64・2三度、肖像の間
話したいこと聞きたいことが沢山あったはずなのに、ひとつも思い出せない。
おかしい。
「あなたが言う『破滅』は免れただろうか」
掛けられた言葉にクラウスを見た。月光に照らされて、顔の美しい輪郭はわかるけれど、表情はよくわからない。
「シンシアが見た夢によると、今日が鍵だとのことだったが」
「免れたわ。ありがとう」
彼はこちらを見た。
「『ありがとう』ではないだろう。あなたはともかく、父親は完全に破滅だ」
「そうね。正直なところ父と兄がいなくなるのかと思うと淋しいし、不安もあるけれど、全て解決したからとてもすっきりしているの」
クラウスはくすりと笑った。
「あなたらしい」
「あなたは? 大丈夫? この一年は板挟みで辛かったのではない?」
「お人好しだ」
「それはあなたが」
「襲撃の黒幕は一族郎党みなぶち殺してやると思っていた」
平坦な声音で言われたセリフに言葉を失った。この人でもそんな風に考えていたのか。
「ブルーノは凄い奴でな。私の怒りを受け止めつつ長い時間をかけて、そんなことをしたら黒幕と同じレベルの屑になり私の家族を絶望させるだけだと、考えを改めさせた」
「素晴らしい人ね」
「そう。彼がいなければ火事で死んでいたし、引き取ってくれなければ精神が壊れていただろう」
口調に尊敬の念が感じられる。
……前にもこの口調を聞いたような気がする。デジャブだろうか。
クラウスは視線を正面に向けた。
「全員をぶち殺す計画は諦めても、赦せない気持ちは変わらない。どうせ本人もその身内もろくなもんじゃないだろう。そう思っていたから、助けた馬車にラムゼトゥールの紋章がついているのを見たときは失敗したと思った。黒幕はユリウスかラムゼトゥールとの共犯とまで判明していたからな」
そうだったのか。
ルカ僧は私に親切にしてくれたけれど……。
「あなたには衝撃を受けた。ラムゼトゥールの娘なのに、判断ミスを後悔して使用人のために祈り、震えているくせに自ら遺髪を集めようとした」
それ以外にどうしていいのか分からなかっただけだ。
「……火事の中、家庭教師の遺体から離れられなかった私にブルーノがしたことが、彼の遺髪を握らせることだった」
ふう、とクラウスはため息をついて、また私を見た。
「ラムゼトゥールの娘なのに、マルコと同じことを考える。それまで憎く思っていただけの相手にも心があるのだと初めて気がついた」
彼は微かな笑みを浮かべた。
「あの時あなたに会えて良かった。でなければ私はクリズウィッドやジョナサンとは友人になれなかった」
「それは違う。あなたはどんなタイミングだってそう気がついて、彼らや私たちと友達になったわ!」
「そうかな。私はあなたが思っているほどお人好しでも寛容でもない」
「そんなことない!あなたはどう見たってお人好しで寛容よ!」
言いきってから切なくなった。よくリヒターともこんなやり取りをしたっけ。
「……ちょっとね、あなたは知り合いに似ているの」
知り合い、と繰り返すクラウス。
「同じようにお人好しなのに、自分は違うと言い張るの。きっとお人好しは自分がそうだという自覚がないのね」
クラウスはまた正面を向いてしまった。
「その、アンヌローザ」
「なあに?」
呼び掛けておきながら、クラウスは黙りこんでしまった。
あげくに立ち上がり窓辺に行く。
あいた長椅子を見て、ふと先程の葡萄酒の瓶を思い出した。口は開いていた。それならグラスはどこに?
気になって立ち上がり、彼がいた側の床を見たけれど、あるのは瓶だけだった。
拾ってみる。半分ほど入っている。
中身はもしやお酒じゃないのだろうか。香りはそうとしか思えないけれど、瓶に染み付いた匂いかもしれない。
「何をしている?」
振り返ると彼がこちらを見ている。
「グラスは? お酒の」
なんのための葡萄酒? それとも違うもの? 水、とか。ユリウスの肖像画にかける、とか。そんなことをする人とは思えないけど。
瓶をそっと元に戻す。
クラウスが戻ってきて、私の前に立った。




