38・1『最後』
いつもの約束の場所に小走りで向かう。
リヒターは私を見つけると、無言で片手を上げた。
「お待たせ! 日曜日はありがとう! すごく楽しかった!」
おう、と低い声で返事をしたリヒターは首をかしげた。
「……大丈夫なのか?」
「何が?」
「……お前がまたやらかした、って聞いたぞ」
「もう裏町まで?」
噂というのは廻るのが早い。まだ三日しか経っていない。
「私は何もしてないよ」
「分かってる」
その言葉に嬉しくなって顔がにやける。
「また濡れ衣だろ? へこんでねえのか?」
「大丈夫。そりゃ多少は悲しいけど、信じてくれる人がいるから。……リヒターも心配してくれるしね。ありがとう」
「そうかい」
リヒターはかごを手にとり、歩き出す。
「逃げ道も用意してもらえるって分かっているから、気楽だよ」
と、彼は足を止めて私を見た。
「用意はしてやるけど、お前は少しは怒れよ。理不尽すぎるだろうが」
「怒っても何も変わらないよ。なかったことにはならないし、こっちの怒りに当てられて謝罪されたってそれは上辺だけじゃない。そんなのいらないよ」
「……」
リヒターは無言だ。だけど足を進めるわけでもない。
「どうしたの?」
彼は長いため息を吐いた。
「お前、ガキのくせに悟ってんな」
「そうかな? 乳母の影響じゃないかな」
笑みで誤魔化して、再び歩き始める。
こう考えるようになったのは前世の記憶のせいだ。たった十三で理不尽に死んだから。どんなに怒っても死は覆らなかった。だけどその代償にこの世界に生まれ変わってリヒターに出会えたんじゃないかな。
「少しは悟んないと、か」
リヒターのこぼした小さな声に驚いて、その顔を見上げる。
「何かあったの?」
「お前はヘンテコだよ」
「誤魔化した!」
「うっせえ、ポンコツ令嬢」
セリフとは反対に楽しそうな声音だった。
◇◇
パン屋で店主がかごにパンを詰めているのを待っていると、見知った主婦さんたちが入って来た。会話に夢中のようで、お互い会釈で済ます。
「本当、ひどい話だね」
「良心的な第二王子と結婚するのだから、多少はまともな娘だと思ってたよ」
ん?
まさか、私のことかな。
「やっぱり悪党の子供は悪党だったね」
「あの宰相の娘なんだから、性根が腐ってんだ」
「汚い苛めなんてして地獄に落ちるよ」
……こんなところまで噂が出回っているのか。仲良し主婦さんたちにまで言われると、さすがに堪えるな。
「あれは宰相の娘が嵌められたんだぜ」
突如大きな声が響き渡って、かしましかった狭い店内が一瞬で静かになった。
リヒターを見上げると、彼は主婦さんたちを見ていた。
「あの娘はさ、第二王子とかその友人のフェルグラート公爵と仲がいいんだ。しかも美人」
気のせいか、声に苛立ちが感じられる。
「だからやっかんだ女どもに嵌められたんだよ。何度も濡れ衣着せられて毎日泣き暮らしてるらしいぜ、可哀想に」
「そうなのかい?」
「本当かい?」
と主婦さんたち。
「裏町の情報収集力をなめんな」
主婦さんたちは、顔を見合わせている。
「公爵のイケメン従者たちがその辺をうろついてんだろ。聞いてみろよ。みんな宰相の娘の味方だぜ」
リヒターが私を見る。
「お代」
「へ?」
「パン。店主が待ってっぞ」
はっとして見ると、確かに店主が山盛り入ったかごを持って待っていた。慌てて支払いをして二人で店を出る。
「リヒター」
「なんだよ」
「ありがと」
「……悟りにはほど遠いな」
思わず吹き出す。
リヒターは、私の代わりに怒ってくれたんだ。
嬉しくなってしまうよ。
「あとね、美人って言ってくれてありがと」
「まあ、不思議だけど事実だかんな」
「不思議ってどういうこと!?」
「だって中身はガキだしポンコツ」
「さ、三十一で独身子なしのリヒターも、わりと世間一般から外れているよね」
「傭兵では普通」
「私、本当だったら今頃人妻で子供もいたかも!」
「人妻……」絶句するリヒター。「似合わねえ!」
だけど最初の婚約が滞りなく結婚にたどり着いていたら、そうなっていたはずだ。
「……リヒターは恋人さんと結婚しないの?」
ずっと気になっていたこと。ちゃんといつもの口調できけたと思う。
「しねえよ。恋人じゃねえし」
「そっか。じゃあ逃げるときは本当にお願いして平気なのかな」
「ちゃんと最後まで面倒見てやるって」
また『最後』と言った。思わず足が止まる。
「どうした?」
「リヒター。『最後』って何?」
リヒターの目はいつも見えない。長く黒い前髪に隠れている。
「俺は都の人間じゃねえからな。いずれ出てく。でもまだ先だ。お前の去就が決まるまでは雇われてやるから、心配すんな」




