35話 はきだめに女神降臨
魔法のないタスティリヤで生まれ育ったマリアの目には、公子であるジーンも魔法使いも同じ人間に見える。
けれど、この国には歴然とした格差が存在し、魔法使いの命にはなんら価値がない。
ルビエ公国は階層に支配された国なのだ。
(大公一族と貴族は、その仕組みに甘んじて生きてきた。けれど、わたくしは魔法使いの方がずっと強大な存在だと思うのよね)
国中の魔法使いが結託すれば、国の仕組みさえひっくり返せるだろう。
ルクレツィアが失敗したのは、ミオやニアのような大公直属の魔法使いまでは味方にできなかったせいだ。
近くでガラス管に魔力を送っていた若い魔法使いがふらりと倒れた。
駆け寄ったマリアは、その体を抱き起こす。
「大丈夫ですか?」
「は、はい! まだ動けます。だから、どうか鞭打ちだけはお許しください!」
おびえた顔で身を縮める彼の手や顔には、古傷がたくさんあった。
手の甲の傷はついたばかりで血がにじんでいる。
「鞭打ちなんてしませんわ。同じ人間ではありませんか」
マリアは、胸元から取り出したハンカチで傷のついた手をぎゅっと縛った。
「血が止まるまでこのまま圧を加えてください。できたら綺麗な水で洗って、傷の周りを清潔になさって」
傷を手当てしたマリアを、若者は驚きに満ちた顔で見つめた。
魔法使いに親切にする貴族を初めて目にしたのだ。
マリアは、膝にうずくまったニアに小声で告げる。
「あとで傷薬を運んでくださる?」
「にゃーお」
「その声……もしかしてニアか?」
囁く若者にニアはウインクした。
顔見知りだったらしい。
荒っぽく歩み寄ってきたジーンは、青年を蹴飛ばした。
「何をなさるのです、ジーン様!」
「マリアヴェーラ殿、こいつの手当てをしてやる必要はないぞ。魔法使いは我ら貴族に従属するのが定めなのだ」
「ルビエ公国ではそうかもしれませんが、わたくしが生まれ育ったタスティリヤ王国では違います。王侯貴族と民とは持ちつ持たれつの関係なのです。目の前で傷ついた人がいたら、魔法使いだろうと助けるに決まっています」
毅然と立ち上がったマリアに、魔法使いたちは心を奪われた。
自分を人間だと断言してくれた、世にも美しい貴族令嬢に見とれ、呼吸さえ忘れている。
手当てされた若者も感極まった表情で、マリアのスカートを引いた。
「名前を教えてくださいませんか?」
「わたくしはマリアヴェーラ・ジステッド。タスティリヤ王国から使者としてまいりました。みなさんもいつかお越しになって。温かくて平和で、とてもいいところなんですのよ」
タスティリヤのマリアヴェーラ様。
魔法使いたちは心に刻むようにマリアの名前を呟いた。
ガラス管に送られる魔力が途切れたので、ジーンが鞭を振るう。
「馬鹿どもめ。誰が止めていいと言った!」
パン、パン。
鞭打たれた魔法使いは、一人また一人と役目に戻る。
若者もマリアに一礼して仕事に戻っていった。
(こんなの間違っているわ)
今なら、魔法使いを解放するためにルビエに戻ってきたルクレツィアの気持ちがわかる。
魔法使いから生まれ、魔法使いに恋をした彼女にとって、彼らへのひどい仕打ちはこたえただろう。
魔法が使えるかどうか、それだけの違いで、人の形をした道具だと線を引くことがどれだけ残酷なことか、彼女は自分の境遇からも感じていた。
(魔法使いの娘で、公女である自分しか彼らを解放できないと、思い詰めても無理はないわ)
ずきっと胸に痛みが走った。
視線を下ろすと、ニアがマリアの胸元にぎりぎりと爪を立てている。
「絶対に助けますわ。少しだけ耐えていてください」
ニアを足下に下ろしたマリアは、ようやく溜飲を下げたジーンに近づく。
「差し出がましいことをいたしました。タスティリヤでは王侯貴族と平民の差はあるものの、その下の階層の人間はおりませんの。コベント教授にルビエ公国ほどしっかりと階級社会が維持できている国はないと聞いておりましたので、この機会に勉強させていただきたいですわ」
「コベントだと!? 君は、『魔法の有無における相対的歴史学』でアカデメイア・クライド賞を受賞したコベント教授に教えを受けているのか?」
「ええ。わたくし、タスティリヤ王国の王子妃候補ですので、素晴らしい先生方に師事していましたの」
「素晴らしい! 私はコベント教授の著書は全て読んでいる。それによると、魔法のない国は生活に不便で戦争の際に不利だが、長期的な平和を維持できるそうだな。だが、私に言わせれば魔法のある国の平和の方が強固だ。反乱や諍いを起こしそうな人間を、魔法の力で根こそぎ弾圧できるのだから。コベント教授のご意見をうかがいたいものだ」
「タスティリヤにいらっしゃったら、わたくしから教授におつなぎしますわ」
「ほ、本当か!?」
ジーンは目をキラキラさせて、マリアの両手を取った。
「感謝するぞ、マリアヴェーラ殿。大公に許可を取っておこう。貴殿の帰国にあわせて私もタスティリヤに渡る!」
「わたくしは、ルクレツィア様を説得でき次第、帰国しますわ。それまでに準備をしていただける?」
「もちろんだ。教授にお持ちするルビエの土産も用意しなくては」
別人のようににこやかな笑顔を見せたジーンは、鞭で床をパンと叩いて声を張り上げた。
「私はしばらく実験ができなくなる。お前らは宿舎で帰還を待つように!」
魔法使いたちは、信じられないような、ほっとしたような顔つきでマリアを見た。
(大丈夫。何もかもお任せください)
彼らと同じような目で、ニアもまたマリアを見上げたのだった。
◇◇◇
「ど、どうだった?」
屋敷の玄関で待ちぼうけていたミオは、マリアとニアが乗った馬車が到着するなり外に走り出てきた。
マリアは「全て計画通りですわ」と笑う。
「ミオ様に新たなお願いがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「何をしてほしいの?」
「魔法でコサージュを作ることは可能でしょうか。同じ色、同じ形の物を大量に作って配りたいのです」
「できるよ。といっても、魔法では金や宝石みたいな価値ある物は作れないんだ。僕が作れるのは、花とか動物とか自然の形のものだけ」
「では薔薇を。深紅の薔薇のコサージュをお願いします」
不思議な依頼を、ミオはこころよく引き受けてくれた。
マリアは、足下にお座りするニアにも声をかける。
「ニア様と魔法の猫のみなさんは、知りうるかぎり全ての魔法使いにそのコサージュを届けてください。やってくださいますか?」
「にゃあ」
ニアの方は、マリアが何をしようとしているのかわかった様子だ。
(あとは、向こうが動き出すのを待つだけ)
屋敷の玄関には、ループレヒトとダグラスが出てきてマリアを手招いている。
二人ともエプロンを付けているから、今晩はおいしいものにありつけそうだ。
「お二人とも行きましょうか」
腹が減ったは戦はできないと、マリアは、ミオと手をつないで仮住まいへ入っていった。




