7 結界のその先
「壁の中に向かって行く形であったから、〈地図〉だと階段の場所がはっきりとは分からなかったのか」
より正確に言えば、ディーオ自身が階段だと認識できていなかった、である。なぜなら二十九階層までの下りの階段は全て床に掘られているような形で存在していたからだ。
一方その到着地点、つまり上階層への入り口部分は壁の中へと向かって行くものばかりとなっていたが、これは大部屋型の階層の天井がどこにあるのか分からないという迷宮の形状に関係しているのだと推測されている。
「それに、空中に階段があったら目立つだろう」
「確かにそんなものがあったら目印にされてしまうわよね。……入り込んできた者はそう簡単に逃がしはしないっていう、迷宮の意思表示みたいなものなのかしら」
他にもいくつかの仮説が立てられているのだが、この点が最も有力視されているのだった。
「まあ、階段のことは良しとしてだ。問題はこの両側にある扉だな」
「奥に何があるのかは分からないの?」
「ああ。範囲は小さいが、手前の大広間に張られていた結界と同じものだと考えていいだろう」
あちらのものは規模が大きかったこともあってか、その手前の大扉までしか〈地図〉が効かなかったのだが、こちらは小部屋のそれぞれ両側面にある扉を隠すだけの力しかないようだ。
「ふうん……。でもここも魔物は出ないようだし、じっくりと調べれば良いだけのことだわ」
「それはもちろんしなくちゃいけないが、体を休めることもしておいてくれよ。スライムの時と同じで、この結界の向こう側に魔物が押し込められているかもしれないからな」
「はいはい。いざ戦いになった時に疲れ果てて役に立たないなんてことにはならないから安心してちょうだい」
仕掛けられていた結界に完全に興味を奪われてしまったのか、ディーオの注意にもニアは片手をひらひらと振りながらおざなりな返答をするのだった。関心のあることを見つけると他のことが一切目や耳に入らなくなるというのは、研究者にとってありがちな性質だが、それは彼女にもしっかりと存在していたらしい。
そんな様子に「やれやれ」と小声で呟きながら、ディーオは部屋の隅で本日の寝床作りと食事の準備を始めるのだった。
隅の方と言っても一辺が精々五尺あるかないかという小部屋だからわずか数歩の距離である。しかしそんな狭い空間であってもより良い場所というものは存在するのだ。
まず闖入者対策として、少なくとも巨大スライムと戦った大広間へと通じる扉とその向かいの壁にある下の階層への階段を結ぶ直線上からは外れておくべきである。
三十階層にまで到達できるだけの実力を持つ冒険者となるとそう多くはない。が、それでも零ではない。この場は「いるかもしれない」という仮定に立って準備をしておくべきなのだ。
そして、魔物の側にも注意が必要である。なにせ先日、彼ら自身が『越境者』と遭遇したばかりだ。あれから倍近い階層を下りては来ているが、言い換えればその分だけ凶暴、強力な魔物の生息領域に近づいたことになる。
深層では『越境者』は発生しないなどと都合の良い道理があるはずもなく、協会に残されている記録によると『越境者』発見の報告に階層による隔たりはないとされているから、注意を払うのに越したことはないのだ。
その点からもやはり階段の正面は絶対に避けるべき場所ということになる。更に部屋に入ってきた瞬間に敵の目に入り易い階段から離れた側も問題だ。
これらのことを鑑みて、ディーオは階段側の右隅方向に寝床を確保することにしたのだった。ちなみにニアが現在調査しているのは左の扉の前に張られた結界である。
異空間に仕舞い込んでいた寝袋を二つ〈収納〉で取り出す。彼自身の物はかなり前に購入したものであり、ブリックスや支部長、他の冒険者たちと共に行動する際には使用していたためにそれなりにくたびれた感がある。
一方、ニアの物はまだまだ新品と言っても差し支えない程綺麗なものだった。それらをバサリと広げた時、石畳の床が目に入ってきた。
迷宮内は特定の地形を模した階層――火山地帯や雪原地帯、砂漠地帯など――を除くと適温に設定されている階層も多いのだが、だからと言って快適に眠ることができることと必ずしも同義ではない。
例え冒険者御用達の丈夫で温かさがウリの寝袋に包まっていても、石畳では硬いということに加えて底冷えがしてくるかもしれない。
「ニア」
気が付けば部屋の反対側で扉近辺の調査をしている彼女に声を掛けていた。
「うん?呼んだ?」
「昨日までの野営のことなんだが……、もしかして寒かったりしたのか?」
「……突然な質問ね」
尋ねるディーオの真意が読めないためか、振り返ったニアは怪訝な顔をしていた。
「いや、ただ単に少し気になったというだけで深い意味はないんだ」
気が利かないことを自ら暴露するようだったため、思わず言葉を濁してしまう。
そんなディーオの内心を知らないニアは、虚空を見上げるようにしてここ数日のことを思い出していた。
「うーん……。眠れなくて困るようなことはなかったかしらね」
「そ、そうか」
求めていたものに近い回答を貰えて、ホッと安堵の息を吐くディーオ。
だが、せっかく気が付けたことを無為にする必要もない。何かの折に必要になるかもしれないと思って〈収納〉しておいた魔物の毛皮を取り出して寝袋の下に敷くことにしたのだった。
余談だが迷宮内で夜を明かす時の難易度は、人数が少なくなればなるほど跳ね上がっていく傾向にある。心身を休めながらも周囲を警戒するという、相反した行為を同時に行わなければならないのだからそれも当然だ。
階層によっては外とは違って月明かりや星明りのない真の闇に包まれるということだけを見ても、その難しさが伺い知れるだろう。
つまり、ディーオの快適に眠るという発想自体が本当はおかしなものなのである。
しかし、『空間魔法』によって一早く敵の襲来を知ることができる彼らには、ニアの回答も含めていかに非常識であるかということに気が付いていなかったのだった。
まあ、自分たちでは一切調理をすることなく、出来立ての温かい料理と食べられるという時点で全て今更な話と言えるのかもしれないのだが。
「それで、扉の前に張られている結界はどうだった?」
そんな非常識の体現である温かいスープを口へと運びながら、ディーオが調査の成果について尋ねていた。
「まず、当然の事だけどあちらに張られていたものと比べると、規模も強さも桁違いに弱いものになるわ。だから恐らくは強力な魔法を撃ち込むことによる力尽くの解除も可能だと思う」
「……そいつはできることなら最後の手段にしたいものだな」
「解除できてもその後の被害がどれだけのものになるかは分からないから、その点については賛成」
結界解除のための方法を提案したのではなく、あくまでも現状を報告しただけであったらしい。
「反対の扉はどうだ?」
「そちらはまだ詳しく調べていないけど、同程度の結界だと考えてる」
「そうなると、結界の強弱で奥にあるものの優劣を予想する事はできないか……」
迷宮内に設置されている宝箱の場合、中に入っているものが貴重であればある程、仕掛けられた罠が凶悪になっていくようになっている。
ディーオは小部屋にあった扉と結界を、その関係になぞらえたのだった。
ちなみに『冒険者協会』にある過去に記録によると、苦労して難しい罠を解除して明けた宝箱の中に入っていたのは銅貨一枚きりだった、ということもあったらしい。
ただ、こうした『外れ』の宝箱の報告はほとんどないため、真偽のほどは明確ではないが、先に発見した冒険者による悪戯か嫌がらせだとする見方が一般的となっている。
「ともかく食べ終えたらもう少し調査を進めるつもりだから、ディーオは……、一応、周囲の警戒をお願い」
「分かった。一応、用心しておく」
そう言い合いながらも、この階層には巨大スライムという番人だと思われる存在がいたため、それを倒した今となっては『越境者』のようなイレギュラーでも発生しない限りは安全だろうとも考えていたのだった。
その後、調査を再開したニアだったが、残念ながらそれまで以上のことを発見する事はできなかった。
「うーん、やっぱり結界に触れてみないことには、仕掛けがあるのかも罠があるのかも分からないわね……」
「それは明日に回すべきだろう。巨大スライム退治で思っている以上に体力も魔力も消耗しているはずだ。今は無理をするべきじゃない」
もしも結界がモンスターハウスの罠のような危険な物と連動していた場合、疲労が蓄積しているために上手く切り抜けることができないかもしれない。
「……そもそも適切な判断を下せられなくなっている可能性もある、ということね」
「ああ、言われてみればそう捉える事もできるのか」
顔を見合わせてため息を吐く。
「……想像以上に頭が回らなくなっているな」
「私も今、嫌という程実感したわ。これは早々に休むべきね」
このまま考えていても泥沼に嵌るのがオチだと見切りをつけた二人は、その言葉通りさっさと寝袋に入り、眠りに落ちたのだった。
そして翌日、爽快に目を覚ましたところで昨日の続きを……、することなくまずは腹ごなしだと亜空間に準備しておいた朝食セットの内の一つを取り出して食べたあとで生理現象も片付けてから、ようやく調査を再開したのだった。
「接触しない限りは何もない。今の状態で分かるのはやはりそれだけのようね」
「つまり昨晩と同じということだな。それで、どうする?直接触れてみればいいのか?」
手前の広間に張られていた結界とは比べ物にならないくらい弱いものだというのが、ニアの調査によっても裏付けられている。
ディーオであればいざという時でも余分に魔力を込めた〈跳躍〉で無理矢理この場所まで戻ってくることができるだろう。
そういう判断の元、提案された事であったが、ニアは何やら別のことを考えていたらしく顔を赤くしながらそっぽを向いていた。
「ニア?」
「な、何でもないわ!ここからはディーオにお任せするから!」
どう見ても何でもないようには見えなかったのだが、乙女の胸の内を詮索するべきではないという警告――無言のプレッシャーとも言う――を受け、すごすごと引き下がることにしたのだった。
「それじゃあ、触れるぞ」
用心のために昨晩寝床を作った場所にまでニアを下がらせると、ディーオは扉の前に張られているだろう結界に向けて腕を伸ばしていった。
そして、何事もなく扉へと手が到達する。
いささか拍子抜けしたが、罠が仕掛けられているのは扉の方であるとも考えられる。気を引き締め直してドアノブを掴み、そして回した。
奥へと向けて開閉する形式だったのか、力んだ彼の体の動きが伝わった扉はゆっくりと開いていく。
「ディーオ?どうしたの!?」
扉を開けた姿勢のまま固まってしまったディーオに、ニアの不安じみた声が浴びせられた。
だが、それでも彼は身動きすることができずにいた。目を見開いたまま、じっと開いた扉の先を見据えている。
その場所にあったもの、それはある意味あってはいけないはずの物だったからである。




