鳥海
日本列島と言うところは、太平洋造山帯に属している。3000メートル級の峯が連なる北、南アルプスはその一部だと言える。火山も至る所にあるし、造山活動の一種とも言うべき地震なども頻繁に起こるなど、非常に活動が活発な地域である。である以上、多種多様な鉱石が産出されたりする。
石油もまたその一つである。現在日本では、新潟以東の日本海沿岸部にいくつか油田がある。秋田県の八橋油田、新潟県の大面油田、北海道の勇払ガス田などがその代表例だろう。一昔前、1960年頃までは他に石狩油田や桂根油田などのような油田がいくつかあった。大正~昭和初期までの日本は、あまり石油を必要としてはおらず、石炭の利用の方が遙かに多かった。石油の需要が本格的に伸び出すのは1950年代以降のことである。とはいっても、この時代には既に機械油や灯油、そしてガソリンの需要が伸びつつあったことは確かだ。
石油とは、長い年月をかけて有機物が変質したものだと言われている。だいたい1800万年前、のちに日本列島となる島々が散らばる日本海は現在以上に温暖な海だったという。この時期に、秋田や新潟、北海道の石油の元となる有機物の堆積が進んだのだろう。そして、こうした地中に溜まった有機物はゆっくりと熟成されてドロドロになり、やがて石油へと変質していったらしい。というのが、日本海沿岸部において点在する日本の油田のなりたちであると言われている。現在でも佐渡島沖合においてそこそこの規模の海底油田の存在が取りざたされていることなどから考えると、まだ割と広範囲に石油が眠っている可能性がある。(掘り出せるかどうかは別にして)
1927年7月8日 山形県 遊佐町
山形県の北西部に庄内平野と呼ばれる地域がある。最上川と赤川の堆積作用により形成された平野であり、出羽富士とも称される鳥海山をはじめ、月山などの山々によって囲まれている。日本有数の米所としても知られている。戦国時代にはこの地を巡って最上さんが上杉さんや伊達さんと仲良く殴り合ったりしたらしいが、どうでもいいことである。その鳥海山の麓にて石油が発見されたのは、つい一昨年、25年の春のことだった。
「ようやく生産開始か・・・」
「全く、苦労しましたよ・・・」
中年のオッサンと同じくいい年をしたドイツ人が櫓を見上げながら話していた。中年のオッサンとは言うまでもなく、義男である。気がつけばもう40すぎである。これは、この時代においてもオッサンと行っても差し障りのない年齢で、本人としては顕在化し始めた生活習慣病に由来するいくつかの持病に悩まされ始めていたりするのだが、それはまた今度お話しするとしよう。大体こいつの自業自得であり、この話には何ら関係のないことだからだ!
さて、義男達が見ているのは、言うまでもなく井戸である。それも、石油掘削のための井戸に他ならなかった。それが彼らの周りでは何本かあった。そう、義男達は2年あまりをかけてようやく石油を掘り当て、商業生産を開始することができるようになったのだった。
石油という物は、地底湖のような地下に巨大な空間があって、そこに溜まっているというわけではない。石油は岩石の孔隙や割目に存在しているのだという。このように石油を留める石を貯留岩という。貯留岩は砂岩や炭酸塩岩がそれである。共に、水などの液体がしみこみやすい構造をしている。だからこそ、何本も井戸を掘ってそうした岩石の隙間から原油を吸い取るというのが、油田の主な開発方法である。義男達が見上げている井戸は、そうした開発用の櫓の一本である。
先ほどにもかいたように、新潟県以東の東北地方日本海側には油田がいくつか存在している。それは、山形県であっても例外ではなかった。昔から小規模な油田がいくつか存在していたらしいのだが、隣の新潟や秋田、北海道に比べればその規模はとても小さかった。それでも、油田は油田である。
「採算は・・・あまり取れそうもないな」
「埋蔵量も少なそうですからね。」
のんびりと話すドイツ人はテオドール・シュタインという。かつて各国共同でイランなどの石油事業を行っていたトルコ石油会社にいた人物で、掘削などを行っていた技師の一人だった。現在、別府造船と貝島炭産が共同で設立した石油会社、東邦石油(株)の油田開発事業を取り仕切っている人物だった。
ドイツは戦前までバクーやイランにおける油田開発事業に参入していた。中東で石油が初めて発見されたのは1908年のこと。これ以降、ドイツ、イギリス、フランスは中東における石油利権を巡って対立をすることになる。当時、イギリスが3C政策(ケープタウン、カルカッタ、カイロを鉄道で結ぶこと)、ドイツが3B政策(ベルリン、イスタンブール、バグダードを鉄道で結ぶこと)をそれぞれ推し進めて対立を深めていたが、こういう所にも要因があったのだ。
が、ヴェルサイユ条約の結果、ドイツは全ての植民地を放棄することとなる。これまで影響力を持っていたバグダートなどのイラク周辺部での影響力も失われ、かわってイギリスがイラクを保護国とした。当然ながら、当時ドイツが保有していたトルコ石油の25パーセントの権益も全て失ってしまう。
バクー油田も共産主義者によって接収されてしまったものだから、こちらの影響力も失ってしまった。ちなみに、バクー油田にいた技師達の中には共産主義にかぶれてしまったものも多かったらしく、そのままソ連で仕事を続けたものもいるらしい。
そして、シュタインのように中東にて石油事業に参加していた者達は、そのまま現地の英仏系の石油会社に就職するか、本国へと帰って行った。シュタインは本国への帰還組である。で、ロイナヴェルケ(ハーバーボッシュ法を開発した会社。後のIGファベリン)にでも就職しようかと考えていたのだが、そこで義男に引っ張られたのである。日本と言うこともあって暫く悩んだ物の、トルコ石油時代よりも給料が良かったことや、相応の地位を与えられたことなど魅力もそれなりにあったことで、日本行きを決めたのだった。
さて、話を油田に戻そう。彼らが発見したのは、「鳥海山油田」という山形県遊佐町にて史実ならば1934年に発見された油田である。と言っても、それほど大規模な油田だったというわけではない。22年程度で生産を終了したこの油田は累計生産数でも6.8万キロリットルとかなり少ない物だった。当時の日本の年間石油消費量はは現在の10分の1程度にも満たない200万キロリットルではあったが、それにすら及ばない。それも、年間生産数に至っては単純計算で3000キロリットル程度でしかないのである。これでは、とてもじゃないが商売にはならない。
が、義男にとってはそんな事はどうでも良かった。と言うのも、義男は別にこの油田で商売をしようなどとは考えてはいなかった。これは、あくまで自分たちが油田掘削能力のある会社であると内外に示す実績用のものでしかなかった。
というか、そもそも義男は国内油田で勝負をするつもりなど欠片も持ってはいなかった。日本国内には大規模な油田は存在しない。である以上、海外の未発見の油田を探すしかない。そして、こうした海外に行く際においても一定の実績があると言うことは、現地での開発事業を行う上でも重要なものになると義男は考えていた。まぁ、何の実績のない会社がいきなりやってきて「石油掘らせて!」と言っても現地民から見たら「変な山師が来た」と警戒するだろう。まぁ、今まで伝の無かったところに行けばそうなるだろうが・・・
「しかし、大丈夫なのですか?」
「ああ、全然大丈夫だ。問題ない」
シュタインがおずおずと尋ねたが、義男はどっかの書記官の如き台詞を自信満々で言ってみせた。死亡フラグが立ったように思うが、義男にはそれなりに勝算と使い道があった。
「別にあまり採算が悪くてもどうでも良いんだ」
「じゃぁ、ここで取れた石油は・・・?」
「それなら港まで運んで精製して、火力発電所の燃料にするから問題はないよ。売却するのは余剰分だから・・・あんまりないだろうね。」
「あの建設中の所ですか・・・」
シュタインはああと合点がいったように言った。義男が言う火力発電所とは現在酒田港にて建設中の火力発電所だった。義男はそこに大規模な石油コンビナートの建設をもくろんでいた。実際、戦後のことになるのだが、酒田港の北、かつて宮海地区と呼ばれた辺りは海岸が続いていたのだが、この辺りは埋め立てられて工業地帯になっている。住友軽金が進出してアルミ工場を建設している。また、石油の精製工場については既に完成していた。といってもそれは、アメリカから中古の精製機材を買いたたいてきたもので、非常に小規模な物であったが、それでも現状ならば問題はなかった。
「生産量こそ少ないですが、油質はそんなに悪いわけではありませんしね。火力発電所用の燃料としてなら十分でしょう。」
「たしか、中質油だったかな?」
「ええ。どちらかと言えばその中でも割と軽い方になるのですが・・・ガソリンとかにしたほうが良いのかも知れませんが・・・」
「ふうん・・・ガソリンならまだ歩溜まりもマシかな?」
「ガソリンだけが生産できるというわけでもないのですが・・・まぁ、ガソリンの生産に比較的向いている石油であると言えばいいでしょう」
「国内の自動車もだんだん増えてきているからね。それなりに需要もありそうだな」
義男はぼんやりと言ったが、石油は全部同じであるというわけではない。水みたいにサラサラしている物もあれば、ネバネバした物もある。簡単に言えばサラサラした物は軽質油と呼ばれており、ネバネバした物が重質油と呼ばれている。それぞれが皆精製することは可能なのではあるが、その中でもいくつかに種類が分けられる。一般的に軽質油であればガソリンなどに向いており重質油は重油などに向いている。山形県で生産される石油は多くの場合、その軽質油と重質油の中間に当たる中質油と呼ばれる種類に属している。そのなかでも軽質油よりなのだという。つまり、ガソリンの生産に比較的適しているといえる。
「まぁ、たりなくなったら買えば良いんだし。ガソリンで良いかな」
「まずは、本格稼働させてからですよ」
「うん。取り敢えずまずは精製からだね」
義男がここにコンビナートを建設しようとする理由はいくつかある。一つは油田が近くにあること。小規模ではあっても油田は油田。燃料がある程度自弁ができること。土地が手に入りやすいこと、そして、人件費が安いこと・・・などがあった。
当時、東北地方一円で言えることなのだが、この辺りは日本で最も貧しい地域だった。原因としてはいくつかある。まず、当時の政府が東北地方への投資する政策を殆ど行わなかったことが挙げられる。と言うのも日露戦争の結果、満州や朝鮮半島を手に入れた日本は、その国防上の理由からその方面への投資を行わねばならず、とてもではないが東北へ投資する余裕など無かったのだ。もう一つは、戊申戦争時に明治政府に対して反抗したからと言うのもあるのかも知れない。その他に当時の地主制やたびたび冷夏などを原因とする不作にさらされていたり、米価や株価の低下などもあって、非常に貧しい地域だった。
だからこそ、義男はこの方面に大規模な工業地帯を建設しようとしていたのだ。今の日本の企業が賃金の安い東南アジアや中国に進出したのと同じ理由である。勿論、この地域にハッテンさせていたいという気持ちは嘘ではなかった。しかし、それ以上に安い賃金という物に引かれてのことだった。しかも中国などと違って方言の問題こそあったが日本語は通じるし、教育を受けたものもそれなりにいる。義男的にはうってつけだったと言う訳だ。
「ま、いずれにしても、本格的になるのはもう少し先のことだがね」
「まだ練習の段階です。気長にいきましょう」
「そうだね・・・」
それだけ言うと、義男は視線を移した。青い空が広がり、その向こうには巨大な鳥海山の姿があった。
皆様こんばんは
すっかり涼しくなるどころか寒くなってしまいました。
今年は下手な梅雨以上に雨が降り続くこともあって、ボチボチ晴れ間が恋しくなってきた今日この頃です。
なんか神戸製鋼が相当やらかしているみたいですが、大丈夫なのか?と株価を見ながら思ったりしています。潰れることこそナイト思いますが、これで相当信頼を落としたことは間違いないでしょう。
さて、ようやく石油を掘り当てることができました。山形県にはこのほかにも余目や楢橋などいくつかの油田が1960年代にかけて少しずつ発見されていきます。その内余目は現在でも操業している油田です。
今回は中休み的な意味で書いてみました。次回はボチボチまた客船の話に戻りたいと思います。
ありがとうございました




