16 彼が望んだもの
「これだけの味の物がお湯を注ぎ入れるだけで出来上がってしまうだなんて……。仮に世に出たとすれば、冒険者や行商人など町の外での活動が長い人たちから文字通り垂涎の品となるでしょうね」
一滴の汁も残さずに空となった容器を手に持ち眺めながら、ニアがふともしもの展開を口にする。
すっかり満足げな顔になっているが、ここに至るまでにはあれから更にもう一杯不思議な食べ物を食す――一杯目に比べると二倍以上はあろうかという大きな器に入った物だった――必要があり、それでようやく腹の虫たちの要求を取り止めさせたという経緯があった。
ちなみにディーオは調子に乗って三杯目に挑戦した結果、食べ過ぎで動けなくなり彼女の向かいでテーブルに突っ伏していた。
「はあ。こんな人相手に後れを取ってしまっただなんて、一生の不覚もいいところだわね……」
もっとも彼の言うとおりであるならば、力を手に入れたところでニアが本当に望んでいたものは手に入らなかったということになる。
そうなった時、彼女は絶望を前にしてそれでも命を燃やし続けることができただろうか?
「悔しいけれど、少なくともこんな美味しい物が食べられて、これ程満たされた気持ちになることだけはなかったでしょうね」
例え同じだけの力を持ったとしても、彼と同じことはできなかったことだけは間違いない。一見して非常識なこの現状は、彼だからこそ成し遂げられたものだろう。
恐らく自分であれば命を絶たずにいることが精一杯だったのではないか。ディーオがテーブルから体を起き上がらせたのは、ニアがそう結論付けたのとほぼ同時のことだった。
「さてと、そろそろ色々と聞かせてもらいたいのだけれど構わないでしょう」
「疑問形ですらないのかよ……。まあ、ニアの立場ならそうなるのも当然か。いいぜ。俺が答えられる範囲でなら、きちんと答えてやるさ」
「そこはディーオの良心やこれまでの信頼関係に期待をしておくことにするわ」
その範囲というものが知らないから答えられないのか、知っているがそれでも答えられないのかにまるで結果は変わってくるのであるが、今の段階でそれを指摘してもはぐらかされるだけとなる可能性も高い。
よって少しでもその確率を上げようと軽口を付け加えてみたのだが……。
苦々しい顔つきになった彼を見て、失策であったと感じていた。
元々隠し事をしたままコンビを組んでいたことは二人とも同じであり、それぞれがどことなくそれを感じ取っていたという部分も含めてお互い様だと言えた。
しかし、そのある意味対等な関係だった仲を先に裏切ったのはニアの方であったのだ。
そんな彼女がどの口で信頼などと言うことができるのか。
迷宮の力を使って彼の持つ能力を奪おうとしたことそれ自体は、覚悟の上のことだったし今でも後悔はしていない。
だが、それに起因することで気分を害させてしまったり傷つけてしまったりすることに関してはまた別問題だ。
余計な口を叩いてしまったと、酷く悔やむことになってしまうのだった
さて、実際はどうであったのかというと、現実はニアの予想とは少々異なっていた。
確かにディーオは彼女の言葉に衝撃を受けていた。が、それは未だ以前のような信頼関係を構築することはできていないと思い知らされたからであった。
現状の責任をまず自分へと持っていく辺り、この二人は似通った性質なのであろうが、それがものの見事に裏目に出てしまい、盛大なすれ違いを発生させていたという訳である。
もっとも、このすれ違いに関しては、先の一件における認識の違いが大きく影響していた。
先述した通りニアの側が先に裏切った、二人が実力行使で争うことになる決定的な一撃を放ったという点では一致している。
しかし、その後で二人の見解は大きく異なっているのである。
まずニアであるが、裏切ったことに加えてディーオの腕の負傷に対して贖罪が終わっていないと捉えていた。ともすればあの義手を変形させてみせたことすら、彼女を安心させようと無理をしていたのではないかと疑っているくらいだ。
当然のようにディーオにそのような意図はなく、単に男子的浪漫に突き動かされていただけの話である。
一方、そのディーオだが、腕の傷を含め被ることになった諸々については、迷宮の力をニアから奪い取ったことで帳消しになっていると考えていた。
義手にしたのはそれが最善だと判断したからに過ぎず、変形に至っては想像以上に浪漫あふれる仕様となったために浮かれていただけという体たらくであった。
「あー……、力を奪った俺が言うのもおこがましい話だとは思うんだが、これ以上傷つけるつもりはないから。だから、その……、前ほどとはいかなくても、もう少しくらいは警戒を解いて欲しい」
「ちょ、ちょっと待って!いきなりどうしてそんなことになるの!?先に裏切って、しかも回復のしようもないほどの怪我をさせたのは私の方なのよ!?」
「だが、その代わりに迷宮の力を奪うことになっただろう。それに義手ではあるがこうして何の問題もなく使うことができている。薄っすらとだけど感覚すら生まれてきているくらいだ」
「それは結果的にあなたが迷宮の力を使いこなすことができているだけのことだわ。それと、迷宮の力と私の力は別物よ」
「だとしてもダンジョンマスターだったんだから、ニアのものだと言っても良かったんじゃないのか?」
どうにも噛み合わない会話に改めて顔を見合わせる。
そう。二人の間に起きていた齟齬の最大の要因こそが、この迷宮の力の所在であったのだ。
既に述べたようにダンジョンマスターとなったとしても、その身に迷宮の力を宿す訳ではない。上位者として位置づけられることで、迷宮との間に生まれたパスを通して自在にその力を使わせることができるようになるのである。
よって、認識としてはニアの方が正確であるということになる。ただしこうした感覚は時間とともに徐々に薄れていくものであり、早い者であれば数日程度で、遅い者でも一年くらいで迷宮の力イコールダンジョンマスターである己の力だと錯覚していくようになる。
ニアの場合、正式なダンジョンマスターとなったのがほんの数刻ほど前のことであったため、力の在り処が異なっていることを異常なほどにまで強く感じ取っていたのだった。
それでは、ディーオがこの点を勘違いしてしまった理由は何だったのか?
答えは簡単で、彼女の身体を経由して迷宮の力を吸収し蓄魔石へと封じていたからだ。そのため、ダンジョンマスターと迷宮とは半ば一体化している存在だったのではないかと勘違いしてしまったのだった。
「……なるほどな。そういうことだったのか」
「ええ。だから私の罪は贖われてなんていないのよ」
「そうかな。どういう経緯にしろ、ダンジョンマスターの権能のほとんどは俺が奪う結果になったんだし、気絶してしまうほどの力の奔流に晒されたんだ。あの痛苦は十分すぎる罰になったんじゃないかと思うぞ」
実際のところ、迷宮の力が通り抜けたことによって彼女の身体は大きなダメージを受けていた。
気絶していた時に辛うじてニアの中に残留することになった力の一部が修復を行っていなければ、命を落としていた危険性すらあった程だ。
怪我の程度で言えばディーオよりも深刻であったかもしれない。
「まあ、すぐに納得できる訳でもないだろうから、今の時点では、俺はもう何も気にしちゃいないってことを理解してくれていればいいさ」
このままでは延々と謝罪合戦を繰り広げることになっていまいかねないと判断したディーオは、一方的にそう伝えて区切りにすることにしたのだった。
なにせまだ肝心の話にすら入ることができていないのだ。この調子で本題を進めていれば日が暮れるどころか真夜中を通り越して次の日の朝になってしまう。
もっとも、迷宮の奥底であるため彼が望まない限り暗くなることもなければ、逆に今以上明るくなるようなこともないのだが。
「さて、本当はニアの聞きたいことから順に答えていくつもりだったんだが、それをやっているとあちこちに話が飛んで収拾がつかなくなってしまいそうだな。……仕方がない。ちょっと長話になるが、俺自身のことから話していくことにするか」
そしてニアが反論をするより先に、記憶にある最初の出来事である『異界倉庫』を開いたことから話し始めるのだった。
「と、まあそんな具合で異世界の美味いものを求めて、迷宮の最深部を目指していたってことになるな」
「異世界のっていう部分を除けば、これまで何度も聞いていたことだし、あなたの行動も間近で見てきたから嘘じゃないということは理解できるわ。ただ……、突拍子もないというか、どうにも納得しかねている自分がいるのも確かだわ……」
「それはまあ、当然だろうな。俺だって仮に自分じゃなければ、美味いものが食いたいから迷宮の最深部を目指している、なんて話を聞いた日にはそいつの正気を疑うだろうからなあ」
一応ディーオも、自分の目的が世間一般からすれば大きくズレているということは認識していた。
ただし、だからと言って取り下げるつもりも曲げるつもりも寸分もなかったが。
「大分読めてきたわ。つまり、さっき食べたあれは異世界の料理、ということなのね」
「正確には『異世界からその情報だけを読み取って、迷宮の能力でそれらしく再現した物』ということになるけどな」
「……よくもまあ、この短時間でそれだけ使いこなせるようになったものね。これもその、『異界倉庫』とやらを通じて異世界の文化や物事に触れていたせいなのかしら?」
「少なくない影響を受けていたことは確かだな。とはいっても、一番知りたい世界のことは結局文字を解読することすらできずじまいのままだ」
そう言って一冊の古びた本を取り出す。その表紙は擦り切れており、何が書かれているのかを判別することも容易ではなくなっている。
「中を見てみるといい。これが俺の望んだものだ」
いつになく真剣な彼の表情に気圧されるようにしてニアがそっと表紙をめくる。
そこにあったのは色彩豊かに彩られた美麗な料理の数々であった。




