57・〔閑話〕奈落の王子
第二王子クリズウィッドの話です。
着替えすら面倒で。渋る侍従を無理やり下がらせ、ひとり椅子に身を沈める。
このまま奈落の底まで落ちてしまいたい。何も考えたくないし見たくもない。
だがそのうちクラウディアがやって来るだろう。彼女は容赦なく私の内を喰い破り、日の元に曝すに違いない。
双子であるけれど似ているのは髪と瞳の色だけで顔も性格もまるっきり違う。兄妹であるからこそ、彼女は弱い私のために鉄槌を下すのだ。
扉が開く音がした。衣擦れ。向かいの椅子がきしむ。
「ウェルナーが後悔していたわ」とクラウディアの声。「誤解を解いておくべきだったって」
やはり彼女は私を裁きに来た。
私はクラウスを親友だと思っている。それは本当だ。彼と出会って、私の世界は変わった。それまでは西翼の王子としての微妙な立場を受け入れて、なんの面白みもない日々を送るだけだった。だけどお互いに微妙な立場だからなのか、元からの性格か、やけに気が合い、日々は楽しいものになった。
だがどうしてもアンヌローザを失いたくなくて、彼に酷いことをしてきてしまった。
せめてもその罪滅ぼしにと、今夜の夜会で彼にアンヌと踊る機会を作った。
そのつもりだった。
「ウェルナーはね、アンヌが自分を好きだと誤解したままのほうがクラウスが諦めがつくのではないかと思って、そのままにしていたようよ。私と同じね」
実際のところアンヌが好きなのはウェルナー自身ではなくて、彼の声らしい。だが端からすれば、ウェルナーにうっとりしているようにしか見えなかった。
クラウディアも私も彼女の本当の想い人が庶民の馬の骨だと知っていたから、誤解することはなかったけれども。
だがクラウスは完全に誤解をしていた。
それを私は放置していた。都合が良かったからだ!
「後にも先にもただ一度だけだろうというチャンスを、まさかアンヌローザに譲るなんてね」
私がクラウスのために作った機会。それをあいつは、アンヌがウェルナーを好きだと誤解していたばかりに、自ら身を引いて棒に振った。
「あなたの負けよ、クリズウィッド。あなたはこの一年、自分の気持ちを優先してきた。だけどクラウスはあれだけ絶望的な立場でありながら、アンヌの気持ちを優先したの! 誤解だけどね」
クラウディアの言葉が突き刺さる。
そんなことはもう十分分かっている。
「私だったら間違いなくクラウスを選ぶわ」
分かっているとも。
私だってこんな卑怯な男よりもあいつを選ぶ。
あいつはいい男だ。
先だって感情を爆発させ私を詰ったクラウスは、翌日謝りに来た。
他人の婚約者に不埒な想いを抱いている自分に非がある。
お前のことは本当に親友だと思っている。
自分に敵意を向けるか腫れ物扱いするかの輩しかいなかった王宮で、普通に接してくれたことが嬉しかった。
だから心の底から、友人関係を壊したくないと願っている。
彼はそう言った。
私に、そんなことを言ってもらえる価値があるだろうか?
だからこその罪滅ぼしだったのに。
結局は彼我の人間の器の差がはっきりしただけの、誰も喜ばないダンスになった。
そう。アンヌローザさえも。
あんなにウェルナーにうっとりしていたくせに。
だけど。誰がどんな想いを抱えていようが、アンヌローザの婚約者は私だ。三週間後には婚礼を執り行い夫婦になる。
例え彼女が庶民の男に恋していても、今後クラウスに恋したとしても、正式に彼女を得られるのは私なのだ。
「クリズウィッド」
クラウディアに呼び掛けられても、返事をする気にはなれない。
例え彼女を得られても。肝心な心は得られない。
優しい彼女のことだから、精一杯私の妻として公私ともに非のない振る舞いをしてくれるだろう。
だけれどそれだけだ。
「クリズウィッド。念のための確認なの。愛情をこじらせてクラウスやアンヌローザを傷つけるようなことはしないかしら」
目を開け、向かいの妹を見る。
「嫌な夢を見たのよ」クラウディアは真面目な顔だ。「アンヌローザが刺されて死ぬ夢よ。あなた、そんなことはしないでしょうね」
「当たり前だ! 二人とも大事なことに変わりない!」
「それならいいの。あなたはだいぶ参っているでしょう? 不安になったのよ」
「……参ってなどいない」
そう。真実参っているのはクラウスだ。
先日私を激しく詰ったあと。振り向いたあいつの顔が忘れられない。
いつも澄ましている顔が酷く歪んでいた。
どれだけの苦しみを内に抱えているのだろう。
私は友人だ親友だなんて言いながら、一度も彼と向き合っていない気がする。




