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契約

 1920年代は比較的平和な時代だったと言えるかも知れない。そりゃ勿論、完全に戦火が絶えたわけではない。以前にも言ったかも知れないが、ソ連とポーランドの間に勃発した戦争があったし、その他にも細々とした紛争があるにはあった。しかし、少し前まであった世界大戦に比べたらなんのほどもなかった。

 そして、海の上は完全に平和そのものだった。大西洋航路においては、再び戦前のようにアメリカとヨーロッパを商船が行き来するようになった。あの殺伐とした海は再び元通りの静けさに戻ったのだ。変わったこともあった。アメリカへの移民が制限されたこともあり、ヨーロッパからアメリカへと向かう人々の数が少なくなった。だが、大戦で大儲けしたアメリカ人達は競ってキュナードやホワイトスターライン、フレンチラインと言った客船会社の船に乗り込み、ヨーロッパへと向かう。ある者は復興需要にわくヨーロッパにて新たなビジネスのために。またある者はパリやロンドンを観光するために。

 

 そんな大西洋航路を走っていた船で代表的な物を挙げると・・・ホワイトスターはマジェスティック号やオリンピック号を。キュナードラインはベレンガリア号やアキタニア号、モーリタニア号を。フレンチラインはフランス号やパリス号と言った客船を保有、運行していた。他に何隻も数え切れないほどに船があった。いずれも、すばらしい船であった。太平洋航路においても、東洋汽船の天洋丸、春洋丸。ダラーラインのプレジデント級といった客船達がお客を乗せて太平洋を行き来していた・・・が、これらの船には共通点が存在している。いずれも大戦中および大戦前に起工、設計された船であることだ。

 例えばマジェスティックは元の名を『ビスマルク』と言い、ドイツのパハグラインの船となるはずだったのをイギリスが分捕った物だったし、オリンピック号はあのタイタニック号の姉であり就役は大戦前の1911年のことだし、1929年まで世界一速い客船と言われたモーリタニアに至ってはさらに古い。フレンチラインのパリ号は戦後の就航であるがその進水は大戦前の1913年のことだ。天洋丸は1908年竣工である。ダラーラインのプレジデント・ハリソン号は1920年竣工だが、その建造は大戦中の物でそれほど新しいわけではない。

 

 つまり、客船に限ってかも知れないが、船自体は十分な数が揃っていたと言える。勿論、キュナードのラコニア号や後に豪華客船の中の豪華客船とまで呼ばれることとなるフレンチラインのイル・ド・フランス号などの船が建造されたりはした。しかしそれらは基本的に古くなった船の新調か、さもなきゃ大戦中に失った船の補充というべき物であった。




 太平洋航路においてもそれは変わらない。いや、経済的に見ればより深刻だったと言えるかも知れない。ヨーロッパとアメリカという両岸に先進国を持つ地域がある大西洋と違い、太平洋は言うなれば田舎だった。アメリカを除けば、経済的に発達した国と言えば、日本くらいの物であり、他に上海や香港といった大陸沿岸の都市がある程度である。だからこそ、行き来する船も、お客の数も、貨物の数も大西洋航路に比べれば微々たる物だった。

 ましてや日本は、先の大戦において大量の船を建造したことや大戦景気に乗り船を増やしたことで国内の商船会社は船が過飽和状態になっていた。しかも最悪なことに、保有船舶もその大半が旧式船だった。と言うわけで、速度の遅い旧式商船しかない日本商船隊はその只でさえ少ない貨物や乗客を新しい船で固めたアメリカやイギリスの商船に持って行かれるという羽目に陥っていた。しかし、新造船を作ろうにも大戦後の不況や関東大震災、そして昭和恐慌という荒波を何度も受け続けた日本経済はボロボロであり、新造船を建造できるような景気の良い会社なんて早々あるわけではなかった。そんな状況は世界恐慌が起こるころまで続くことになる。史実通りならば。




1927年11月


 木枯らしが吹く大神町は別府造船所。完成したばかりの第4ドックに一隻の船が入ったのはつい数日前のことだった。既に水は抜かれ、作業員達が足場を組む作業に追われているなか、それを見守る義男をはじめとする別府造船の幹部達の心境は複雑だった。半分が期待。もう半分が不安といった感じだろうか?


「なんでこうなったんだ・・・」


「なんでって・・・社長があんな契約獲ってきたからでしょうが」


「いや、まぁそうなんだが・・・」


 ふと呟いてみたぼやきを鋭く宮部に正論でつっこまれ、いつも以上に暗い表情を浮かべながら義男はドックの方へと向き直った。そこに鎮座している船の名は『マッケンゼン』という。かなり前に、義男が持って帰ってきたドイツの巡洋戦艦のなりそこないである。その船を今頃になってドック入りさせると言うことは、とうとうスクラップにして売っ払うのか、というわけではない。義男達はそれを客船に改造するつもりだったのだ。というか、そのつもりで頑張って持って帰ってきたのだから。

 だが、持って帰ってきて改造しようとしている当の本人達の表情はこんな感じに微妙な物であった。というのも、彼らは客船への改造はもっと後になってから行う予定だったからだ。


「こいつと・・・最低でも後一隻作らなきゃならないんだろう?」


「そういう契約になってますからね」


「浅野の野郎・・・」


 まるで呪詛のように呟いた相手の名前は浅野総一郎。言わずもがな、浅野財閥のトップであり、東洋汽船の社長である。というか、現在進行形で義男は浅野以外にあの料亭にいた全員を敵認定していたりしていたりする。正面から殴り合っても絶対に勝てないので黙っているが・・・。


「そんな頑張ってドスのきいたような声出しても誰も呪えませんよ」


「こんなことされたんだ。恨み節の一つくらい呟いても罰はあたらんさ」


 義男は宮部にそう言ったが、宮部はそれに対して何も言う気はなかった。なぜならば彼もまた似たような気持ちだったからだ。無関係を貫いていたのに勝手に彼らが自分たちを罠にかけたのだ。不満に思うのも無理はない。


 さて、どうして義男が珍しく相手に対してこれほどまでに嫌悪感をあらわにしているのかという理由であるが、浅野の名が出てきたことから読者諸兄は察したかも知れないが、東洋汽船の買収問題が絡んでいる。

 義男達は東洋汽船の買収に対して最終的に同意していた・・・というか、せざるを得なかったのだが、その契約の内容を簡単に挙げると大体したのようになる。


・東洋汽船は、汽船8隻と北米サンフランシスコ線および南米西岸線に関係する一切の営業権を別府汽船に譲渡する。


・別府汽船は東洋汽船に対して同社株の3割および2500万円を交付する。


・譲渡の実行方法として、東洋汽船が前期の譲渡物件のみを資産とする別会社を設立し、別府造船はそれを合併して対価に相当する株式ないし資金を交付する。


・合併実行日は昭和5年9月30日とし、新会社および別府汽船は合併契約の承認を求めるため、7月31日以前に株主総会を開く。



 ・・・大体こんな感じだった。これでも義男達別府グループのトップ達は粘りに粘って合併を急ぎたい東洋汽船を押さえて昭和5年(1930年)まで契約を伸ばしたのである。それは、この先の世界恐慌でえらいことになるのを義男が知っていたからと言うのもあるのだが、それ以上に、大分北部の企業団買収の問題があり、とてもじゃないが29年までに準備ができなかったと言うことが大きい。勿論そのかわりにいくつか譲歩せざるを得ないこともあった。

 一つが、東洋汽船からの別府汽船の経営に対する介入を一部受け入れると言うことだった。融資等の審査の関係から、手付け金の用意ができなかったと言うこともあるのだが、それ以上にノウハウが圧倒的なまでに不足していたことがある。なにしろ、別府汽船が行っている業務と言えば、瀬戸内海航路および南シナ海航路、そして姫島航路での貨物・人員の運搬業務であるが、数百人規模の乗客を太平洋を越えて北米まで運ぶために必要なサービスなどがまだ十分整っていなかったのだ。そういう意味でも既にノウハウを持っている彼らの介入を受けるのは仕方のないことだとも言えた。

 他にも、東洋汽船経営の神戸オリエンタルホテルの経営権の譲渡を諦めたことがある。神戸オリエンタルホテルと言えば、日本で最も古いホテルの一つであり、一度阪神大震災の影響で潰れたが、2010年に再オープンを果たしており日本有数の名門ホテルとして存在している。当初は、黒字な部門だったこともあり、取り敢えず損失の補填にこいつももらう予定だったのだが、浅野が渋ったことで交渉が難航。しかもなんか安田が間に入ってきたこともあり、泣く泣く諦めたのだった。

 

 これだけでもかなりの譲歩だと言えるのかも知れないが、その他有象無象の圧力を受けてしまい、裏契約的なことをいくつか結んでいた。その一つが、譲渡船舶の一部・・・特に、旧式化の目立つ天洋丸、春洋丸の二隻の代替船を合併までに手配しておくことであった。

 しかしこれは、仕方のない面があったと言える。当時の北太平洋における日本客船隊・・・その主力たる東洋汽船客船隊を見てみてもそうだろう。


・天洋丸型貨客船2隻(13000トン、14ノット、1907竣工。)


・これあ丸、さいべりあ丸(11000トン、13.8ノット 1901年竣工)


・大洋丸(14000トン、14ノット 1911年竣工)


 この5隻が現在北太平洋航路において運航されている日本の主力客船だった。このうち、これあ丸、さいべりあ丸はアメリカ製で、大洋丸に至っては、元ドイツの客船カップ・フィニステレ号である。いずれも10年以上前の船であり、機関も古い。同じ頃の欧米の客船隊が平均17ノットで航行していたのに対してこちらは14ノットであるから、当然ながら時間がかかるし、船齢がいずれも10年以上経過しており、設備も旧式化しつつあった。と言うわけで、別府汽船の買収話が出る遙か前から、これらの船を一気に新調にするべきだという話は各所から出ていた。で、丁度良いからということで、この買収を機に客船を新造してしまえと言うことになったわけである。

 

 実際、トロくて古い船などビジネスマンは好まないし、客も乗せる貨物船として運用したとしても、やはりスピードが遅い分、運送費が嵩むこともあって高価な積み荷は運ぶことは望めない。なにしろ、この当時、太平洋を横断するのに日本船が2週間前後だったのに対して、欧米の船は10日前後だったのだから、その差は圧倒的である。これでは最悪、安い雑貨が運べればいい方である。そう考えるならば、新しくて速い船を用意すれば、英米の商船隊と勝負するのだと言うことも一理ある。


 もちろんそれは義男も同じ考えである。『古い船を大切に末永く使いましょう計画』を発動させて設備や機関を一新したところでまもなく船齢20年になろうかという老朽船を使い続けるメリットは少ない。ならば新造した方が経済的にはお得かも知れない。ましてや欧米の客船はいずれも10年も発っていない船ばかりだし、それどころか新造船を建造をも計画していることを考えると、太平洋航路を巡る競争に打ち勝つことは無理だろう。そういう意味では、国や東洋汽船などとの考えは一致していたと言える。

 しかし、アプローチが少し違っていた。義男としては1930年以降の建造を計画していたのである。そしてそれまでにタンカーやコンテナ貨物船をある程度そろえてしまう予定だったのだ。

 理由としては、定期客船では利益を上げることは難しいと考えていたからだ。まず、アメリカは大戦前に既に移民の受け入れを制限している。それがあって南米移民や満州移民が推奨されることになる訳だが・・・これでは太平洋航路を行く人々は基本的にビジネスや旅行客のみとなってしまう。そして、アジアは欧州に比べて田舎だった。・・・これでは、客船を整備したところでメリットは少ない。

 それならば、高速を発揮できる貨物船を多数整備して、国内産業を発展させた方が何倍もメリットがあると義男は考えていた。客船事業はあくまでついであり、義男にとってのロマンと広告塔としての役割以外の何者でもなかった。


 そんなわけで、当然ながら義男としては「無理難題押しつけられたって事で買収交渉から手を引こう」と考えていたのだが、そうは問屋が卸さなかった。同時に交渉を進めていた大阪商船と日本郵船の両社が殆ど同時に手を引いたのである。まるで事前に示し合わせていたかのように・・・。それを見た義男も慌てて手を引こうとしたのだが、「どこへいこうというのだね?」というどこぞの筋肉達磨みたいな感じで安田銀行と三井銀行から引き留められてしまったうえに、国から内々の話ということで「あんまり駄々こねたら、南方航路の免許取り消すよ?」と言われてしまったりしたこともあって、結局は首を縦に振らざるを得なかった。そういう訳なので、義男が彼らに対して敵意を持つのも諾からぬ事なのかもしれない。


「まぁ・・・運行云々は兎も角、船自体は上等な物ができそうだな」


「元が軍艦ですからね。丈夫さでは折り紙付きですよ」


「その分改造に手間がかかりそうだがな・・・」


「それは初めから分かっていたことですからね。仕方ありませんよ」


 義男の懸念に黒田は尤もだと言わんばかりに応えた。元々、軍艦という物は商船と違って戦うための物で、沈んだら終わりなのだ。と言うことで、分厚い装甲と数多くの水密隔壁を持っている。それが曲者なのだ。これらは船の構造上重要な部分であり、下手に取っ払えば構造がもろくなってしまうのだ。折角作っても嵐で沈没とかになったらそれこそ目も当てられない。


「ただ、我々もこいつを商船に改造する方法を10年にわたって研究してきましたからね。機関や強度計算等は完了しています。ただ・・・」


「時間か・・・」


「ええ。基礎構造の一部にまで手を出しますからね。・・・殆ど作り直しですよこりゃ」


「・・・交渉で東洋汽船が新規取得する貨物船数隻をうちが建造することは決まったが・・・」


「正直、それ位やらなきゃやってられませんよ」


 数少ない契約のメリットとしてあったのが、客船部門を手放す代わりに、何隻か新規貨物船の発注を受けると言うことだった。実際この頃の日本の造船会社においてディーゼル機関の技術を持っている会社は三菱、川崎、そして別府・・・この三社くらいだった。そのため、義男は迷惑料と言うことで東洋汽船が予定している新規貨物船の何隻かを別府造船に発注させたのである。もちろん浅野も傘下の造船会社を保有しているが、技術的な面などから厳しいと判断されたこともある。


「だが、これで遺されたリソースも東洋汽船の船に持ってかれてしまった・・・」


 義男は溜息をつきながら言った。

 

 そうなのだ。別府造船は現在、マッケンゼンおよびグラーフ・シュぺーの客船への改装工事のために人員と設備の大半を投入しており、残ったリソースも東洋汽船からの発注に対応しているのだ。お陰でドックや船台は殆ど埋まっており、文字通り満員御礼状態なのだが、お陰で自分たちの事業計画が狂っているのだ。


「仕方ありませんよ。なにしろ我々には金がありませんからな」


 つられるように一色が溜息をつく


「分かっているんだけれどねぇ・・・貧乏は辛い」


「こうなれば、一刻も早く完成させるしかありませんな」


「それしかない。さっさとドックを開けて・・・そのためにも、また金がかかるな」


 本来ならば掛けなくても良い金をかける。その額を思い浮かべるだけで義男達は暗い気持ちにならざるを得なかった・・・。



 

 




皆様、あけましておめでとうございます。


早いモノで正月も終了してしまいました。

最近はホーンブロワーの影響からかナポレオン戦争やフランス革命戦争期を勉強している最中です。その結果、「フランス海軍って結構強いやん」というのが真っ先な感想だったり・・・どうしてもトラファルガーでボコボコにされたイメージがあった物ですので、他の第3次ウェサン島沖海戦やトラファルガーの前のカリブ海などでは結構活躍しています。彼らが弱くなったのはフランス革命で優秀な水兵や士官の殆どを失ったことや、ナポレオンの海軍の無理解があったからでしょう。そんな中でもヴィラレー提督やブリュイ提督など優秀な人たちも多かったのです。


さて、今回のお話は少し予定を変更して東洋汽船の買収騒動です。古くなった天洋丸の代わりにマッケンゼンを魔改造している真っ最中です。

実際、合併に当たって天洋丸型に変わって新しい客船を整備するという契約が史実においても日本郵船と東洋汽船との間に交わされており、お陰で浅間丸型が建造されています。

ちなみに、契約内容は日本郵船と東洋汽船が結んだ物を参考とさせていただきました。株や資金の交付等は弄くらせていただきましたが・・・

 今回は浅間丸より大型になりそうな感じですが、採算を取るのは結構難しそうですね。ただ、この後CPLや$Lが20000トン超の大型客船を投入してきますから、それに退行する意味でも必要になりそうです。

しかしお陰で義男達が思い描いていたプランは完全に潰れてしまいました。発注があるのは良いことですが、それで潰れては元も子もないのです。

果たして義男達はこの状況下でどうしていくのか・・・?


次回は、いい加減のんびりしすぎたと言うこともあり、もう2年程度時間を進めてみる予定です。


 

ありがとうございました。

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