12 敗北の宣告
気怠さを覚えながらも、戻ってきた意識の命ずるまま瞼をこじ開けていく。
「……っ!」
刹那、微かに開かれた隙間から飛び込んできた明かりに痛みを感じて、即座にギュッと上下の瞼たちを抱擁させることになってしまった。
空間を満たす光は弱々しかったが、網膜が焼かれてしまったのかと思ってしまったくらいだ。闇に閉ざされていた彼女の瞳はそんなわずかな光にすら敏感になってしまっていたらしい。
まるで何年もの間ものを見ることがなかったかのようですらある。それだけ深いところまで意識がなくなってしまっていたということなのであろうが、心の片隅では「本当に長い年月が過ぎ去ってしまったのではないのか?」という不安が頭を持ち上げてしまっていた。
「よう。目が覚めたか」
気安い調子で掛けられた声に、夢現だった意識が一気に覚醒する。これまでの出来事の記憶が頭の中を駆け巡り、一角を占めていた妄想などは散り散りに消し飛んでしまったのだった。
だが、良いことばかりとは限らない。慌てて目を開き状態を置き上がらせたまでは良かったが、強烈な頭痛や吐き気などに襲われてしまい、即座に再び床の上に倒れ伏す羽目になってしまったのである。
意識が覚醒した上に目を見開いてしまったことで五感が全開で稼働してしまい、蘇ってきた記憶と合わさって一時的に情報過多の状態に陥ってしまったようだ。
「無理はしない方がいい。元の力はそのままとはいえ、あれだけ膨大な力が流れたんだ。精神的にも肉体的にも披露しきっているはずだぞ」
優しさすらも感じさせる彼の声音に、否が応にも現実を理解させられてしまう。様々な負の感情が身体の中でうごめいているのが分かる。中でも強力に強烈な存在感を示したのが、何もかも手放してしまいたくなる無気力感だ。
しかし彼女はそんな負の感情たちに苛まれ翻弄されながらも、これだけは絶対に確かめておかなくてはいけないと体を起こした。
「わ、私は……」
恐怖と不安で、少しでも気を抜くと声が震えてしまいそうになる。
それでも一縷の望みにしがみつきながら最後まで言い切ったのは、彼女なりの意地だったのかもしれない。
「私は……、負けた、のね?」
本音を言えば違うと言ってもらいたい。君こそが勝者なのだと跪き称えて、胸の中で吹き荒れている負の感情たちを消し去ってもらいたい。
だが、それの感情が渦巻いていることこそが、現実を如実に表しているということに気が付いてしまっていた。
だからこそ、真実を知りたい。
ぶれることなく、逸らされることなく彼女の瞳は真っ直ぐに彼を捉えていた。
その心情が伝わったのか、それとも元よりそうするつもりだったのか。その視線の鋭さに臆することなく受け止めると、彼はゆっくりと言葉を紡いでいく。
「ああ。その通りだ。……ニアは、負けたんだ」
それらが耳に届いた瞬間、彼女、ニアは泣き崩れたのだった。
人目をはばからずに声を上げて号泣するニアを見ながら、彼、ディーオは小さくため息を吐いた。
いくら彼女の戦意を奪い身の安全を確保するためという目的があったとしても、これまで背中を預けてきた相手を悲しませてしまうというのは、想像以上の苦痛であった。
加えて、迷宮の能力を吸収する際に彼女の来歴についても図らずとも知ってしまったのだ。
恐らくは仮のダンジョンマスターとなったことの弊害の一つだったのだろう、迷宮核に保持されていたクロニアンナ・パルキュールの記録が能力と共に流れ込んできてしまったのだった。
「覚悟の上とはいえ、世界を越えてしまったのはほとんど事故のようなものだからな……。元の世界に帰りたいと願う気持ちを持つのは当然のことだよな」
迷宮の力とディーオの持つ『異界倉庫』や『空間魔法』の能力を十全に使いこなすことができるようになれば、世界を渡ることは不可能ではないだろう。
とはいえ、数多ある世界の中から望む世界を見つけ出すことができるのかどうかは不透明なように思われた。
しかしそれ以上に、ニアが本当に帰りたいと想っている場所へは届くことはない。
彼女が望んだ二つの力を手にしたことで、ディーオははっきりとそう理解できてしまっていたのだった。
「それも俺が言わなくちゃいけないんだよな……」
さほど遠くない未来のことを考えるだけで頭が痛くなってきそうなディーオである。
既にダンジョンマスターとしての力の全てを奪われてしまっているニアでは、迷宮核との意思疎通はできない。
と、そんな消去法を行うまでもなく、この場にいる適当な人材は彼のみである時点でその役割を担わされることになるのは必然であった。
もっとも、ニアが絶望の余り自らの命を絶つような選択をするならば彼の悩みは水泡に帰すことだろう。
が、当のディーオはそんなことが起きるなどとはほんの一欠片すらも想像していなかったのだった。
コンビを組んで活動した期間こそさほどの長さではないものの、中身の濃密さでいえば並みの冒険者たちの十数年分に相当してしまいそうだ。
それだけの体験をマウズの迷宮を踏破する中で一緒に積み重ねてきたという自負が彼にはあった。
更には慕情とすら言えないかもしれない程度の淡さなれど、間違いなく二人はお互いを想い合っていた。
そうした経験から、ディーオはニアがいつまでも絶望に打ちひしがれたままでいることはないと確信していたのである。
「だからこそ、また傷つけてしまうことになりそうだ……」
憂鬱な展開を思い浮かべてしまい、再度ため息を吐くディーオなのだった。
そのニアだが、泣き声こそ小さくなったものの未だに床に突っ伏して嗚咽を続けていた。これまで目標にし続けてきたことを完成目前――事実はどうあれ、彼女はそう思っていたことだろう――で奪い取られた形になったのだからさもありなん。
心に折り合いをつけて、気持ちに決着をつけるためにはいましばらくの時間を必要とすることになりそうである。
ここで下手に他人が手を出せば、今後一切傷口を癒すことができなくなる。どんなに辛かろうとも、自分で乗り越えるしかないのだ。
ふと、ディーオの視界が傾げる。否、世界ではなく自分の体勢が崩れたのだと気が付いたのは次の瞬間のことだ。
何とか足を踏ん張ることで転倒は防いだが、それどころではないと後回しにしていた痛みを始めとする体の不調を訴える緊急警報が一斉に鳴り始めてしまったのだからたまらない。
とりわけ大きく響いたのが肘の少し先からをなくしてしまった右腕だ。
さしもの彼でも、膨大な迷宮の力を受け流すためにはそちらに掛かりきりになる必要があった。止血を担っていた〈圧縮〉も、雑菌類を始めとした様々な物から保護するための〈隔離〉も、維持することができずに消えてしまっていた。
そのため、傷口から流れ出た血で彼の足元にはそれなりの大きさの血だまりができてしまっていたのだった。
「おうふ……」
それを見た瞬間、現実を把握してしまったのか貧血による立ち眩みが発生する。いや、実際のところ失血死しかけてもおかしくないほどの出血量である。
意識を失うどころか立ち眩みですんでしまう方がどうかしているくらいなのであるが、そこはまあ、生きた伝説とすら言われる特級冒険者の支部長にも呆れられたことのある理不尽の体現者の面目躍如といったところなのかもしれない。
ちなみに何があったのかというと、支部長と二人で迷宮を探索中になぜだかやたらと希少価値の高いアイテムを確保できる魔物と頻繁に遭遇したり、異様な回数続けて罠が空振りしたりということが発生した、つまりは『空間魔法』の〈地図〉と〈警戒〉による効果であった。
一方で、今回のように致命傷に近い傷を負っても意外とけろりとしているということも、これまでに何度も発生していた。
『異界倉庫』内に放置されていた論文の仮説によると、異世界の同一存在を認知することでそれらと繋がりを持ち、結果体力などを無意識に融通し合えるようになるのではないか、という話であったが真実は不明である。
閑話休題。とにもかくにも、右腕の傷は早急に処置する必要がある事に間違いはない。
ところが、ここで一つ問題が生じることになる。ニアも含めて傷を癒す術を持っていなかったのである。
もちろん傷薬から増血剤などの薬品類は〈収納〉によって相当数持ち込んでいる。しかし、切り落とされた腕を接合して再び過不足なく動くようにするとなると、こっそり採取しておいた虎の子のコナルア草ですら力不足となってしまうのだった。
「かといって、これから先右腕なしで暮らすっていうのもなあ……」
しかもディーオは右が利き腕となる。これまでの訓練によって左手でも日常生活くらいは問題なく送れるようになっているが、それ以上の戦闘や細かい作業等をこなすとなると厳しいものがある。
やはり簡単にあきらめることはできない。
「……おお!こんな時こそ迷宮の力の出番じゃないか!」
安直な思い付きだが、これより他に手がある訳でもない。
何より時間がないのだ。まだまだ謎が多い迷宮の力に縋ってみるのもアリではないだろうか。
既に半強制的にダンジョンマスターの地位はディーオに移り変わっていたため、少し念じてみるだけでそれらしい項目がいくつも脳裏に浮かび上がってきた。
「魔法による傷口の治療に体組織の縫合と結合……。この辺りが妥当か?蓄魔石があるから魔力の方は何とかなるはず。……ちっ!切れた各組織を繋ぐのに知識と技術がいるのか!知識はともかく技術の方は危ういか。一旦有力候補として押さえておくだけにするか。次は……、寄生生物との癒着による擬態……、は勘弁だな。後は魔物の体組織を用いて、もしくは暗黒神の眷属化による欠損部育成?新しく右腕を生やすってことか?……よし、見なかったことにしよう!」
そのぶっ飛んだ内容の数々に冷や汗が浮かぶのを感じながらも、ディーオは最も良さそうな方法を探し続けていく。
部屋の中央、台座の上で何やら非難するように明滅し続けている迷宮核の存在を一切無視したまま。




