9 三十五階層の魔物
階段を下り切った先の景色は、先程までいた階層ととても似通ったものだった。
「……言われた通りの場所についたという訳ね」
「ああ。幸か不幸かそのようだ」
さっそく『空間魔法』で脳裏に展開した〈地図〉にも、楕円形の一部と思われる地形が映し出されており、〈警戒〉による魔物の反応も森の中に集中しているようであった。
幸なのはせっかく教わったことが無駄にならなかったためで、不幸なのはその内容通りの厄介な魔物が行く手を阻んでいることである。
「あんたたちを一網打尽にできる魔物とは穏やかじゃないな。一体どんな魔物が生息しているんだ?」
驚きと共にこの言葉を口にしたのは数刻ほど前のことである。
長年『空間魔法』という特大級の秘密を抱えていたディーオにとって、何気ない風を装いながら周囲の者たちを探るという技術は身につけなくてはならないものの一つだった。
特に相手の力量を推し量る目には自信が……、これについては『新緑の風』の面々やニアと立て続けに低く見積もってしまっていたので、消失気味になっていた。
それでもこれまでに積み重ねられてきた経験から、その精度は熟練を超えて高等級の冒険者とも比肩しうるだけの高性能となっているのだが、単独行動が多かったがゆえか客観的な視点を持てないままとなっているのだった。
閑話休題。ともかく、そうした経緯から鍛えられてきたディーオの眼をもってすると、三十四階層の魔物女性たち、とりわけ現在の主力なのであろう目の前にいる若手リーダーの三人は、相当な実力を兼ね備えているということになる。
単純な力押しの戦いであればニアと一緒であっても大きな被害を受けることになるだろうことは間違いない。彼女たちの得意とする戦場下であれば負けてしまうことすらあるかもしれないと見ていた。
そんな彼女たちが仲間を率いてすら一網打尽とされてしまうというのであれば、確実に情報を仕入れておかなくてはいけないだろう。
「……森の奥、池の周囲を支配しているのは賢脳鬼の一族だ」
ラミア女性から返ってきた答えに、二人は思わず天を仰いでしまった。
ハイオーガはオーガの中でも一際頑丈な体躯を誇る上位種と呼ばれる種族に該当するからだ。
しかし、ハイオーガが危険視される本当の理由はそこではない。彼の魔物たちが最も恐れられている理由、それは人間種を超えるほどの高い知能を持っているとされる点である。
しかもその上でオーガ種に見られる凶暴性や残忍性、好戦的な性質もまた健在なのであった。
余談だが、基準となったオーガという魔物自体は現在存続している各種に進化、退化、変化してしまったとされていて、もはや存在していなかったりする。
それになぞらえて証明できない事柄なのを良いことに元祖や本家を名乗ることを、『オーガ原種を語っている』と例えたりもする。
低位のレッサーオーガが人間種の生存圏の近くで生息しており、それゆえ接触、交戦機会が多い。そのため、「力は強いが、頭の出来はそれほどでもない」という特徴がオーガ種全体の傾向だと考えられがちになっていた。
しかしこれは大きな間違いであり、オーガ種が登場する逸話にはその巧みな戦術や策に翻弄されて大敗を喫するという展開のものが多いのである。
ハイオーガもその例にもれず、過去の歴史を紐解いてみると彼らによって全滅させられた軍隊や国は数知れないとされている。
ラカルフ大陸では『魔境』の中でも西側に位置する『黒煙の森』に住処を構えているとされていて、西方の国々の村や町が進出してきたハイオーガによって壊滅させられるという事件が度々起きていた。
三十五階層のハイオーガは個体数が三十程度と少ないため、必要以上に森の外側方面へは広がっていないのではないか、というのが魔物女性たちの予想であった。
「とんでもない大物が出てきたな……」
最悪、〈障壁〉結界を展開したまま移動するという、裏技中の裏技を使えば押し通ることは不可能ではないだろう。だが、どれだけ膨大な量の魔量が必要になるのか分かったものではないという欠点もある。
異世界産の蓄魔石はそれなりの量があるが、再び魔力を蓄えさせるためには時間が必要であるため、一度に使用できる数は有限となる。カウントダウンを横目で見ながらの活動というのは通常よりも精神的な疲労が大きくなりがちで、結果としてその後の行動に悪影響を及ぼしてしまうことも考えられるのだった。
何より次の階層へと進むためにはその先にある池を越えなくてはいけない。
次の一手を考えておかなければ、無駄に敵の勢力圏内へと足を踏み入れるだけということになってしまう。
「外周が一里くらいだとすると……。一時的に水面を凍らせて道を作ることができるかもしれないわね」
「そんなことができるのか!?」
「ええ。走り抜けるだけの短い時間でなら、ということになるけれど。だけどそれも荒れ狂うように大きくうねっていては凍らせることができないし、池の中に邪魔をする者がいないという前提が必要になるわ」
通路を作ることが最優先となるため、足場としては不安定なものとなってしまうだろうことは想像に難くない。駆け抜けるには相当な集中力が必要になるはずだ。
そんな状況下で足下から奇襲を受けるなどすれば、まず間違いなく致命傷になる。
「ハイオーガほどの知能があれば、舟か筏を作って島に渡るくらいのことをしていてもおかしくない気もするんだが、そっちはどうだ?」
「ハイオーガたちが池を渡ろうとしているのを見たことはないわねえ。ただ遠くからしか見ることができていないから、邪魔をする魔物が池の中にいたからなのかどうかまでは分からないわ」
「遠くからしか?」
「ええ。森の中心の近くだと、飛んでいても攻撃されてしまうのよ」
困ったことよねと呟くハーピー女性だったが、追加された新事実に唖然とするより他ないディーオとニアなのであった。
「その、遠距離からの攻撃についても詳しく教えてくれ。ハイオーガたちは一体何を使って攻撃してきているんだ?投石?それとも弓矢を用いているのか?」
気を取り直した後、急いで確認を始める。例として人間種の代表的な遠距離での攻撃方法を挙げてみたが、魔物女性たちは揃って首を横に振った。
ちなみにディーオが例として挙げたこの二種の武器は過去にハイオーガ使用していたことが確認されているものでもあった。しかしながら、使用する者の膂力が大きく異なるため、どちらも人間種における攻城兵器並みの攻撃力を誇っていたという話である。
「確かに命令を下しているのはハイオーガたちなのですが、実際に攻撃を仕掛けてくるのは奴らではありません」
「ハイオーガ以外に遠距離からの攻撃方法を持っている魔物がいるのか!?」
「はい。ハイオーガたちは射角鹿を飼い慣らしているのです」
「ああ、そっちか……」
示された答えに、二人はホッと息を吐いた。ディーオたちはてっきりハイオーガと共存できるだけの知能を持つ魔物がいるのではないかと想像してしまっていたのだ。
もしそうだったのであれば、森を越える困難さはこれまでとは比較にならない程難しいものになってしまっていただろう。
「でも、ホーンショットディアーでも十分すぎる脅威よね」
「そう、だな……」
ホーンショットディアー。読んで字のごとくその角を射出して攻撃するという一風変わった能力を持つ大型の鹿の魔物である。
こちらも『黒煙の森』に生息しているとされており、『魔境』を住処としているだけあって、性格は獰猛で凶暴だとされている。
射出される角は大木を貫通したりへし折ったりするだけの威力を持っているとされ、森の中で不意打ち気味に喰らってしまった場合、それだけで致命傷になるだけの危険なものである。
実は後ろ足での蹴りや頭突き気味の突進といった近距離での戦闘を好む武闘派であり、射出されることなく大きく枝分かれしていった角は彼らの強さの証として同族から尊敬の念をもって見られる要因ともなっているのだが……、他の種族でそれを知るものはほとんどいない。
「……ホーンショットディアー、いえ、せめてハイオーガだけでもいなくなれば、格好の狩場の一つにできそうよね」
再び目の前に広がる森へと意識を向けながらニアが呟く。
生息している魔物の様子からすると、三十五階層は『黒煙の森』の中程度の深部の魔物たちが取り込まれているようだと二人は予想していたのである。
そもそも一言で『魔境』と言い表しているが、『黒煙の森』とマウズの町のあるグレイ王国のすぐ側に広がる『灰色の荒野』とでは、森と荒野という地形の違いからも見られるように性質が大きく異なっている。
一言で言えば『灰色の荒野』は常に周囲へと広がろうとしており、反対に『黒煙の森』は現状の維持を望んでいる節があるのだ。
そのためか『黒煙の森』は侵入者に対して極めて排他的であり、その分境界線を犯さない限りは安全だとされているのである。『黒煙の森』のすぐ外側に西部と中部を結ぶ大陸でも有数の街道が通っているのがその証といえるのかもしれない。
それでもハイオーガの例のように、時折魔物が飛び出してきては被害を与えると事例には枚挙に暇がないのもまた事実なのではあるが。
ともあれ、そうしたこともあって『黒煙の森』は外周の一部を除きほとんど調査すら進んでいないという状況となっていた。
そのため、そこに住むであろう魔物の素材ならば高値で取引されることは間違いないだろう。まさに格好の狩場という訳である。
ちなみに、常に周囲へと支配圏を拡大しようとしている『灰色の荒野』だが、『魔境』の中心とされている『赤銅山脈』から遠く離れてしまっているためかその力は弱く、広がるどころか逆に人間種からの開拓によって大きく勢力を削られることもしばしばであった。
もしも二つの『魔境』の性質が反対であったならば、今頃は『灰色の荒野』は開拓され消滅し、逆に『黒煙の森』が大陸西部を飲み込んでしまっていたかもしれない。
「それにしても……、とんでもない大事になっていないか?」
ぐるりと首をひねって向けられた二人の視線の先には、たくさんの魔物女性たちがたむろしていた。




