59・3クリズウィッド
聞き間違いかと思った。だが。
「君が婚約解消が嫌だというなら、このまま結婚をしよう。だけれどもそうでないのならば、解消だ。世間には円満に決定したことだときちんと説明する。もちろん君がその男を追っても、他の……貴族と結婚しても問題ない」
どうやら聞き間違いではなかったらしい。
「分かりました。解消して下さい」
「何故かと聞かないのか」
クリズウィッドは笑った。
「……これから尋ねます」
思わず前のめりに了承してしまった。罪悪感を覚えたが、彼が気を悪くした様子はない。
クリズウィッドは私の手を離して腰を上げると、卓上にあったグラスを私に差し出した。白ブドウジュース。私の好きなもの。礼を言って受けとる。クリズウィッドもグラスを取り、口をつけた。
「異教徒の国から和平の申し入れがあることは聞いているな?」
うなずく。
「正式な使者と共にあちらの姫が来る。誠意として我が国にくれるそうだ」
「くれる?」
「そう。正妻でも側室でもいいからと王族にプレゼントしてくれるらしい」
「こちらの意見も聞かずに?」
うなずくクリズウィッド。ずいぶんと乱暴な話だけれど、異教徒の間では一般的な交渉術なのだろうか。
ん。王族?
「陛下と兄上は側室に迎える気満々だが、素行の悪い二人にあちらが納得するか怪しい。私は君と結婚予定で、側室を持つつもりはない。残る王家の血筋はクラウスだけ。あいつは拒否しているが、高官たちは了承がなくても婚礼を強硬するつもりだ。今日の舞踏会の最後で勝手に婚約発表してね」
……あまりのことに言葉にならない。酷すぎる。
「そんな顔をしないでくれ。暴虐な仕打ちだと分かっている。だから、私が姫と結婚することにした。そのための婚約解消だ」
「……彼を助けてくれるの?」
「ああ。私は親友も……君もなくしたくないし、軽蔑されたくもない。王子として生まれた、その責を果たす」
淡々と語ったクリズウィッドは、すでに腹を決めているからだろう。穏やかな表情だった。
「ありがとう。心からあなたを尊敬するわ」
彼はくすりと笑った。
「何故君が礼を言うのかな?」
本当だ。
「……彼は悪い人ではないわ」
「そうだな」
クリズウィッドはグラスを口に運んだ。
「とは言え簡単に宰相殿を説得はできないだろう。だから高官たちがクラウスの婚約発表する直前に、私が解消を発表する。会の冒頭も考えたが、それでは賓客たちに失礼だ」
分かったとうなずく。
「まだ誰にも話していない。まずは君にと思ったからね。時間もあまりないから、みなにはその時に知らせることになってしまうが、今は……」
クリズウィッドは立ち上がってベルを鳴らした。
「だいぶ暗くなってしまった」
部屋を照していた橙の陽光は僅かになり、ほの暗くなっている。やって来た侍従にクリズウィッドは灯りと軽食を頼んだ。
「婚約最後のひとときだ。時間までゆっくりしよう」
「そうね」
彼と婚約してから約一年。色々とあった。悩んだときも多かったけれど、彼は良き婚約者だった。
「今までありがとう」
笑顔で礼を言う。
それにしてもこれは何エンドなのだろう。やっぱりバッドではあるのだろうか。それとも今頃ハッピーに変わっているのだろうか。
◇◇
久しぶりに心の底から和やかだと思える雰囲気に、私たちの会話は弾んだ。無理に笑顔を作らなくていい。かつてのように、自然にクリズウィッドと話せる。
良かった。この先私がどうなるかはわからないけれど、素敵な王子妃を演じるより、このほうが絶対にいい関係を築ける。
「アンヌローザ。君の好きな男のことを聞かせてくれないか」
穏やかな口調に、うなずいた。
「どんな奴なんだ?」
「優しいお人好しよ」
「なるほど。君らしい」
「年は? 離れていると聞いた気もするが」
「三十一と言っていたわ」
「それは。ずいぶん上だ。それで未婚なのか? まさか」
「未婚よ」
「良かった。顔は? いい男かい?」
「知らないの」
知らない?とクリズウィッドは不思議そうに繰り返した。
「髪やスカーフで隠れていたから」
「そうか。だからルクレツィアがあんなに不安がっていたのか」
得心しているクリズウィッド。やっぱりルクレツィアはかなり不安を感じていたのか。
それでも彼がいなくなってしまったと話した時、彼女は私を抱きしめて一緒に泣いてくれた。シンシアも。
「でもとても良い人なのよ」
「君が好きになるのだから、そうなのだろうな。だけど君が週一で町にお忍びで出ていたなんて。驚いたよ。君らしいというか、向こう見ずというか」
「私、本当は令嬢らしくないの」
クリズウィッドはくすくす笑った。
「それは知っている。昔から着飾るのも社交に励むのも嫌いじゃないか」
そうだった。ルクレツィアと友達になってからの付き合いだから、いくら取り繕っても見抜かれていることはたくさんある。
「……だけどよく毎週お忍びできたな。家族に気づかれなかったのか」
うなずく。
「母が毎週定例のお茶会に出席している間に、出掛けていたのよ」
「定例のお茶会?」
「ええ。シュタルク大使夫人のお茶会。ラムゼトゥール家はあちらの国に縁戚がいないでしょう? 母はシュタルクに憧れているの」
だから私はあちらの貴族に嫁ぐ予定だったのだ。だけれどクーデターで白紙になったうえ、新体制のシュタルクにラムゼトゥール家との繋がりを望む貴族はいなかったようだ。
「母はなんとか繋がりがほしくて、お茶会は欠かさず出るのよ」
「……シュタルク大使夫人のお茶会は、水曜の午後ではなかったか?」
「そうよ」
「その時に君はお忍びをしていた?」
ええとうなずくと、なぜかクリズウィッドは黙ってしまった。
何かまずいことだったのだろうか。
「いつ頃から?」
「孤児院は一年半ぐらいかしら。だけどお忍びはもう何年も前から」
「君のその男もそんな昔から?」
「いいえ、彼は一年前から」
クリズウィッドは何故か目をつぶり、また口を閉ざしてしまった。
「……どうしたの?」
彼は目を開いた。
「婚約する前? 後?」
「後よ」
「そうか」
クリズウィッドは長く息を吐いた。
「そんな顔をしないでくれ、君を不安にさせたい訳ではない」そうして彼はにこりとした。「水曜の午後は私も色々あったからな」
色々? なんだろう。彼は仕事の時間のはずだけど。
「実はルクレツィアがその男に会いに行きたいと言っていたんだ」
そう、彼女に何度か請われた。リヒターが嫌がったから実現しなかったけれど。
「だけど君の了解なしに会いに行くのはどうかと思ってね」
「お気遣いありがとう」
「優しいお人好し、か」とクリズウィッド。「見た目は? 例えばどんな雰囲気?」
「……ガサツ」
なんとはなしに不安を感じながらも正直に答える。
「ガサツ!?」
「下町の人だから」
正確には裏町だけど。そこは伏せておこう。
「わからないな。……背格好は? ウェルナーのような上背があるタイプ? ジョナサンのような近衛兵? ブルーノのようないかつい騎士? クラウスのような細身スタイル?」
クリズウィッドの表情は穏やかなまま。これはただの意味のない会話の続きなのだろうか。
「……公爵よ」
「……そうか」
クリズウィッドはまた深いため息をついた。
「もっと早く話しておくべきだったな」




