47・2新年
「何をしているの?」
「何をしているんだ?」
同時に同じ質問をする。
「休みに来たの。もしやあなたも?」
クラウスはうなずいた。
彼は珍しく上着を脱いで首回りを緩めている。ちらりと見える鎖骨。珍しいというより、服を着くずしているのを見るのは初めてかもしれない。
というか優雅の権化みたいなこの人でも、長椅子に寝そべるんだ。ちょっとおかしい。
「クリズウィッドは?」
「陛下に呼ばれたの。ルクレツィアも、クラウディアも」
なるほど、とクラウスは吐息した。
「だからといってこんな時間に一人でうろつくのは駄目だ。不埒な奴らはいくらでもいる。宰相の威光なんて、酔っぱらいには関係ない」
「あなたこそ一人で大丈夫なの? ブルーノたちはいないの? さっきも殿下はあなたの身の危険を案じていたようよ」
実際に彼の命が狙われたという話は聞いてないけれど、その危険があるからブルーノとラルフは帯剣を許されたのだろう。用心するべきだろうに。
「……ブルーノは手洗い」
「それなら仕方ないわね」
トイレならばすぐに戻ってくるだろう。人ひとり分をあけて、クラウスのとなりに座った。
誰もおらず月明かりしかない部屋に二人っきり。かなりまずい状況なのはわかっているけど、疲れてしまった。
「何故座る。広間に戻ってくれ」
「休みに来たのよ。ここは穴場と聞いていたのに」
「誰に?」
「クラウディア」
「私も彼女だ」
「みんなに教えていたら穴場じゃなくなっちゃうわね」
まったくだとうなずく彼に首をかしげた。
「あなたは今日はエスコート地獄だと聞いたけれど、さぼっていていいの?」
「休憩を挟まないとやってられない」
「よく取り巻き軍団から逃げ出せたわね」
「まあな。とにかく戻ってくれないか」
「……だって、殿下の婚約者らしくしているのは疲れるの。私だって休憩を挟まないとやってられないわ」
クラウスは深いため息をついた。
「クリズウィッドは良い男だ」
「分かっているわ」
「予想外に良い婚約ができたものだから、ちょっとばかり舞い上がっているうえに神経質にもなっている。だがそれは、あなたのことをとても大事にしているからだ」
「……だから私だってちゃんとした婚約者になろうと思って、今日だってそれらしく振る舞ったわ。少しでいいから休憩をさせてちょうだい。顔の筋肉が疲労でつりそうなのよ」
またため息。そういえばこの人も、私と話していると、よくため息をつく気がする。
まあどうでもいいや。
椅子の背にもたれて目をつぶる。
少しだけ。
リセットする時間がほしい。
「……無理してまた倒れるなよ」
目を開けてとなりの攻略対象を見る。彼も疲れているのだろう。だらしなく膝に肘をついた姿勢で、視線は床に落とされているようだ。またも、彼らしくない。もしかしたら普段の典雅な姿も努力の賜物なのだろうか。
気になりつつも、突っ込むのは後だ。
「あのときは具合が悪いのを忘れていたの。二度と同じ失敗はしないわ」
「そうしてくれ」
「運んでくれてありがとう。でももし万が一、また倒れても運ばなくていいわ。余計に危険なんだもの」
「……すまない」
「あなたのせいじゃないのは分かっているけれど」
「次はクリズウィッドかウェルナーを呼びに行かせる」
「ぜひそうしてね」
ああでも、ウェルナーは素敵だな。
できればウェルナーでお願いしたい。あの魅惑のボイスで『どうされましたか?』なんて心配されたい。『失礼して僕が運びましょう』なんて言われたら鼻血が出るかも。『気をしっかり!』なんて励ましもいいな。
そうだ。ウェルナーに言ってもらいたいセリフ集を作ればいいんじゃないだろうか。ルクレツィアには頼めないけど、シンシアとこの兄なら協力してくれるかも。
「……できたらヒンデミット男爵がいいわ」
思いきって言ってみる。
「……わかった」
やった! 言ってみるものだ。
「彼の……」
『声が好きなの』と言うより先に、クラウスは立ち上がって向かいの壁に歩いて行った。歴代国王の肖像画がずらりと並ぶ。
そういえば本来ならば、ここに彼の肖像画もあるはずだったのだ。
「あなたも加わりたかった?」
「え?」
クラウスは振り向いた。
「ここの肖像画に」
「肖像画?」彼は周りを見回した。「まさか」
その声は笑いを含んでいるように聞こえた。
「あんな堅苦しいものにはなりたくない。 自由に外出もできないなんて地獄だ」
「私には王子妃になって頑張れって言ったのに?」
「……それは確定した未来だからな」
「私だって自由に外出できないなんて嫌よ」
「クリズウィッドは配慮するはずだ」
どうだろう。ブルーノとふたりで部屋にいただけで、あれほど怒ったのだ。自由な外出に寛容だとは思えない。
立ち上がって私も部屋を見渡した。
「先代陛下の肖像画はどこかしら? あなたにそっくりなのでしょう?」
これまでここの肖像画をじっくり見たことはなかった。この機会にどれだけ似ているのか見てみよう。
「ない」
「ない?」思わぬ返答に視線を肖像画からクラウスに戻した。「ないの?」
「そう。この通り、壁はもう隙間がないからな。ユリウス陛下が自分の絵を飾るときに外したそうだ」
「もっと昔の方のを外せばいいのに」
それとも敢えて、先代のを外したのか。
「建前だからな」
やっぱり。
「聞いたところによると、ここにあったものだけでなく全ての肖像画を焼いたらしい」
「じゃあ先代のは一枚もないの?」
クラウスはうなずいて言った。
「王妃のも、三人の子供のも」
ユリウスの執念に背筋が寒くなった。それほどに先代一家が嫌いだということなのか。
そんな人に仕えていて、彼は怖くないのだろうか。いや、怖いからこそのブルーノとラルフだった。
突然扉が開いて廊下から灯りが差した。微かだった楽器の音が大きくなる。目をやるが逆光で、そこに立つ人物の顔がわからない。シルエットからすると男性のようだ。
「アンヌローザ殿?」
「遅いぞブルーノ」とクラウス。
彼は扉を閉めると、真っ直ぐに私の元に来た。
「広間ではあなたが消えたと騒ぎになっていますよ!」
あら。
「誰にも断りをいれずに出てきたのか!? 」とクラウス。
「いえ、ヒンデミット男爵には言ったの。……姉に挨拶してくるって」
「で、挨拶しないでここへ来たのか?」
「ごめんなさい。だって休みたいと正直に言うってしまうと、一人になれないと思ったの」
またクラウスはため息をついた。
「シンシアはもう辞去したか」
とクラウスはブルーノに確認し、ブルーノはうなずく。
「まいったな。ふたりで話していたなんて知ったら、あいつは怒るぞ」
「アイーシャ殿と先ほどすれ違いました。ちょうどお一人で……」
「助けてもらおう。頼む!」
ブルーノが慌ただしく駆けて行く。
「あの。ごめんなさい。こんなに早く殿下がお戻りになると思わなくて。本当に疲れてしまって」
またため息。
「次はもっと巧妙に嘘をつくか、正直に話すかして逃げ出してくれ」
「ごめんなさい」
「それはクリズウィッドに。今、彼がどんなに心配しているかを、考えてやってほしい」
「はい」
「……素直なのがあなたの長所だ」
「ありがとう」
それに対してこの人の長所は、友達思いのところだな。いつもクリズウィッドへの配慮を欠かさない。
クリズウィッドにだって私にだって、もっとドロドロした感情を持っていたって当然なのに。修道士だったから寛容なのか、根っからのお人好しなのか。
「アイーシャは知っているな? 先日、助けられたのだろう?」
うなずく。
「あなたが依頼してくれたの?」
また扉が開いた。今度は男女のシルエットだ。
すぐに扉がしまり、二人は部屋の中へやってきた。
「こんばんは。アンヌローザ様」
アイーシャの艶やかな声。夜会用のドレスを着ている彼女は、先だってよりずっと艶かしい。
挨拶を返しながらもドキドキしてしまう。
こんな人と一緒に暮らしていて、何もないなんてことがあるのだろうか。
「お話は聞いたわ」とアイーシャ。「彼女とゴトレーシュ伯爵令嬢について話していたことにすればいいかしら」
「そうしてくれ」とクラウス。「それならクリズウィッドも腹を立てないはずだ」
「費用はきっちり請求いたしますからね」
「分かっている」
「それは! 私がお支払します。私の軽率な行いが招いたことですから」
「そうね。でもいいのよ、私を呼んだのは公爵だし、彼が払いたいと言ってるのだから」
反論しようとした口に、アイーシャは人差し指をあてた。
「今は言い合う時間がもったいないわ。さあ、行きましょう。騒動になっているなんて知らなかった、という体裁よ。皆さんが騒いでいるのを見たら、上手にうろたえてね」
「……はい」
「じゃあ行きましょう」
アイーシャはまるで男性がするように私の腰に手をまわした。香水が一瞬香った。
振り返って、クラウスとブルーノに
「余計な手間をかけさせてごめんなさい」
と謝り、アイーシャに導かれるままに部屋を出た。
「あなたは大丈夫なのですか?」とアイーシャに尋ねる。「……その、ご用事は?」
「ちょうど用事と用事の間の移動中だったのよ」彼女は艶然と微笑む。「なんの用事かは、内緒よ」
頬が熱い。私も何の用事かは知りたくないや。
彼女にリヒターについて尋ねたいけれど、なんて切り出せばいいのかが難しい。ここは別の質問にしよう。
「どうすれば、あなたみたいに色気が出るのですか?」
ぷっ、と彼女は吹き出した。なんだ、これだけ色っぽくても吹き出すことがあるんだ。ちょっと安心する。
アイーシャが私を見る。
「色気を出してどうなさるの? 誘惑したい方がいるのかしら?」
「そうではないけれど」ますます頬が熱い。「子供扱いされるのも、嫌だな、って」
「アンヌローザ様」急にハキハキした口調だ。「無理矢理出した色気になびくような男は、ろくな男じゃないわよ。あなたの内面を見てないってことだから。そんなバカな男はダメ」
じゃあ私はずっと子供扱いのままなのかな。
「今のあなたを好きな男がちゃんといるのだから、あなたは十分に魅力的なの。おかしなことは考えないのよ」
そんな人がどこにいるのだ。それに本当にいたとしたって、私を見てほしいのはただひとりだ。
「さあ、広間よ。さっき言った通りにして下さいな」
笑顔を向けてくれたアイーシャにうなずいて、彼女のスカートを握りしめた。




