34・2リヒターの秘密
「あー! アンヌさまを泣かしたっ!」
子供の声に慌ててリヒターから離れた。
すぐそばでサニーが私たちを指差して怒り顔だ。
「違うのよ、泣かされたんじゃないの」
「リヒター、やくそくがちがう!」とサニー。
「俺のせいじゃねえよ」
「約束?」
手の甲で涙を拭う。
「あれだよ、あいつ。左官見習いになった奴」
「ジュール!」とサニー。「やくそく!」
「あいつが言ってただろうが。お前をちゃんと守れって」
そういえば。仕事が決まったと報告を受けたときに、そんなことを言ってたような。
ハンカチを取り出して涙を拭く。
「いいか、サニー」とリヒターは前屈みになり彼女を見る。「これはこいつが勝手に泣いたんだ。俺は慰めてただけ」
「いいわけ、だめ!」サニーは怒った顔のままだ。
「言い訳じゃねえよ!」
リヒターはいつも教会で寝ているから、子供が嫌いなのだと思っていた。だけどちゃんと視線の高さを子供に合わせて、きちんと説明をしている。四歳の幼児に。
「やっつける!」
サニーは両手を拳にすると、ぽこぽこと悪者に攻撃を始めた。
「効かねえな!」とリヒターは言って彼女を抱き上げて私たちの間に座らせた。
そして懐から包みを取り出す。
私が出会ってすぐに渡したパンだ。自分で焼いた。忌憚のない意見がほしいとリヒターに頼んだのだ。食事時間以外は物を食べないリヒターは、後で食うと言って以前のようにハンカチで包んで、しまった。
そのパンをリヒターはちぎるとサニーに、食いな、と渡した。
もぐもぐするサニー。
「おいしい!」
「だってよ」とリヒターはサニーの頭を撫でながら私を見た。「良かったじゃねえか」
うん、とうなずく。
彼女が食べ終わると、彼は
「大事な話してっから、あっちに行ってな」
と優しい口調で言って、サニーは素直に走って行った。
「で、急にパンを焼いた理由はなんだ?」
残ったパンを再びハンカチでくるむリヒター。
渡したときは、ちょっとした気紛れ、と説明したんだけど。裏があるとバレていたようだ。
「いよいよになったら庶民になるのもいいかなって」
正直に打ち明ける。
「あ? 庶民をなめてんのか? ご令嬢がそう簡単に暮らせるかよ。飯も洗濯も自分ですんだぞ」
「わかってる。パン屋に弟子入りしたら、住み込みさせてもらえるんだ。そこで全部学ぶの」
「……もらえるって、お前」
「もう約束はとりつけてあるの。だからパンをこねる練習をしておこうと思ったんだ。で、こねるだけじゃつまらないから、焼いてみたの」
屋敷の使用人たちはみんな怪訝な顔をしている。お嬢様乱心!と思っている節もある。それでも見かねた料理番がアドバイスをしてくれて、パンと言っても問題ないものが作れるようになった。
なにしろここは前世みたいにオーブンとかパン焼き器とかないからね。最初は黒焦げばかりだった。
リヒターは顔を膝に向けた。ハンカチにくるまれたパンが乗っている。
その包みを解いた。なぜかのろのろと小さくちぎり、スカーフの隙間から口に入れた。
無言でもぐもぐしている。
なんだろう。美味しくないのかな。
不安が募る。
ようやく食べ終えるとリヒターは、残ったパンを元通りに包んだ。
「……まずい?」恐る恐る尋ねる。
「……悪い」深いため息。「やっぱ、わかんねえ」
わからない? 何が?
「細かい批評じゃなくていいの」
「ちげえ」またため息。「味がわかんねえんだ」
包んだパンを差し出された。
「分かる奴に食わせてやってくれ。俺は生まれつき味覚と嗅覚がねえから食い物は味も違いもわかんねえんだよ」
味覚と嗅覚がない?
そんなことがあるのだろうか?
黒髪の奥に隠れている目を見つめる。
リヒターが物を食べているところを見たことがない。お酒はまるで水かのように味わいもせずに飲む。『美味しい』との言葉を発したことも、多分ない。食べ物の話をしたこともきっとない。そうだ、好きな食べ物を尋ねたときも、『酒』との答えだった。
そうか。そういうことだったのか。
時々女性の移り香がするけれど、それもわかっていなかったんだ。
「そんな顔をすんなよ。生まれつきだからたいしたことじゃねえ」
「だって、バルなんて行きたくなかったよね?」
「行くだけで稼げんだから、楽な仕事じゃねえか。気にすんな。けど、これは意見を言ってやれねえ。ごめん」
差し出されたパンを受けとる。
美味しいと嘘をつけば簡単なのに。
「だけどな、庶民に下るのはそれこそ最終手段にしろ。お前がいくらいい奴でも、宰相の娘だと知られたら危険な目に遭うかもしんねえ」
「危険?」
パンから目をあげる。なんのことだろう。
「身代金目的の誘拐、恨みを持つ奴からの報復、反貴族運動家による見せしめ」
静かに列挙された事柄に絶句した。
そんなことはまったく頭になかった。
「逃げんならちゃんと逃がしてやっから。焦んな」
「うん」
「パン屋がやりてえなら考えてやっからな」
「うん」包まれたパンを持つ手に力が入ってしまう。だめだ、しっかりしろ、私。「リヒター」
「なんだよ」
「ありがとう」とにっこりとする。
「……金を蓄えとけよ。たっぷり請求するからな」
うなずいて、再び受け止ったパンの包みを見つめる。
あまりに優しすぎて、勘違いしちゃいそうだよ。
リヒターはきっと誰にでも優しいお人好しだ。サニーにだって、まるで父親みたいに優しかったじゃないか。逃がしてくれるのはお金のため。
別に私が彼の特別な人なわけじゃない。




