1 未知の階層
薄暗い。
三十六階層へと降り立ったディーオたちが最初に感じたのはそれだった。
その理由としてまず思い付いたのは階層の型の違いだ。直上の三十五階層、更にその上の三十四階層と『大部屋型』が続いていた。
もっとも、マウズの冒険者協会の資料によれば『変革型階層』であるはずだったが、そのことについては一旦横に置いておくとする。
対して三十六階層は、到着した地点から見える景色のみとはなるが、そこから判断するならば路地や通路が入り組んだ『迷路型』となる。『変革型階層』もこの性質を引き継いでいるため、三十一階層から出現したそれが再び始まったのではないかと考えたのである。
「……おかしいな」
「そう、よね。やっぱり変だわ」
だが、すぐにそれだけでは説明が付かないことに気が付いた。
「どう考えても暗過ぎる」
階層ごとに多少の差はあれど、これまで通りであれば数十尺先にいる魔物でも十分に発見できるだけの光量があった。
しかしここでは黄昏時、それもわずか数尺先の人影に誰何しなくて判別できない程だったのである。
「また、これまでの階層とは異なる仕様なのかしら?」
「そう考えておく方が無難だろう……、んん!?」
「どうしたの!?」
突然くぐもった叫びを発したディーオに、ニアが驚いて問いかける。
「……〈地図〉も〈警戒〉も反応がないんだ」
「それは……、例の結界に取り囲まれているということ?」
「そうかもしれないが、違うかもしれない」
「どういうこと?」
釈然としない解答に、思わず形の良い眉をゆがめてしまう。
だが、それも当然のことだろう。なぜなら、ディーオの『空間魔法』、とりわけ〈地図〉や〈警戒〉は二人という最少パーティーで迷宮を踏破し続けてきた彼らにとって間違いなく切り札の一つだからである。
あらかじめ階層内の地形や魔物が周囲に潜んでいるのかどうかが分かるのだから、迷宮に足を踏み入れたことがある者や、冒険者稼業で飯を食っている者であればどれだけ有用であるのかすぐにでも気が付くことだろう。
それがいきなり使用できなくなったかもしれないのだ。しっかりと状態を確認しておかなくては、たちまち詰んで身動きが取れなくなってしまうやもしれない。
いや、それどころか安全圏を確保する上での必須能力であることを考えると、二人にとって生命線と呼んでも差し支えがない。
となれば、まさしく今は壊滅の危機に瀕しているとすら言えるかもしれないのだった。
「魔力自体は使用した感があるんだが、全く浮かび上がってこないんだ。こんな状態は始めてだ……」
初めての感覚に珍しくディーオも困惑しているようである。
「とにかく、他の『空間魔法』も効果がないのかどうか色々と試してみましょう。そもそも魔法自体が効力を発揮しないのであれば、撤退も視野に入れないといけなくなるわ」
エルダートレントとの取引という事態に発展したあの一件以来、二等級冒険者である『新緑の風』の面々に触発されたこともあってか、ディーオはそれまで以上に接近戦闘の訓練に力を入れていた。
その甲斐もあって彼の実力は五等級冒険者の平均をはるかに上回り、短時間であれば四等級の上位とも渡り合える程にまでなっていた。
しかし、それでも彼の最も得意とするのは『空間魔法』であり、それを封じられたとなれば多大な影響が出ることは否めない。
一方のニアはというと、元研究者であり戦闘面ではその能力の大半を魔法に依っている。もしも魔法が使えないなどということになれば、羽をもがれた小鳥並みに何もできなくなってしまうかもしれないのだった。
いくつかの実験の結果、幸いにもニアの魔法の大半は使用できることが判明した。
大量の魔力を消費したばかりであること、現在地が通路の袋小路のような狭い場所であることなどから大規模な威力を誇る魔法については調査していないが、恐らくはこれも問題なく使用することが可能であろうと二人は考えていた。
それでは肝心のディーオの『空間魔法』はどうだったのだろうか?
結論から言えばこちらも無事に発動にまで至っていた。
「〈裂空〉に〈障壁〉だけじゃなく、〈収納〉や〈転移〉についても問題なく使用できたわね……。そうなると、あなた自身に影響を与える魔法が使用できなくなっているのかしら?」
脳内に投影するという特徴を思い浮かべながら、ニアが仮説を立てる。
「だが、それだと〈跳躍〉もできないことにならないか?視界に収まる範囲でという制限はあるが、使用することができたぞ」
自身にしか効果が及ばないため、二人で行動するようになって以降はすっかり使用する頻度が少なくなっていたが、一瞬の内に十尺程度を移動することのできる〈跳躍〉をディーオはそれなりに多用していた。
特に〈地図〉を併用した壁などの障害物越えは、至急目的地に辿り着きたい時や、魔物に取り囲まれて逃亡する時などに大いに役に立っていたのだった。
余談だが、異世界の同一存在の行ってきた実験によって〈転移〉は生き物でも植物には効果があり、動物には効果がないということが分かっていたりする。
その実験を行った異世界の彼らは「細胞の種類が一定数以上になると同一の存在として認識できなくなるのではないか?」とか、「動物の細胞に〈転移〉の魔法に対抗する機能を持ったものがあるのではないか?」などの仮説を合わせて提示していたのだが、当時のディーオには全く理解できなかったこともあって、結果のみしか覚えていなかったりする。
その後も場所を変えたりしながら魔法の使用についての確認を行っていったのだが、特に目新しい結果を得ることはできないままとなっていた。
しかしながら、それとは異なる部分で新たな疑問点が浮かび上がってくることになった。
「どういうことだ?これだけ長時間うろついているのに、魔物一匹とも遭遇していないぞ」
確かにこれまでの階層でも――特に『迷路型』の階層では――同じくらいの時間魔物と出会わなかったことも多々あった。だがそれはディーオが〈地図〉と〈警戒〉を併用することで魔物と出会わないように進路を取っていたからに他ならない。
その肝心要の能力が制限されている現在において、魔物と一切遭遇していないというのは異常な事態だと言い切れることだったのである。
「トレントやシュガーラディッシュのような植物型の魔物という線は考えられない?それならほとんど動くこともないし、どこかに密集しているのかもしれないわ」
「可能性だけで言えば有りなんだが、手持ちの情報だけでは何とも言えないな」
「まあ、それはそうでしょうね。……で、これからどうするの?もっと先に進んでみる?」
「……いや、一旦階段があった場所まで戻ろう。ここが『変革型階層』なのか、それともただの『迷路型』の階層なのかどうかの確認もしておきたい」
ディーオの言葉にホッと息を吐くニア。大まかにだが自分たちを取り巻いている状況が分かってきたことで、三十五階層を切り抜けてきた疲れを思い出してしまったのだ。
これには魔物に一切遭遇しなかったため、いい加減緊張を維持できなくなったことも関係していた。
ディーオ自身も疲れており、ニアの調子の変化についても薄々は察知していたのだが、身の安全を確保できなければ休むことなどできないと、必死になって頭と体を動かしていたのだった。
「階段がまだ残っているのかどうかは分からないが、いずれにしてもそこで休息を入れることにしよう。昨日の夜から動き通しに近かったから俺もそろそろ限界だ」
特に三十五階層の踏破のために昨日の夜などはほとんど寝ずに魔物女性たちと打ち合わせを行っていた。
決戦前に仮眠を取ってはいたが、それだけでは疲労を抜き切ってしまうまでには至ってはいなかったのである。
もっとも、それだけの打ち合わせを行っていたにもかかわらず、実際にはほとんど独断行動のような真似をされてしまった魔物女性たちの方が余程心的疲労は大きかったであろうが。
「階段は……、残っているな。つまりはここも『変革型階層』ではない可能性が高いということか」
ここで再び『変革型階層』となれば、三十四階層並びに三十五階層の形態が事実と異なっていたのは、報告者による勘違いであったとも考えられなくもなかったのだが、どうやらそれは甘い考えであったようだ。
それに何より三十五階層の最深到達記録を持っていたのは、特級冒険者でもあるマウズの冒険者協会支部長――とその仲間たち――である。
彼がそのような単純な間違いを犯してしまったのかと問われれば、やはり疑問符を浮かべてしまう。何らかの事情があって意図的に情報を改ざんしたと考える方が納得できるのであった。
もちろん、この数年間の間に迷宮が変化したという可能性も捨てきれないので、真実がつまびらかにされるには迷宮の最深部へと到達する必要があるのだろう。
さて、ディーオたちであるが、宣言通りここで休息を取ることになった。
『異界倉庫』から特別製の蓄魔石を取り出して〈障壁〉結界を発生させる。
「……ふう。これでようやく一息つけるわね。〈地図〉と〈警戒〉が使えないのは痛手だけど、〈収納〉や他の『空間魔法』が使えるのは助かったわ。それにしても、どうしてディーオが繋げた異空間にこんな高性能な蓄魔石があったのかしら?」
「さあ、な。偶然俺以外の誰かが作っていた異空間に繋がってしまったのか、それともどこからともなく引き寄せてしまったのか。さっぱり分からないな」
『異界倉庫』については未だに秘密としてある手前、件の蓄魔石は〈収納〉先の異空間にあったということにしていた。
ちなみにこれら蓄魔石に付いて記述等は一切なく、異世界の自分の誰が放り込んだものであるのか分からないという状態であった。
とはいえ、意味不明、用途不明というものも数多く放り込まれていたので、ディーオもまたそうした点について深く考えることはなかったのであるが。
「気になる点も多いし、分からないことだらけだが、とりあえず今は疲れを癒すことを最優先にしよう」
「疲れた頭を酷使したところで碌に閃くこともないものね」
「それは経験談なのか?」
「そんなところね」
と軽口を叩きながら、いつも通り野営というには豪勢な寝床を完成させていく二人なのだった。




