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菓子

 糖分とは、頭の動きを活発化させたりあるいは精神をリラックスさせるために必要不可欠な栄養素であると言えよう。まぁ、食べ過ぎたら体重が増えることになるのだが、それはそれで仕方がないと言えば仕方がない。特に女子の諸君はそうであろう?チョコレートとかケーキとかを食べていたら気がついたら体重が増えていたとか・・・身に覚えがあるのではないだろうか?


 さて、この時代、日本人の食べられる菓子と言う物は多岐に及んでいた。古くからの饅頭や餅、飴はもちろんのこと、江戸期の開国やそれ以前の外国船の到来によって西洋や中国の菓子が日本に流入してきたからである。開国旗以前に伝わった菓子で代表的な物にカステラや金平糖がある。

そしてその後、明治大正期にかけて西洋菓子の国内生産が行われるようになった。日本を代表する菓子メーカー「不二屋」が創業をしたのが1910年で、丁度その頃くらいから森永やグリコが誕生してきている。キャラメルやチョコレートが国内で生産、販売がされるようになったのもまさにこの頃のことであった。とはいえ、そうした西洋風の菓子が流通するのは長崎、博多、東京、名古屋、神戸、大阪と言った風な海外との取引があるところか、そうでなければ大規模な流通拠点のある都市部に限られていたと言える。

 洋菓子が全国に広まるのは関東大震災によって多くの店舗が被災し、作り方を知っている菓子職人が全国に散ってからのこと・・・つまり1923年の後半以降のことである。しかるに、地方では洋菓子は未だに十分に浸透しているわけではなかったのだ。

 それは、別府造船所の根拠地である大神はもちろん、日出や別府にもそんな物を出してくれる店はなかった。いや、それどころか、この頃の別府には洋食を出してくれる料理屋なんて欠片もなかった。油井熊八の亀の井旅館も当初は洋食は出してなかった。そのため、史実の大分で洋食が食べられるようになるのは、別府に洋食屋である東洋軒ができる1926年頃まで待たねばならなかった。 

 しかし、この頃からだんだん状況は少しずつ変わってくる。大体義男のせいで。


1922年7月8日 横浜


「関東に来るってのも、面倒くさい物だ。東京~大阪間が3時間くらいで結ばれる高速鉄道でもあれば良いんだが」


「そんなモンあるわけ無いでしょう」


 この日、義男は後藤を伴って横浜に来ていた。横浜は1859年に開港して以降、神戸などとならぶ海外との貿易の拠点であり、日本経済の中心地の一つとして、そして海外の文化がやってくる窓口でもあった。目的はある会社を買収するためであった。すでに株式の過半数近くは取得しており、今日はその会社を保有している親会社との間で打ち合わせをするために訪れていた。

 結果を言えば、親会社としてもその会社の存在を半ば不良債権のように見ており、義男が買いたいと言う筋を話すと、乗ってはくれることになった。もっとも、それなりの出費を強いられることになったが。

 で、話も終わったため義男と後藤は連れだって何か腹に入れようと思い立った。とはいえすでに時刻は2時を少し回っており、昼食をとるにはやや遅い時間帯であった。と言うかそもそもこいつらはその前にものを食べていた。そのため、「昼前に飯食ったし、軽いのがいいから・・・彼処に行くか?」と義男が提案し、後藤も「まぁ、あそこなら・・・」と二人連れだって横浜のとある店へと向かうことにした。



 「ごめんください」


 「ようこそ」


義男がドアを開けると、割と片言なドイツ語と日本語が交差した。


「またきました」


「お待ちしておりました」


「今日は奥さんは・・・?」


「エリーゼでしたら買い出しに行っております・・・さ、こちらへどうぞ」


どこか照れくさそうに笑う義男にカウンターにいたドイツ人は柔らかい笑みを浮かべて迎え、席を勧めた。



「いや、悪いですね、こんな時間に押しかけてしまって・・・」


「お気になさらず。今の時間帯は割と暇なんです」


「そう言って貰えるとこちらとしても気楽です」


義男は出されたコーヒーを飲みながら笑みを浮かべた。


「・・・それで、例の件はお考えいただけましたでしょうか?」


義男の言葉にドイツ人は少し躊躇したような表情を浮かべた。


「さすがにそれはまだ・・・確かにあなたには恩もありますが」


「いやいや、そちらとしてもこの店を始められたばかりですからな。直ぐに回答できないことは承知しております。もちろん、予定地は開けておきますし、後からの追加になっても何とかさせていただきます」


「申し訳ございません」


「なんの、これは私の道楽でもありますのでお気になさらず」


申し訳なさそうな顔をしている店主に義男は気にするなとヒラヒラと手を振った。


「それより、そろそろ食べ物を出してはいただけないかな?ちょっとお腹すいちゃって」


「ハハ、そうでしたな。直ぐにお出ししましょう・・・あれ、でよろしいですか?」


「うん。何時も通り、アレ・・・1尺(大体30センチくらい)で。後コーヒーをいただけるかな?」


「承知しました。」


そう言ってドイツ人は姿を消した。

義男は店の雰囲気を見つめながら料理がくるのを暫く待つことにした。


「社長、いい加減自分が食べたいからって少しわがまま過ぎやしませんかね?」


「ん?でも彼の作る菓子は美味いし面白いよ?」


「もっと別の店でも良いでしょうに」


「でも下手に色々手を出そうとして明治屋みたいなでかいところだと金がいくらあっても足りないだろ?」


「そりゃそうですが・・・」


「すでに、ハムはローマイヤーのとこからの話も通っているし、後はここだけなんだけど・・・」


「だからって、店の準備金を用意するなどもうやりすぎですよ」


「いいじゃないか。俺の趣味だ」


「そういうのを、成金趣味と言うんですよ」


後藤の言葉に義男は苦虫をかみつぶしたような顔をしながらコーヒーを啜った。

義男はどうも自分がやったことに対して自覚はあるようだった。


「・・・まぁ、向こうさんも店を始めたばかりだからな、焦らずゆっくりするさ・・・金と恩で顔面ダブルパンチを食らわせてやったんだ。靡いてもらわなきゃ困る」


「だと良いのですがね・・・」


 悪そうな顔をしながら言う義男に後藤は溜息をつきながら思った。全くこいつは・・・と後藤は何時も思う。後藤は当初、まだ新任だった義男の上司であった。義男がコネ入社であったことには大して問題視はしなかった。その時代では良くあることだったからだ。現在でもコネでの入社などは良く聞く話である。しかし、入社前のこいつの姿もある程度伝え聞いていたため相当身構えた物だが、やってきた当初は憑き物が落ちたような普通の若者であったことにかえって驚いたことを後藤は覚えている。そして今や、大分でも最大手の企業にまで成長させたのが目の前で食事を待ちつつコーヒーを啜って渋い面をしているオッサンであると言うことに、後藤はどこか信じられなかった。


 確かに、こいつはかなり滅茶苦茶なところがある。これだと思ったら脇目もふらず突っ込んでいくのだから。別府造船が成長するきっかけである5000トン級ドック建設の時だってそうだ。こいつは社長の許可を取ったから!と普段使わない有休を取って会社を飛び出したと思ったら銀行などから莫大な融資を取り付けてきていた。そしてその金を全てドック建造に使うように迫ったのである。これには当時営業課長だった後藤も驚いた。こいつが本気でこの会社を大きくしていこうと考えていたからだ。

 それからが義男の快進撃のはじまりだった。この頃あちこちで勃興してきた海運会社や個人船主に声をかけ、船を売りまくり、資材を手に入れた。それに伴って受注も伸び出し、最盛期には年20隻というとんでもない数の船を建造するようになった。急成長にも程があるという物だ。

 そして今や、義男は社長であり、後藤はその下で部下へと変わった・・・多少、思うところがないわけではないが、それでも目の前の結果を見せられては傾かざるを得なかった。


だが、もうすこし周りを見て行動してはくれない物だろうか・・・


そんなことを思い返していると、義男が頼んだ物がやってきた。


「お待たせしました。ピラミッドケーキです」 


皿に置かれたのは真ん中にぽっかりと穴が開いた丸く、年輪を積み重ねた切り株のようなケーキ・・・今で言うバウムクーヘンであった。


 実は、日本でバウムクーヘンが広まったのもこの頃。当時の日本ではバウムクーヘンとは言わず、ピラミッドケーキと呼ばれていた。

 そして、バウムクーヘンを日本で最初に作ったのが、目の前にいるカール・ユーハイムであった。後に神戸で菓子メーカー、「ユーハイム」を創業することになる予定の人物であった。


 義男とユーハイムが出会ったのが1919年の広島県物産陳列館捕虜製作品展覧会での席であった。当時ユーハイムは先の大戦の際にドイツの租界地であった青島で捕虜となったのだが、そこで菓子職人として料理に携わるなどしていた。そしてこの時、捕虜の製作品の展覧会が広島で行われた際でも、ユーハイムはバウムクーヘンを出品していたのだった。

 そして、この時義男は丁度瀬戸内海の自治体との間でフェリーの購入契約を結ぶべくやってきており、その際にふらりと立ち寄ったのである。そこでバウムクーヘンが売られているのを見て驚いた。当時の日本ではバウムクーヘンなんて全く知られていなかったし、義男も半分忘れていたからだ。ちなみに、バウムクーヘンはドイツ本国では日本ほど有名ではなく、あくまでとても珍しいお菓子という扱いであったりする。なお、義男は前世で大学時代に良く安いバウムクーヘンで昼間に腹を膨らませていたりする。そんなわけでこれを見たとき、「あれ?なんでこれがこんなとこにあんの?たしかにドイツの菓子だった気がするけど・・・」と懐かしさのあまり一つ購入して彼と話をして以降親交を持つようになったのだった。


 そして、ユーハイムが1921年に独立して店を横浜に構えることを知った義男は早速資金援助を持ちかけたのだ。それと同時に、建設を計画していた別府グループ東京営業所用のビルと日出に店を出してみないか?と提案したのだった。

 前者は自社ビルでの宣伝活動の一環として。そして日出の場合は、ドイツからやってきた技術者達に向けの食品を提供するため。ちなみにこれは他の在日ドイツ人の食品業者にも声をかけており、現在でも高級ハムを製造、販売しているアウグスト・ローマイヤーのローマイヤー株式会社の前身となったローマイヤー・ソーセージ製作所とは、すでに商品の取引や出店契約を交わしており、ビルのテナントに入ることが確定していた。


 だが、ユーハイムはさすがに店を開いたばかりなのでまだ軌道に乗っているわけではないからと言うことでこの話を断っていた。義男としてもその辺は理解しているため偶に融資や出店などの提案こそするものの、それほど無理強いをするわけでもなかった。しかしその一方で、いつでも受け入れる体制を整えていることをさかんにアピールしてもいた。

 義男は是が非でもこの青年を逃がすつもりはなかった。主に自分がバウムクーヘンを食べたいために!

そんなわけで、義男は横浜や東京に訪れるたびに彼のもとを尋ねていた。まるでどこぞの101顧の無礼のようである。


 義男は懐かしさをかみしめつつ、一方の後藤は物珍しさが興じて好物になった物をそれぞれ口に運び、胃に入れ終えてコーヒーを啜って一服した後、ユーハイムに頼んで土産用としてもう2尺分のバウムクーヘンをそれぞれ一つずつ切ってもらい、店を出た。


 義男達はこのあと買収予定の会社を見に行った後、夜汽車に乗って大阪に向かった後、自社の船にのって帰る予定であった。


「やっぱりまだダメだな~」


「何がですか?」


「あの店・・・後2~3年は少なくともダメだな」


「気長に待ちましょうや」


「でも、せめて別府には早く来て欲しいんだ。」


「まぁ、日出にはドイツ人がボチボチ住み始めてますしね」


「うん。だから、できるだけ早急に引っ越してもらうか支店を出してもらわないと・・・」


義男はそう言って溜息をついた。

こんな感じで断られた義男であったが、意外に彼の願いは早めに叶うこととなるのだが、そのことは義男は知るよしもなかった。

 


みなさまこんばんは

今回は日本の洋菓子の歴史について少し触れてみました。この時代、確かにキャラメルやガムが出回り始めたのですがそれはあくまで都市部に限られていました。田舎ではまだまだそんなもんありません。ちなみに、大分で名物の鶏天を初めて作ったのが、この別府の東洋軒ということらしいです。

今回出てきたカール・ユーハイムは日本にバウムクーヘンを広めた人物です。史実ではこの後の関東大震災で横浜の店が丸焼けになってしまったので神戸に拠点を移しました。彼を出したのは、丁度この話を考えているときにバウムクーヘンを食べていたからです。

バウムクーヘンは私は大好きです。大学時代にはたまに阪神百貨店の地下のバウムクーヘン屋で並んでいたことがあります。(普段は100円のおやつで我慢してましたがよく食べました)


さて、次回はようやくまた船の話に戻ります。


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