7 三十五階層、攻略完了
ニアが魔法のために目を閉じて意識を集中し始めたことを確認すると、ディーオは周囲への警戒を強めていった。
これから彼女が使用するのは大魔法に分類されるものだ。そのための魔力自体はあらかじめ預けておいた『異界倉庫』から借りた強力蓄魔石があるので問題ない。
が、発動までに掛かる時間まではどうしようもない。
魔術の秘奥の中にはそうした集中するための時間を短縮するものも存在すると言われているのだが、ニアはまだそれらの神髄に至ることはできてはいなかったのだった。
もっとも簡単に辿り着くことができないからこそ、秘奥だの神髄だのと仰々しい呼び方をされているのだ。自らもまた完璧に『空間魔法』を使いこなせているとは言い切れないことを理解しているディーオは、そのことについて文句を言うつもりなど毛頭なかった。
話は少し変わるが、人間では感知することができないことを感じ取ることができる能力を持つ魔物というのはそれなりに多い。
そんな能力の一つに魔力の変化を感じ取るというものがある。
熟練の魔法使いであればこれに似た感覚を得ることができる者もいないではないが、極ごく少数というのが現状だ。
余談だが、「魔物とは魔力を活動源とするものである」とする説はこの能力に由来するものである。
魔力というものは世界中に満ちているものだが、それは決して均一的なものではない。風や水の流れによって小さな砂粒が常に押し流されたり、とある場所に集められたりするように、世界中に存在する魔力にも濃淡があるのだ。
魔物は魔力の濃い場所を好む傾向がある。だが、魔物の社会は弱肉強食が絶対のルールとして存在しているため、強者がその場所の支配者となるのが通例だ。
ラカルフ大陸の『魔境』の中心である『赤銅山脈』に近付いて行くほど魔物が強くなるというのは、彼の地に巨大な魔力の吹き溜まりか噴出口があるためではないかと推測されているのだった。
ちなみに、共同体を形成している魔物女性たちは、一見するとこのルールに反しているように思われるかもしれないがそれは違う。
彼女たちは個ではなく群れ、もしくは種でもって強者になろうとしているのである。
だからこそ次代を繋ぐことができなくなってしまうことにことさら強い危機感を抱くのだ。そして、長老格からの指示とは言え三十五階層攻略のための囮として躊躇せずに若手たちが参加したのも、残る者たちがいたからこそのことだった。
そんな魔物女性たちもまた、魔力の変化を感じ取る能力を持っていた。
「セイレ!あの二人の様子がおかしい!?」
悲鳴じみた仲間の叫び声を聞きながら、彼女もまたその異常な魔力の動きを感じ取っていた。
薄くなっているかと思えば濃く、濃くなっているかと思えば薄くなっている。自然な状態であれば、否、何かしらの意図によるものだったとしてもこのような不可思議な現象はまず発生しえない。
だが、幸か不幸か彼女たちにはそのような事態を発生させてしまえる人物に心当たりがあった。
「全員速やかに撤退の準備を!あの二人だから何をしでかすのか分かったものじゃないわよ!あれに気が付いていないようなドジな子はいないとは思うけれど、半数は奥へ入り込んだままになっていないかの確認に回って!」
大声で森の上空を舞う仲間たちに指示を伝えて、自身はすぐに直下へと急降下していく。
「ドナ!緊急事態よ!」
「ああ、私も感じたところだ。……まったく、階段まで辿り着いたのであればさっさと次の階層へ向かえば良いものを」
ぶつぶつと文句を呟くラミア女性を見て、必要以上に入っていた肩の力が抜けてスッと軽くなっていくのを感じる。
どうやら伝令役としてあちこちを飛び回っていたためか、知らず知らずの内に戦場の熱気に当てられてしまっていたらしい。
そして冷静になったことで、ディーオたちがわざわざこの状況下で仕掛ける意味がおぼろげながらに見えてきたのだった。
「あの二人の狙いは、やはり?」
「ああ。ハイオーガの目を私たちから逸らすためだろうな。初手の一撃の時といい、今といい、つくづく甘いやつらだ」
不機嫌そうに口にする幼馴染の姿に、そんな場合ではないと思いながらも笑いが込み上げてくる。
なぜならその表情は幼少の頃、年上の者たちを村で見送るしかできなかった時に見せていたものだったからだ。
「ああ、なんだ。私もあの二人のことを仲間扱いしていたのね」
そうなってみて、初めて自分の心持ちにも思い至る。
やることなすこと突拍子もなく、その上妙に気安い態度だったディーオたちのことを気に入っていたのだ、と。
「この階層の魔物の大半が向こうへと意識が向いている。ルッケたちのところまで引くなら今の内だろう。連中に私たちが撤退している背後から襲ってくる余裕はないだろうが……」
「突出し過ぎている子たちがいないか確認させているわ。私も今から一廻りしてくるつもり」
「頼む」
「任せておいて。約束を反故にするわけにはいかないものね」
誰一人として死なせはしない。仲間との約束なのだ、絶対に守らなくてはいけない。
飛び立つセイレの顔は晴れやかさに満ちていたのだった。
「おー、おー。見てる見てる」
対岸に集まってきている魔物たちの姿を見ながら、ディーオが楽しそうな声で言う。その手には『異界倉庫』から拝借していた蓄魔石の内の一つが握られていた。
ここまでの道のりでそこに蓄えられていた魔力のほとんどは使用されてしまっていたが、それでもまだ並みの魔法使い数人分に匹敵するだけの魔力が残っていた。
その残された魔力を使って、ディーオは魔物たちの視線を釘付けにしていたのだった。
一体何をしていたのか?
彼は蓄魔石の中にある魔力を放出しては吸収させるという行為を繰り返していたのだ。セイレたちが感じ取った魔力が濃くなったり薄くなったりする現象は、彼の仕業だったのである。
言葉にすればひどく単純だ。が、実はとてつもなく高度で難しい行為といえる。それというのも、魔物を含め生き物は自身の体内にある魔力にしか干渉することができないからである。
しかも人間種の場合、基本的には魔法という形で放出することしかできないとされているのだ。
生き物は世界に満ちている魔力を体内に取り入れることで自身の魔力として使用できるようになるとされている。
つまり魔力が多い者というのは体内に取り入れることのできる魔力が多い者のことであり、魔力の回復が早い者とは周囲の魔力を吸収する力に優れた者とも言い換えることができるのだ。
一方で、蓄魔石の魔力を自身の魔力代わりに利用できてしまうことについては、多くの学者たちが研究を続けているが未だに明確な理由は解明されていない。
ただ、使用の際にはしっかりと握り込む必要があるということから、蓄魔石が生物に馴染みやすい性質を持っていて、包み込むようにすることで体内にあると錯覚してしまうのではないか、と推察されていた。
さて、ここで今ディーオが行っていた非常識な行為について再度述べてみよう。彼は蓄魔石に蓄えられていた魔力をそのまま放出し、更には吸収させるということをしていた。その道の研究者からすれば発狂もののとんでもない行為だったのだ。
突っ込み役のニアはというと、これから使用する大魔法へ集中しているためにそれどころではないのか、はたまたディーオには何を言っても無駄だと諦めてしまったのか、黙して何も語らないという状況だった。
結果、誰にも止められることなく彼の大暴走は続いていくことになってしまったのである。
そして最も割を食うことになってしまったのが、ハイオーガを始めとする三十五階層に生息する魔物たちだ。最初彼らは「侵入者を排除する」というどこからともなく本能へと訴えかけられる指示に従うだけだった。
だが、相手はそんな自分たちを時には力尽くで蹴散らして、時には策謀で無力化してついには池の中央にある小島にまで辿り着いてしまう。
それだけに止まらず、なんとその者たちは自分たちを出し抜いたことを誇示するかのように小島の上で何やら行い始めたのだ。
魔物たちにとって不幸だったのは、そうした一連の出来事を屈辱だと感じてしまう高い自尊心が残されていたことだったのかもしれない。
散々翻弄されて多くの仲間が倒されてしまったというのに、激高した彼らはその場から立ち去ることなく無為に時間を過ごしてしまうこととなった。
そしてついには、魔力の急激な変化という異常事態を目の当たりにしてしまう。
魔物女性たちとは違って初めて見た不可思議な現象は、彼らに根源的な恐怖と畏怖を生じさせることとなり、ついには身動きすら取れなくなってしまったのだった。
そして、本命であるニアの魔法が発動する。
「其は虚空より来たりし焔纏う岩石……、降り注げ〈メテオライト〉!」
言葉が終わるや否や、階層上空から隕石を模した燃え盛かる岩石群が小島の周囲の池へと落ちていく。
これがもしも本物の隕石を引き寄せたのであったとすれば、池の周りを取り囲む森だけでなく三十五階層の全てを更地に変えてしまう程のとんでもない事態を引き起こしてしまったことだろう。
いや、そもそも迷宮内に呼び込むことができずにマウズの町とその近辺を壊滅させてしまったかもしれない。
だが、魔法によって疑似的に作られた存在のそれらは、池の水を蒸発させてしまうことなく周囲へとまき散らしていくだけとなった。
魔法で一時的に作られただけとはいえ膨大な質量の物体が飛び込んだのだ。小石を水たまりに放り込んだ時とは訳が違う。
数尺から十数尺の高さにもなる巨大な津波となって沿岸部へと押し寄せたのである。しかもそれは岩を包む炎によって熱せられているというオマケ付きときていた。
もうお分かりだろう。
逃げることもできずにただただ無為に時間を過ごしていたハイオーガたち魔物の群れは、熱湯の津波に飲み込まれてついには壊滅的な被害を受けることになったのであった。
余談だがディーオの張っていた〈障壁〉に強かに頭を打ち付けて気絶していた池のヌシだが、逃げることもできずに数発の岩石の直撃を受けてあえなく息絶え、その身を水面へと晒すことになってしまっていた。




