20話 かんびなる完全勝利
逆さになったネリネの上半身は、重力にそってまくれ上がったスカートに覆われ、下着のドロワーズが丸見えになった。
通路からこちらを覗き込んだ貴族は、思わぬ痴態にぽかんとしている。
「見ないでよ!」
腕を突っ張ってスカートを押さえる。クリアになった視界に、悠々と歩み寄ってくるマリアが映った。
「ちょっと、これって!」
「そう。あなたが、わたくしのために設置してくださった罠ですわ。原始的な仕掛けなので本当に動くのかどうか疑っていたけれど、綺麗に吊れるものなのね」
ネリネは、婚約披露パーティーでマリアに恥をかかせるため、レイノルドの側近に命じて会場に罠を仕掛けていた。
会場の指示書を読んで、遊歩道の途中に得体の知れないタイルが置かれているのに気づいたマリアは、あえて指摘せずにそのまま設置させたのだ。
もちろん、自分は罠にかからない絶対的な自信があった。
たとえ追い詰められたとしても、完璧であろうとするマリアヴェーラ・ジステッド公爵令嬢は、会場から走り去ったりしない。
凜とした顔つきで負けを認めて、堂々と退場する。それも庭の奥まった方にはけるのではなくて、登場時と同じように正門をくぐってだ。
つまりネリネは、マリアの性格を読み違えたのである。
「追い詰められたあなたが、ここに走って行くかは賭けでしたが……わたくしの勝ちのようね。おかげで、年頃の娘が逆さ吊りにされているところを初めて見られましたわ。想像よりもずっと滑稽ですこと」
口元に手を当てて楽しそうに嗤うマリアは、まさしく悪役だった。
偽聖女と烙印を押されたネリネと並んだら、百人中百人がマリアの方を真の黒幕に違いないと指さすだろう。
それは、その場においては最大の褒め言葉だ。
「ネリネ様。のちのちのためにお教えしておきますが、喧嘩を売る相手は選ばれた方がよろしくてよ。相手の頭が自分より切れるか、人脈や人望はどのようなものか、劣勢になった際にどれだけの味方を集められるか……慎重に見極めて、勝てる勝負に持ち込まなければ無様にも見世物にされるのは己の方。次があるならお気をつけなさいませ。でも、もうそんな機会はないかしら。田舎で一生下働きですものね?」
「こうなったのは、あんたのせいよ……!」
逆さ吊りのネリネは、もはや衆目もプライドも関係なく、体を大きく揺らしながら大声でマリアを罵った。
「正真正銘の悪女め! あんたみたいな女こそ、辺境に追放されるべきだわ!! 今に見てなさい、どうせそのうちレイノルド様に愛想を尽かされて、孤独に死ぬことになるんだから!!」
「それは〝預言〟かしら。それとも、負け犬の遠吠えかしら……」
マリアの顔から表情が消えた。
感情のない美貌はより迫力を増して、ネリネや周りの空気をサッと冷やした。
「わたくし、自分が他人の言葉にここまで翻弄されるとは思っていませんでしたわ。ドレスに水を掛けられようと、陰で口汚くののしられようと、毅然としていられると思っていたのです。しかし、破滅の預言を受けて、心が大きく揺らぎました」
悪口に始まり、くつがえせない預言や不利な状況など、ネリネにはしつこく苦しめられてきた。傷つかなかったといえば嘘になる。
だがマリアは、どれだけ泣き喚きたくなっても、気持ちを押しとどめて耐えた。
マリアの心は、アルフレッドに婚約破棄されて泣き喚いた卒業パーティーの日から、紆余曲折を経て成長したのだ。
そうでもなければ、毎日泣き暮らしていただろう。
みっともなく声をあげて、幼子のように涙を流すことは、レイノルドを本当に失ってしまう日までない。
「あなたのおかげで、わたくしはまた少し強くなれた。感謝しておりますが、聖女も預言も大嫌いになりました。レイノルド様とわたくしを引き裂こうとするものは、どんな相手でも地獄を見ることになりますわ。ごきげんよう、ネリネ様。クレロ様との新婚生活を楽しんでくださいませ」
ニコリと笑って、マリアは踵を返した。
ネリネを捕獲するために走ってきた騎士たちは、すれ違う麗しいジステッド公爵令嬢に見蕩れ、はっとして仕事に戻る。
彼女の姿に目を奪われたのは、会場に集まった貴族も同様だ。
華やかに着飾った紳士淑女がどれだけ群れようと、マリアはそこにいるだけで主役になる。気高く美しいジステッド公爵令嬢の前では、彼らは背景に過ぎない。
魔法の絵の具で描かれなくても、キラキラとまばゆい輝きを放つ〝高嶺の花〟に敵う者はタスティリヤ王国にはいなかった。
堂々たる足どりで壇の下に戻ったマリアは、待ち構えていたレイノルドと並び、会場に向かってたおやかに一礼した。
「お待たせいたしました。婚約披露パーティーの続きをいたしましょう」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
辺境から盗まれた魔晶石を元通りにして魔物から国を守る算段がついたため、レイノルドが騎士を率いて出発する予定はなくなった。
レンドルム辺境伯はマリアに何度もお礼を告げ、何か困り事があったときには一番に駆けつけると約束して、縄でしばったネリネとクレロを連れて王都を発っていった。
宮殿でも動きがあった。
聖女と関わりのあった人物は仕事を解かれ、第二王子周りの体制も見直された。
側近になる人物は、『聖女や預言を行う人物との関わりがないと表明する。そういった相手とつながりができた場合は即刻処断されることに同意する』という、厳しい宣誓をしなければならなくなった。
聖女ネリネに心酔していた国王も悔い改め、王妃に対して謝罪を行った。
魔法の絵の具で汚れたクレロの絵を破棄する代わりに、新たな肖像画を作る予定だ。
今度の画家は、地道に貴族の依頼をこなしてきた老人で、派手な作風ではないが確かな筆力で信頼できる。
というのも、彼を紹介したのは他でもないジステッド公爵だ。マリアの肖像画を依頼する相手として、クレロの前に名が挙がっていた人物なのである。
振り返ってみると、クレロは彼自身の見た目の美しさと魔法の絵の具で得た身に余る評判によって、実力が伴わないのに依頼を受けていた。
一時の流行でわりを食うのは、本来であれば仕事を得られていた秀才だ。
そうこうしているうちに暑さは和らいでいき、秋の気配が感じられるようになった頃。
季節を先取りしたモスグリーンのドレスを着たマリアは、流行のハート形のチュロスを詰めたバスケット片手に、宮殿の庭を歩いていた。
ドレスの肩やスカート裾には多めのフリルがあしらわれている。
儀式であれば周囲の期待に応えて〝高嶺の花〟らしいデザインを選ぶが、今日はプライベートなので衣装部屋の奥にあるかわいいコーナーから選んだ。
庭を見回すと、夏の花は盛りを過ぎていた。だが、秋にはまた薔薇が咲くだろう。
さらに風が冷たくなると冬を迎える準備に追われるため、今の時期が一番のんびり過ごせるかもしれない。
本格的な冬が来るまでに鎮魂祭や感謝祭といった行事があり、貴族が集まる夜会も多くなるので、貴族令嬢はドレスを新調したり招待状に返事を書いたりと大変なのだ。
マリアは、遊歩道にそって曲がり、足下のタイルに気を付けながら進んだ。
「秋は目の前とはいえ昼間は暑いから、あそこにおられると思うのだけど……」
当たりをつけて歩いていくと、グリーンカーテンに囲まれた東屋から、長い足がはみ出ている。
ひょいと顔を出して覗き込むと、レイノルドがベンチに横たわって昼寝をしていた。
薄手の黒いコートを脱いで背もたれにかけ、シャツのボタンを外して衿元を大きくくつろげている。
ゆるめたネクタイにはスズランのピンを挿していた。
マリアもまた、ドレスの胸元にそろいのブローチを着けている。
――スズランの花言葉は『再び幸せが訪れる』――
ミゼルが教えてくれた意味を思い出して、マリアは愛おしさに包まれた。
忙しくて会えなくても、レイノルドはマリアを忘れないでいてくれたのだ。
向かいの席に静かに座ったマリアは、レイノルドが起きたらお茶ができるように、チェック色のスカーフを広げて持ってきたお菓子や水筒、カップを並べる。
お菓子の多くは公爵家で焼かせたものだ。メレンゲクッキーやイチジクをのせたミニケーキもある。
「さて、と……」
マリアが籠の中から最後に取りだしたのは、聖女の預言を記した書物だった。
テーブルにのせて開き、上等な紙をめくっていく。
ちょうど中央辺りのページから白紙になっていた。
聖女ネリネが王都から追放されて以降、新たな預言は記されていないので、マリアへの当てつけが最後だ。
『ジステッド公爵令嬢マリアヴェーラが第二王子レイノルドと結婚すれば、このタスティリヤ王国は天災と飢饉、他国からの侵略にさらされて滅亡するだろう。なぜなら、その女は、この国はじまって以来の悪女なのだから!』
「好き勝手に言ってくれたものね」
嘆息したマリアは、インク瓶とペンも籠から出した。
黒いインクにペン先を付けて、破滅の預言の冒頭からツーと一本線を引いていく。線を上書きして、預言をなかったことにするのだ。
金属が紙をこするカリカリという音が、静かな東屋に響いた。
聖女ネリネへの恨み節の代わりに、すべて消してしまおうかとも思ったが……。
マリアは、預言の途中でペンを離した。
「――それは消さなくていいのか?」
「!」
前を見ると、いつの間にか起き上がったレイノルドが、眠たそうな目をこすっていた。
湖面の水のように穏やかな瞳は、残された『なぜなら、その女は、この国はじまって以来の悪女なのだから!』という文面を見つめている。
マリアは、しゅんと肩を下げてペンを置く。
「ええ。これだけは、当たっているような気がしますの」
辺境への追放を命じられたネリネは、起こした騒ぎの罰を十分に受けていた。
パーティーが開かれる前からマリアはそうなると――そういう結末にしてみせると――分かっていたのに、あえて会場の罠をそのままにして、最後に痛い目に合わせた。
その後、婚約披露パーティーを無事に終えて、国王や王妃に手際を褒められたマリアは、嬉しそうな笑顔の裏で達成感と恐ろしさに震えた。
(わたくしは、なんてことをしてしまったの!)
ほんの少しだけネリネにお灸をすえたつもりだった。
けれど、思い返してみれば、マリアがやったのはまぎれもない復讐だ。
ネリネはもう二度と王都には戻れない。レンドルム領からも出られない。
生まれた家を見に行くことはおろか、共に育ったアルフレッド、レイノルドと面会することもできないのだ。
そんな彼女を労りもせず、最後に恥をかかせるなんて。
悪女としか言いようがない。
「わたくし、レイノルド様だけは奪われたくなくて、ネリネ様に酷いことをいたしました。恋を守るためと立派な言葉で正当化しても、許されることではありません」
「…………真面目だな、あんた」
レイノルドは、手を伸ばして水筒からカップに冷えた紅茶を注ぐ。
こぽこぽと音を立てる液体は、日陰のせいか血のように赤く見えた。
「あんたがやったのは、せいぜい逆さ吊りだろ。俺なんか、あんたを奪おうとするやつは殺せる」
「ころす? そんな恐ろしいこと、レイノルド様がなさるはずがありませんわ」
マリアは首を振って否定するが、当人は平然とのたまった。
「する。俺はあんたに恋をしている。恋は恋でも、あんたが思っているみたいに可愛くない、ずっと激しくて、衝動的で、火傷するような、そういう恋だ」
レイノルドは、クールな外面には似合わない、強くたぎる熱情を燃やしていた。
驚くマリアは、続いた言葉にさらに衝撃を受ける。
「あんたへの想いを秘めていた頃の俺とは別人になったみたいだ。一度でも自分のものになったあんたを簡単には手放せない。あんたがしている恋は、俺がしているものより柔らかくて、優しくて、砂糖菓子みたいに甘いものだ。そう思っていた。だが、ネリネの扱いを見て、同じだと気づいた――」
持ち上げられたカップは、レイノルドの口元に運ばれることなく、預言の書の上で逆さになった。
紅色の液体が、インクの乾ききらない紙面に落ちる。
「あ……」
紅茶は、平らにのばされた繊維に染みこんでいき、預言を紅色に染めた。
インクは滲んでページ全体に広がり、何が書かれていたのか読めなくなる。
「――あんたが恋を守るために悪女になるというなら、あんたのことは俺が守る」
「レイノルド様……」
マリアは、とくんと鼓動を揺らした。
震える己の残酷さ。それをもレイノルドは受け入れてくれる。
彼のまっすぐな愛情は、自分を責めていたマリアの心に強く絡みついて、うかされそうな熱を放つ。
「たしかに、火傷してしまいそうですわ」
薄く笑うマリアは預言の書を閉じた。
レイノルドは、カップを置いてテーブルにのせられていたマリアの手を握った。
「やっと落ち着いて会えるようになった」
「言われてみればそうですわね。春からずっと苦難続きでしたし、聖女の問題が片づいてからも、側近の体制が見直されたり宣誓が行われたりして、常にお忙しかったでしょう。お手紙で近況をお聞きして、レイノルド様が倒れてしまわないか心配しておりました」
二人の文通は再開した。
興味深く思った事柄やお互いの日常を書き記した手紙は、多いときには日に二度、宮殿とジステッド公爵家を往復する。
文面も変わった。これまでとは違って『好き』や『愛してる』といった愛の言葉が並び、いかにも愛し合う恋人が交わす恋文になっていった。
マリアが求めなくても、レイノルドは自然にそうなっていった。
本気で誰かに恋していると、人はそういう風になるのかもしれない。
「こうして適度にサボっているから平気だ。もしも嫌でなかったら、また一緒に出掛けないか」
「よろしいのですか! わたくし、レイノルド様といられるだけで嬉しいので、どこにでもお供いたしますわ。どこへ行きましょう?」
ぱあっと顔を明るくしたマリアに、レイノルドはハートのチュロスをくわえさせて微笑んだ。
「どこでもいい。あんたが俺のものだって見せびらかしたい」
「!!? もぐもぐぐぐ(見せびらかす)!?」
「ははっ。あんた、相変わらずかわいいな」
からかわれるうちに太陽は傾き、緑の間から吹き込む風によって、暑さは流れていった。
いつかまた、二人の間には大きな困難が訪れるだろう。
それは破滅の預言のように、どんな形で降りかかってくるか分からない。
いずれ国王となる第二王子と高嶺の花である公爵令嬢の間を壊そうと、虎視眈々と狙っている者はいくらでもいる。
(守ってみせるわ。たとえ悪女とそしられようと)
レイノルドといたければ、マリアはもっともっと強くならなければならない。
人を傷つけても心が痛まないくらい鈍感で、誰かの謀略に巻き込まれないように鋭敏な貴婦人へと成長していかなければならない。
(だけど、今だけは――)
マリアは、ぽうっと熱に浮かされた顔で、微笑むレイノルドを見つめた。
だけど、今だけは、甘く優しくとろけるような恋に溺れていたい。
《完》




