4 一人きり
遅くなってしまい、申し訳ありません。
ニアの姿が見えなくなったことは、ディーオに少なくない衝撃を与えることになった。
それは彼の想像を遥かに超えるもので、理解した瞬間などまさに目の前が真っ暗になってしまう程だった。それでもそのままパニックに陥りきることなく、再び思考を巡らせることができるまでに回復することができたのは、冒険者として過ごしてきた日々で培われた本能によるものだったのかもしれない。
一つ対応を誤ってしまえば自暴自棄になり気が触れてしまいかねない危機的な状況を乗り越えたディーオがまず考えたのは、ニアが無事であるための根拠についてだった。
本来はどのような状況下であれ自分の置かれている状態を確認し、安全を確保することから始めなくてはいけない。そうした判断ができなかったことから察するに、錯乱からは逃れられたが冷静になるところまでは回復しきってはいなかったようである。
これには未だに〈警戒〉で一体の魔物をも見つけ出すことができていなかったことに加え、暴発ではあったがドラゴンのブレス攻撃にすら耐えることができた〈障壁〉結界という奥の手があるからこそだったのかもしれない。
が、それならばまずはそれがしっかりと発動できるか否かの実験を最優先で行うべきだったのである。
『新緑の風』と行動して以来、別の誰かと一緒に行動することが増えたために抑えられがちになっていたのだが、元々ディーオには感情に任せるというか、その場その場での直感を優先する癖があった。
もちろんそれが障害を越えるためのきっかけとなったような事例は多々ある。先だってのドラゴンとの対戦の時も、彼が逆鱗伝承のことを思い出したからこそ生き延びることができたという部分は大きい。
三十四階層での魔物女性たちと上手く交渉できたことや、三十五階層を無事に切り抜けられたことも彼の閃きあってのことだったであろう。
ところが現在ニアがいなくなり一人になってしまったことで、この癖が半ば暴走し始めていた。
結果は前述した通り、己の安全を無視してニアが無事であるかどうかを考えようとしていたのだった。
さて、繰り返し述べたことで違和感を覚えた人も多いのではないだろうか。「ディーオの行動はそれほどに悪いものだったのだろうか?」と。
確かに仲間を想ってのことであり、自らの危険も顧みない様は一見すると美談のようにすら感じられる。
しかし、だからこそ厄介なのだ。
一つ例を挙げてみよう。
あなたは森で仲間とはぐれてしまいましたが、しばらく経ったところで仲間と合流することができました。ところが、なんとその仲間は知らず知らずのうちに狼の群れを引き連れて来ていたのです。
お分かりだろうか。つまり自分の身の安全に頓着していなければ、巡り巡って仲間の命をも危険に晒してしまいかねないのである。
この時のディーオがまさにそれであった。この辺りは長年単独で活動してきた弊害とも見ることができるだろう。
当のディーオはというと、自身の失点にもそれが及ぼす事象についても想像することができないまま、ニアの無事について思いを馳せ続けていた。
「わざわざ攫ったということはこちらの戦力を分散させたかったんだろう。その上で確実に倒せるだけの戦力をぶつけるというのが常道か。だとすれば俺の方に魔物の気配がないということは、まだニアは生き残っているということになるはずだ」
本人は全く気が付いていないが、それはいかに彼が精神的に彼女へと依存していたのかを如実に示すこととなっていたのだった。
どちらかと言えばニアの方がディーオに執着していると思われていたため、今の光景を彼らのことを知るマウズの町の者たちが見れば大半は驚いて声を上げることになるだろう。
しかし、実際のところはどちらも似た程度で相手への依存を深めてしまっていたのだった。
もっとも、少なくともディーオの方は信頼感や親近感といったものの表れだと思い込んでいたようではあるが。
「そういえば『異界倉庫』産の蓄魔石を渡したままになっていたな……」
ふと思い出した事柄によって、ニアの生存が高くなっていることを理解する。優秀な魔法使いである彼女は魔力さえあれば攻撃手段には事欠かないからだ。
「ドラゴンとの戦いで相当量の魔力を消費したはずだが、俺とは違って空っぽになっているということはないだろうからな」
様々な魔法を使いこなすため、場合によってはディーオを相手にするよりも骨が折れるはずである。
次々と放たれる異なる属性の魔法によって翻弄される魔物たちの姿が垣間見えた気がするディーオなのであった。
とはいえ、ニア自身の魔力も蓄魔石に溜め込まれている魔力も有限であることも確かだ。
加えて今はドラゴンという想像を絶するような相手との戦いとその後始末とで、気力も体力もこれでもかという程消費してしまっている。
それらが些細なミスを誘発させ、さらには致命傷へと繋がらないという理由はどこにもない。いや、これは希望的観測だ。現実的にはそうなる確率の方が遥かに高いと思われる。
可能な限り素早く彼女と合流し、集ってくる魔物たちを殲滅する。これこそが自分たちが生き延びる最善の手段だと考えたのであった。
「〈地図〉」
ようやくではあるが、闇雲に動き回っては合流できないと気付けただけマシというものか。
もっとも、残念ながら三十階層以降頻繁に見受けられるようになった結界によるものなのか、目に見える範囲と同程度の情報しか入手することはできなかったのだが。
「ちっ!」
進展のない状況にディーオは無意識に小さく舌打ちをしていた。強制的に分断させるというこれまでにない手を使ってきたことから一筋縄ではいかないとは思っていたが、初手から思惑を崩されるとやはり苛立ちもするというものだ。
しかし、そうなると当然〈警戒〉の方の効果にも疑問が生じてくる。いないと思われていた魔物が、結界のすぐ外で群れを成しているとも考えられるからだ。
そしてニアが無事であるという根拠もまた怪しいものへとなってしまう。実はもう彼女は儚くなってしまっており、魔物たちはディーオが結界の外に出てくるのを手ぐすね引いて待っているかもしれないのだ。
「くそっ!」
浮かんできた最悪な状況を強く頭を振ることで否定する。
三十階層以降、迷宮の中という点を加味した上でもまだ常識外れと言われてしまうような出来事を、二人して乗り越えてやっとのことでここまで来たのだ。姿が見えなくなったくらいで彼女の存在を諦められる程、安い繋がりではなくなっていた。
加減なしに振り回ったことで生じた鈍い痛みを堪えて、自身のすぐ左隣を見やる。
そこはニアがいたはずの場所であり、ニアが消えてしまった場所でもあった。
ふと、疑問が浮かんでくる。
果たして彼女はどのようにして連れ去られてしまったのだろうか?
一番あり得そうなものとすれば罠だ。階層内のどことも知れない場所へと一瞬のうちで移動させられる転移の罠は、数ある罠のうちでも凶悪な部類に分類されると言われていた。
ただし、これには一定の決まりがあるらしく、一方通行である事、一つの罠につき一カ所にしか転移させることができない事が先人たちの調査により判明していた。
そうした転移の罠だが、これには効果が一度きりであるものと解除されない限り永続的に転移可能なものの二つが存在していた。
意外と思われるかもしれないが、冒険者の間で恐れられていたのは前者である。それというのも後者の場合は再度罠を起動させることによって、追いつき合流することが可能であるためだ。そのためかこちらは時に移動手段として便利に利用されてしまうこともあったという。
それ以前はともかく、いざ罠が起動してしまえば一度きりか永続かを見分けるのは簡単である。
一度きりの転移の罠の場合は、魔力を使い果たしたことによって罠の存在――魔法陣であることが多い――が浮かび上がってくるためだ。
余談だがこれは他の罠を解除した時にも似たような現象が見られることになる。恐らくは解除することによって迷宮との繋がりが切れてしまい、隠蔽する能力がなくなってしまうからだというのが定説だ。
改めて左隣の床へと目を向けてみるが、そこには何の変哲もなく周囲とも一体化した床が見えるだけだった。つまり転移の罠であるとすれば永続的なものだということになる。
ディーオは腰に下げていた小さな袋から小石程度の蓄魔石を取り出した。これは道中で拾ったものだが、質が悪く魔力を蓄える容量が小さい上に一度きりの使い捨ての物だった。
〈収納〉で異空間へと仕舞いこんでいなかったのは、休憩の際に火を起こすなどわずかばかりの雑事に使用するためである。
その取り出した蓄魔石をニアがいたはずの場所へとおもむろに放り投げる。
が、消えることもなく小さな音を立てて床へとぶつかったそれは、弾みでコロコロと転がって数歩離れた先で止まったのだった。
「罠ではない?」
念のためもう一つに同じような蓄魔石を放り投げてみた後に自らその場へと立ってみたが、見える景色も脳内に展開された〈地図〉にも変化は見られなかったのだった。
「それなら一体どうやって、ニアは連れ去られたんだ?」
極端に姿が見えにくい魔物が存在していることは知られているが、何の痕跡も残すことなく人一人を連れ去ることができるような能力を持っている魔物の存在は聞いたこともない。
そうしたある意味新種の魔物が現れたのかもしれないが、一方でそこまでして攫う必要性があるのかというと疑問が残ると言わざるを得ない。
なぜなら、連れ去るくらいであればその場で害してしまう方がよほど簡単だからである。
一つ前の三十七階層ではドラゴンのような大物を持ち出してきており、更にはその階層ごと潰すようなことまでしてきている。
ここにきて迷宮がわざわざ彼らを生かすような真似をするだろうか?
後腐れなく一思いに、という方が余程納得できるような気がする。
そこまで頭を巡らせたことで、ディーオは急激に言いようのない不安感に駆られるのだった。




