40 『オルフェウス』
昔々。
気が遠くなるくらい遥かむかしのこと。
まだ世界が神々に支配されていて、人間たちの近く、大地や森、或いは街や城にまで神様たちが住んでいた超古代の話です。
ある所に、オルフェウスという若者が住んでおりました。
彼は父であるアポロンから竪琴をもらい、その楽器を一生懸命に練習しました。
オルフェウスはすぐにその才能を開花させて上手となり、蠱惑的で美しい音を奏でました。
その音色は人間だけではなく、動物、獣、果ては魔物や妖精までをも魅了していました。
長じるころには立派な吟遊詩人となり、世界中にその名が知れ渡っていました。
彼にはエウリュディケという恋人がおり、二人は深く愛し合い、やがて結婚をしました。
ですが、ある日のことです。
エウリュディケの美しさに魅せられた牧者アリスタイオスが、彼女の散歩中を狙い、強引に言い寄ったのです。
エウリュディケは逃げました。
彼女はオルフェウスを愛していて、彼以外のものと好きあうなど考えもできなかったのです。
しかしその途中。
なんと、エウリュディケは毒蛇に咬まれ、命を落としてしまいます。
それを知ったオルフェウスは酷く悲しみ、ある決心をするのです。
黄泉の国へ赴き、冥界の支配者ハーデスに会い、愛しいエウリュディケを冥府から連れて帰らせてもらおう、と。
オルフェウスが冥界へと足を踏み入れると、様々なモンスターや冥界の住人たちが彼の行く手を阻みました。
魔獣たちは牙をむき、彼を食い殺すつもりでした。
ハーデスへと至る川の渡し守カロンは、正者を船に乗せることはせず追い返すつもりでした。
しかし、ひとたびオルフェウスが竪琴を奏でると、魔獣たちはたちまちのうちに魅了され、彼をハデスの元へと導いてくれたのです。
ハーデスの元へ至ったオルフェウスは、妻であるエウリュディケを連れて帰らせてほしいと懇願しました。
すると冥界王ハーデスはここまでやってきたオルフェウスを気に入り、それを許可したのです。
ただし、その時。
一つだけ、条件を出しました。
『エウリュディケはお前の後ろを歩かせる。冥界を出るまで、一度も彼女を振り向いてはならぬ』
ハーデスの出した条件はそう言ったものでした。
オルフェウスは言われた通り、一度も振り返らずに来た道を戻りました。
しかし現世へと戻る直前。
オルフェウスはついに、エウリュディケが心配になり、振り返ってしまったんです。
エウリュディケはたちまちの内に闇へ飲み込まれ、また冥界の奥へと連れていかれてしまいました。
現世に戻ったオルフェウスはとてつもない後悔に苛まれます。
そんな苦悩をよそに、独身となった彼は現世の女たちに言い寄られました。
しかし、オルフェウスはその悉くを袖にしました。
オルフェウスにとって、愛する女性はエウリュディケ以外にいなかったのです。
その結果。
オルフェウスは現世の女たちに殺されてしまい、ヘブスルの川へと捨てられてしまうのでした。
……さて。
このオルフェウスはなぜ、振り返ってしまったのでしょうか。
妻が心配になるのは当然でしょう。
しかし、冥王ハーデスが嘘をつく理由はありませんし、そもそも、彼がエウリュディケを救う手立ては「振り返らないこと」以外にはなかったはずです。
ではなぜ振り返ったのか。
私は、ここに「異世界を渡るための試練」というものがあったのではないかと思うんです。
というのも、私があちらに行ったり、或いはこちらに来たりするときにも、同じルールが存在するからです。
『異界へと通じる穴の中では、後ろを振り返ってはならぬ』
これは、異世界移動者ならだれもが知るルールです。
そしてこれは規則であり、試練でもある。
異世界と現世を繋げているトンネル内では、人は一時的にその容を失います。
正確に言うと、人と概念の境目が曖昧になるのです。
体と思考がない交ぜになり、視界の中で、次から次に過去の記憶が通り過ぎていくのです。
人は記憶の生き物。
自分が自分であると認識できるのは、記憶と今を答え合わせしているからに他なりません。
そう。
人の脳みそは、自動的に記憶と現在を比較し続けている。
それゆえ、人間は辛い過去を完全に忘れることはできないし、幸福な思い出を振り返らないでいることもまた、困難なのです。
あなたにも覚えがあるはずです。
唐突に現れる、様々な記憶どもに襲われた経験が。
その現象が、『異界トンネル』の中ではより強烈になるのです。
そしてトンネル内のルールでは、過去を振り返ることは罪なのです。
オルフェウスは、恐らくあの時、何らかの記憶が見えていたに違いない。
それは強烈な欲求を伴って彼の脳に刺激を与え、ほとんど反射的に振り返ってしまったのです。
そんな彼を、いったい誰が責められましょうか。
どうか、あなたにはこの話を覚えておいて欲しい。
そして、もしもあなたやダイゴ様がこちらに来られるような事態になった時には、くれぐれもこの『オルフェウス』のようにならぬよう気を付けてほしいのです。
……いったい何の話しているのか、ですか?
隠す必要はありませんよ。
私は全て知っておりますから。
ヤヨイ様の兄上であるダイゴ様が、彼女の部屋に興味を持っていることに。
そして、その部屋にはどこか異世界へと通じる穴が開いているんじゃないか、と訝っていることにも。
もちろん、あなた方は「こちらの世界」に来るべきではないと思います。
しかし、ここでの会話を聞いている限り――ダイゴ様は『行きたいところにはどこへでも出かける性分』のようですから。
え?
この店に盗聴器でもしかけていたのかって?
まさか。
私はまだこちらの世界の機械には詳しくありません。
私はただ単に――耳がいいだけです。
ええ。
耳をすませば、半径30キロの会話は全て聞き取れます。
……私は一体だれなのか、ですか?
そうでしたね。
そういえば、自己紹介をしておりませんでした。
私は、ヤヨイ様の使い魔でございます。
ええ、そうですね。
普段は鴉の姿でヤヨイ様の肩に乗っております。
ご友人のシンジさんの仰っていた、あの鴉です。
ヤヨイ様からは、直接ダイゴ様と話すことを禁じられておりますので。
今日はこうしてあなたに話を聞いてもらいにまいりました。
私のことは、くれぐれもダイゴ様には内密にお願いします。
それでは、これで失礼します――
……おっと、そう言えば、オルフェウスの話には続きがありました。
死んで冥界に落ちた彼は、無事にエウリュディケに出会うことができたそうですよ。
ふふ。
ダイゴ様風に言うなら“マジでめでたしめでたしだよな”というところでしょうか。




