだよ」

「私を助けたのは偶然?」

「がっつり偶然。町娘にしても身なりのいい娘が貧民街に入ってくのが見えたから、アブねえなあと思って路地を覗いたんだよ。そしたら速攻で絡まれてた」

「……いつもはあんなことなかったんだよ」

「そりゃいつもあったら、お前だってひとりじゃ行かねえだろ」

 ぐっ。その通りすぎて言い返せない。

 だけどそのおかげで、リヒターに出会えた。


「アンヌが名乗るまで、全然気づかなかったよ。なんか見覚えあんなあとは思ったけど。公爵令嬢が貧民街をひとりでうろついてるなんて考えねえもん」

「あなたも公爵だよ」

「俺はいいの」

「不公平!」

「なんだよ、不公平って」

 クラウスの顔をしたリヒターが楽しそうに笑う。そんな顔をしてもらえて嬉しい。


「それにしても、よく護衛を引き受けてくれたね」

「一、ニ回やったらブルーノに投げるつもりだったんだ」

「そうなの? なんで代わらなかったの?」

「……。まあ、結構気晴らしになったしな」

 顔を反らすリヒター。

「もしかして最初から私のこと、好きだった?」

「違う!」

「そんな全力否定しなくても」

 くすくす笑うとリヒターも、そうだなと苦笑した。

「……アンヌと会うのは楽しくて。ルカが死んでたって泣いてんの見て、お前をもう泣かせたくないって思ったんだよ。そう思った直後に」

 リヒターは深いため息をついた。

「お前は俺の目の前で、出会ったばかりのウェルナーに惚れた」

「あ……」


 ウェルナーの声を初めてまともに聞いたときだ! あまりの美声に理性が吹き飛んだんだ!


「勘違いだよ!」

「さっき聞いた。でもどう見てもウェルナーにベタ惚れにしか見えなかった」

 ちょっと拗ねたようなしゃべり方。可愛い。


「でもさ。私だってリヒターにはずっと恋人がいるんだと思ってたんだよ」

「そういう設定だったんだ!」

「というか、アイーシャさんは本当に恋人じゃないの? あんなに素敵なのに?」

「違うって! 見ただろ? あいつも二十年前の関係者」

「資料に名前あった?」

「ねえよ。侍医の娘だけど、母親も高級娼婦で結婚してなかったんだ。だから表向きは誰の縁者でもねえ。あいつは仕事がら色んな情報が集まるからな。その中からユリウスたち四人に関係すんのを王妃陣営に流す係りだったんだよ。で、俺が裏町で動きやすいようにあいつのヒモって設定にしただけ。話しただろ? 裏町も結構、目が厳しいんだよ。で、俺は裏町で自分の二つの事件について情報収集してたんだ」


「情報収集……。にしては不審すぎる出で立ちだったよね」

「仕方ねえだろ。この顔は目立つ」

「そうだね」

 もうひとつの目立つ要素、傷のある手は逆に『クラウス』の時に隠していたって訳か。


 彼の左手をそっと手にとる。節くれだった指。

「あなたの前で話したと思うけど、ルカ僧の指がすごく印象に残っているの。指で字を書くなんて面倒なことだろうに、私の心に安らぎが訪れるよう祈りますって伝えてくれたでしょう? あの言葉に救われたのよ」

「生き残るのも辛い」クラウスはそう言って、指で私の掌をなぞった。「ましてや自分に責任があるとなると。俺がそうだったからな。アンヌもきっと苦しむと思って、少しでも気を楽にしてやりたかった」

「ありがとう」

「だがな、俺もあの日のアンヌに救われたんだ」

 目が合い、微笑みあう。


 と、クラウスの顔をしたリヒターは私の手をとって指先に唇を押し当てた。

 頬が熱くなる。

「ずっとしたかった」

 とリヒター。

「うん。私は手を繋ぎたかった」

 リヒターは笑って指を絡める恋人繋ぎをしてくれた。

「そうだ。シェーンガルテンはすごく楽しかったよ。また行けるかな」

「行こう。婚約解消したら」

 やっぱりリヒターは真面目だ。ラルフの影響なのかな。

「明日、クリズウィッドに話しに行く」

「一緒に行くね」

「いや……。悪いが最初は俺ひとりで話させてくれ」


 繋がったままの手を見て。分かったとうなずいた。

 二人の話が終わったら、クリズウィッドに改めて礼を言おう。クラウスの代わりに異教徒の姫と結婚してくれることを。彼だって好きな人がいるのだ。私だけ幸せになってしまって申し訳ないな。


 だけどもう少ししたら、私はリヒターの恋人になれるんだ!

 夢みたい……




 ……待って。この人はリヒターだけど、クラウスでもある。取り巻き軍団がいるよね!


「取り巻き軍団は? 殿下の前に、あの大量の恋人たちはどうするの? 私はあの一員?」

「んな訳ねえだろ!」

「だって!」

「あれもイメージ戦略!」


 リヒターの説明によると、彼は王宮で仲間と打ち合わせをすることがどうしても必要だった。目立つ彼が姿を消せば、不在もまた目立つ。だけど戻ってきた彼が女性からの移り香を漂わせていれば、お楽しみだったんだ、で済む。そのために近寄ってくる女性たちを放置、時たま愛想よくして目眩ましに使っていたという。

 ついでにあの軍団には、ユリウスやら父やらが送り出したハニートラップも混じっていたそうだ。


「にわかには信じられないな」

「そうだよな」

 しょぼんとしたリヒターは、やっぱり可愛い。

「この先、私だけと約束してくれる?」

「もちろんアンヌだけだと約束する!」

「リヒターでもクラウスでもだよ!」

「もちろん!」

「一応確認するけど、実は事実婚の奥さんが」

「いねえよ!」

「お子さんとか」

「いねえって! ウェルナーだけだろ、あんな秘密を抱えてんのは」

「そっか。良かった。だってリヒターって子供の扱いが上手いしさ。不安になるよ」

「ウェルナーの子供だよ。屋敷に行くと遊んでくれくれ攻撃されるんだ」


 それを断らずに遊んであげる姿が目に浮かぶ。やっぱりお人好しじゃないか!


「リヒターは良いお父さんになるよ」

 そう言うと彼はなぜか剣呑な表情になった。

「……それ、誘い文句か?」

「何が?」

「俺はアンヌだけと約束したばかり」

「うん。嬉しい」

 えへへと笑う。

「俺が父親になるなら母親はアンヌだ」

「……そうだね」

 全くそんな考えはなかった。

 頬をリヒターに撫でられ、ビクリとした。

「今すぐ母親になれることをするか?」

 触れられている頬が熱い。

「……興味はあるけど順番を守る」

 リヒターは吹き出した。

「何するかは分かるんだ」

 そりゃ結婚予定がありましたから。一通り教わったもん。

「分かってんなら気を付けろ。お前は無防備すぎ。自分から男と二人きりになる部屋に入るなんて、好きにしていいって言ってるようなもんだぞ」

「他の人だったら入らないよ。あなたは、リヒターにしろクラウスにしろ、不埒なことはしないって信頼してるもん」

 リヒターは深いため息をついた。

「その信頼はドブに捨ててくれ!」

「ええっ! ……そ、それはよろしくないのじゃないかな?」


 キツイ、とリヒターは呟いて繋いでいた手をほどいた。長椅子にもたれて視線をさ迷わせていたけれど、床から葡萄酒の瓶を取り上げた。


「『グラスはどこ?』と聞かれてたっけ」

「うん。中身は葡萄酒?」

「そう」

 リヒターはまたまたため息。瓶を床に戻した。

「お貴族様育ちじゃねえんだよ。イラついてるときに、お上品にグラスなんか使わねえ。味もわかんねえし、酔えたらいいなってんで一気に飲むだけ」

「瓶から?」

「そ。これからは止める」

 今度は私が、ぶっと吹き出した。

「相当に『優雅なお貴族様』演技をがんばっていたんだね」

 リヒターはクラウスの顔をこちらにむけて、にやりとした。見たことのない表情だ。


「凄いだろ? 俳優になれるってエドの折り紙つき」

「なれるよ。だって全然気づかなかったもん。あなたがリヒターだって」

「似てるって言われたときは焦ったけどな。お人好しのところなんて言うから、アンヌがポンコツで良かったと思ったぜ」

「ひどい!」

 ポカリとリヒターを叩くと、その手を捕まれてキスされてしまった。

「バレそうになったら、護衛はやめる約束だったんだよ。エドとな。なんで公爵様が裏町の人間装って町をうろちょろしてるんだってなるだろう?」

「そうだったんだ。……やめたくなかったのね」

「そりゃ」リヒターはまたそっぽを向いた。「俺がアンヌのそばにいられるのは、護衛の時しかなかったからな」

「へへっ。嬉しい」

 リヒターはまたこちらを向いて笑った。

「お前のその笑いを聞くの、久しぶりだな」

「うん!」


 リヒターが腰を浮かせたかと思うと、すぐ隣に座りなおした。手が腰に回される。

「今日は疲れただろ。夜明けまで少し眠れ。寄りかかっていいから」

 やっぱり優しい。

「リヒターは?」

「俺も寝るよ」

 二人で身を寄せあってリヒターの体温を感じたら、急に自分が疲れていることに気がついた。


「眠いみたい」

「寝ろよ」

「私、リヒターの起き抜けの声が好き」

 耳元で笑い声がした。

「明日たっぷり聞かせてやるよ」

「えへへ。嬉しい」


 ふっと。クラウディアの言ったことを思い出した。クリズウィッドは女性から口にすることじゃないと言ってたけれど。


「私もマーキングがほしいな」

「あ!?」

「だって公爵のあなたはモテモテだもの。図々しいのは分かってるけどさ。もちろん、誕生日にもらった巾着も大事にしてるよ。今も持っているもの」

「……それ、誰に聞いた話だ」

「クラウディア。フィリップにもらったって、嬉しそうだったんだ。私も好きな人に頼めって言われたの」

「ふうん」

 リヒターがもぞもぞと動いたかと思うと、首筋にキスをした!


「あいつが何を見せたんだか知らないけど、正しいのはこれ。騙されたんだよ」

「えええっ!!」

「その内に数えきれないほどしてやるから、楽しみにしてろ」

「クラウディア!!」

「あいつが落ち着く日は来ねえな」

 リヒターの楽しそうにくっくっと笑う声につられて、私も一緒に笑った。


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