5 続く不調
ニアがいなくなってからしばらく、ディーオはふと自分が思考の闇に、出口のない無限回廊へと捕らわれてしまっていることに気が付いた。
「ちっ!下手の考え休むに似たり、か……」
当たり前の話だが、熟考することは決して悪い事ではない。むしろ可能な状況であるならば積極的に行うべきことでもある。
だが、ディーオの場合は迷宮の未到達の深層であったことや、コンビを組んでいたニアが行方不明となってしまったことで一人きりであったことなどから、熟考できるだけの環境――主に安全面の確保という点で――が整ってはいないと言えた。
もっとも既に随分と長い時間考え込んでしまって後でもあったのだが。
余談だが、ディーオは『異界倉庫』に乱雑に放り込まれていたレポートや論文――彼は知らなかったが、大半はそれぞれの世界に置いて公表するのを断念したり自主的に闇に葬ったりしたものだった――などから異世界の言葉を始めたとした様々な物を知識として得ていた。
しかし慣用句やことわざなどのいくつかは使用されている状況が分からず、言葉の響きや単語の意味合いからのみ使用しているものもあった。
今回もその一つであり、本来の相手を侮るという意味ではなく、思い悩み延々とループしてしまっている状況は思考停止しているのと変わりがない、とした意味で用いたのであった。
よって「下手な考え休むに似たり」とでも言う方がより正確であるだろうか。
自身の精神状態に改めて気が付いたディーオが次に行ったことは、この部屋から出るということだった。
言うまでもなくこのわずかな空間から外側には彼の『空間魔法』の効果は及んでいない。つまり、何が存在して誰がいるのかも全く分かってはいないのだ。
元より直感に頼る傾向があったとはいえ、先に出した結論もあって思考放棄と取られてもおかしくはない態度だった。
まあ、出口がありこの場にいたままできる事など数少ないとなれば最終的にそこに辿り着くのは当然のことではあるのだが、それにしても静から動へと一気に変化し過ぎではないだろうか。
抑え役というか突っ込み役であったニアが不在のために、彼の思考と行動の振れ幅が大きくなってしまっていたようだ。
「さて、それじゃあ迷子のお姫様を探しに行くとしますか」
と軽口が飛び出してきたのも、落ち着いてきたからというよりは今にも沸き上がって破裂してしまいそうになる不安感を打ち消すためであった。
そして『空間魔法』の効果のあった空間から一歩通路へと足を踏み出したディーオが見たのは、薄暗い壁や床、天井から染み出すようにして現れた何体もの魔物の姿だった。
人型を始め四足の獣型、さらには節くれだった体躯の虫型とその種類は豊富だ。大きさも小物――それでもディーオの胸程度までの体高はあったが――から縦三尺、横二尺はありそうな通路を完全に塞いでしまいそうな大物まで実に様々だった。
その多様さから、ディーオは最初迷宮の魔法によって姿を隠していたのではないかと考えた。だが、それらを少し観察した時点でその予想が間違いであることに気が付いた。
なぜなら、それら魔物たちは揃って通常の生き物としてはあり得ない姿をしていたからである。
異様であることを悟ったのは頭部を見た瞬間だった。目や鼻や耳といった器官がなく、まるで小さな子どもが粘土か何かでとりあえず形作っただけのようにのっぺりとしていたのだ。
そうしてよくよく見てみれば身体もおかしい事に気が付く。本来であれば皮膚に毛皮に甲殻にとこちらもまたバリエーション豊かでなくてはならないはずが、一様に同じ質感をしていたのである。
更にじっくりと見てみれば薄っすらと透けていることが分かり、奥に球体然とした何かが浮かんでいることも見て取れた。
擬態性粘体生物。それこそが彼の前に立ちふさがった魔物たちの名前である。
世界に数多いるスライムのうちでも特に変わった種の一つであり、そのもっとも稀有な特徴は名前の通り他の生き物の姿に擬態するということだ。
染み出してきたとディーオが感じた通り、それらは粘体のその体をわずかな隙間へと押し込んでいたのだった。
さて、ミミックリースライムの能力であるが、実は体格などの大まかな部分しか真似ることはできず、体内の器官は元より複雑な感覚器なども真似ることは不可能である。
翼なども形こそ真似ることができても実際には時間距離共に著しく低い飛翔能力しか持たないなど、出来の悪い模倣という方が適当かもしれない。
それでも爪や角といった部位は相当な硬度を誇り、十分に凶器としての役割を果たしている。
更に魔法生物とよく似たスライム種由来の核――こちらは見える反面体内を自在に動くことが可能――を潰さない限り死ぬことはないという驚異の強靭さも加わることになれば、油断できるような相手ではない。
ちなみに、体を削ぎ落としていくことで弱体化させることはできる。
「これは要するに、この先に進みたいならこいつらを全滅させて行け、ということか」
圧倒的な数を前にしてもなお発せられた不敵な台詞を受けて、ミミックリースライムたちがうぞりと蠢き始める。
見る者によってはそれだけで嫌悪感を覚えて発狂してしまいそうな光景だ。が、何度も述べてきた通りそんなデリケートな神経をしているのであれば、そもそも迷宮などにやって来はしないというものだ。
「上等だ。こちとら怒涛の急展開に付いて行けずに頭が沸騰しそうだったんだ。こういうシンプルな流れの方が理解もしやすいってもんだぜ!」
返り討ちにする気満々で、ディーオは思いっきり威勢の良い啖呵を吐いたのだった。
それにしても急に思い悩むことを止めて行動することに切り替えたのは、思考放棄という側面もあったようである。
よくもまあそんなことで今まで無事に居られたものであるが、ニアやブリックスといった相棒役に恵まれていたことを始め、それら全てを含めて彼の実力ということになるのかもしれない。
「先手必勝!『裂空』!」
戦闘開始を告げたのはディーオのいつもの一撃だった。通路という狭い空間であることを利用して、横幅一杯に空間の断裂を生み出しては正面へと飛ばしたのだ。
ミミックリースライムが擬態したものの中には素早い動きが特徴の魔物もいたのだが、それら元の魔物とは違ってそうした特徴を活かすことができるだけの能力を持つには至らなかった。
結果、運悪く核を直撃して息絶えてしまうようなものこそ少なかったが、多くが体を削ぎ落されてしまい、戦力を激減してしまったのだった。
特に酷かったのがキャスライノスでも模したのだろうか、その巨体で通路を塞いでいた個体である。ごっそりとおおよそ三分の一もの体積をなくすことになり、ほとんど戦闘不能状態へと陥ってしまったのだった。
擬態なのだから解いて不定形な粘体の姿へと戻れば良いのではないかと思う人もいるだろう。しかしそれは、ミミックリースライムたちにとって敗北を、そして死を意味するものなのである。
なぜなら、本来の姿では極めて戦闘能力が低いからだ。上から覆いかぶさって圧死させようにもそれだけの力がなく、窒息させようにも簡単に振りほどかれてしまう。
その体はほとんどが水で構成されていて、毒となるような成分を含んではいない。そもそもミミックリースライム自身が極めて毒素に弱い体質で、ほんの少しでも吸収してしまえば即座に死に至るほどの虚弱さなのだ。
そうした戦闘能力の低さを擬態という点で埋めるようになったのか、それとも逆に擬態を始めたことによって本来の姿が弱体化していったのかは定かではない。
ただ一つ言えること、それはミミックリースライムとは擬態により他の魔物の姿になることでようやく生き延びてこられたか弱い種族であるということだ。
つまりそうしたハッタリが効果のない相手であれば蹂躙されるより他なかったのだった。
こうして、圧倒的な大差でのディーオの勝利という形で戦いは終わったのだった。
「うがー……。勝ったのに何だかスッキリとしねえ」
不完全燃焼な戦闘だったために、余計に鬱憤を溜め込むことになってしまったことは大きな誤算だったが。
「まさかただの見掛け倒しの奴らだったとは……」
しかし、これが擬態した対象の能力すら引き出せるような魔物であれば苦戦するどころの騒ぎではなかった。五体満足に生き残れたことを喜ぶならまだしも、不満をあらわにするなどもっての外だと言えるだろう。
と理屈では分かっていても感情面では追いつかないというのは往々にしてよくある事だ。この時のディーオも誰かに伝えるでもなく、苛立った気持ちを言葉にしてぶつぶつと吐き続けていたのであった。
その様子をつぶさに観察されているとは思いもよらずに。
ミミックリースライム以降は特に邪魔をされるでもなく通路の終着点へと到達することができた。他にも罠やら何やらが仕掛けられているのではないかと訝しんでいたため、少々拍子抜けの感のあるディーオだった。
どうにもこの階層に降りて来てから――厳密にはニアがいなくなってしまってからなのだが――というもの、調子や感覚が狂いっぱなしになっている。
さすがに自覚が出てきたのか、このままでは危険だと内心では焦りを感じ始めていた。
その部屋へと辿り着いた瞬間、彼はその光景に目を奪われてしまっていた。
いや、部屋と呼称するのは不適当だろうか。ドラゴンと戦う羽目になった三十七階層よりも一回り小さい程度の半円状のそこは、町の広場並みの面積を誇っていた。
実際、マウズの町にある冒険者協会並みの大きさの建物であれば、数戸は余裕ですっぽりと収まりきって仕舞えることだろう。
もっとも、ここは一つの階層だけで広場どころか大都市一つ程度簡単に入りきってしまうだけの空間を、それこそ何階層分も備えている迷宮の中である。
単に広いだけの空間であればディーオが目を奪われてしまうような事はなかったはずだ。
「あら、思ったよりも早い到着だったわね」
ディーオが目を奪われた存在が冷たい瞳のまま微笑んだ。
部屋の中央に拵えられた仰々しい台座に置かれた巨大な球体に寄り掛かるようにしていた女性は、この階層に着いてから行方不明となっていたニアに瓜二つの顔をしていた。




