No.88「人間の悪魔」
「関わっちゃったけど、許してくれるかしら。緊急事態だものね」
「許すも何も、助けてくれたのに……」
「だって、まるでお馬鹿さんみたいに突っ立っていたんだもの。情けないわ」
こんな場面でも、肝の据わった彼女は笑みを浮かべているのが声で判る。
「それで、どうしてここに?」
緊張の雰囲気が空気を伝って肌で感じられた。
「今日の帰り、近所の子が私とすれ違ってバルの家の方に変な人に連れて行かれるのを見たの。さっきになって、探しても見つからない、知らないかってうちにご両親が訪ねてきたのよ。それで、こっそり抜け出して探しに来たんだけど、その先で強い光があったから何かと思ってきてみたら……」
なんとも言えないような複雑な表情で走り続けた。闇の中、遠くでカラスが夜鳴きする。闇に疑心を抱いた瞬間、全てが不気味に思えてくるものだ。木のシルエットすら恐ろしい化け物に見えてくる。
「…………教会の中のあれ、なんなの」
「俺もよく分からないんだ。あんな魔法陣見た事がないし、あんな現象を故意に起こせるのも知らなかった。ましてやリチャード枢機卿が、あんな事に携わっていたなんて……」
絶望の深淵を覗いている気分だった。今まで長らく信頼し、慕ってきた親のような存在であり尊敬する師だったというのに、あんまりな仕打ちだ。混乱の中でも、信じたい気持ちは冷静な自分によって抑圧されかけている。
「今はとにかく逃げる事に専念しよう。私の姿は見られていないはずだから、うちでなら匿えるはず」
しかし、バルはその暖かい温もりを振り払った。
「巻き込むわけにはいかない。ここからは君一人で帰るんだ」
「……またそれなの? 今更じゃない」
彼女の声音に険が混じる。けれどもバルはあくまで落ち着いて話を進めるつもりだった。
「言い争ってる暇はないんだ。拗ねてないで早く先に逃げてくれ。また明日、公園で会おう」
「それまでどこにいるっていうの! あそこにいる人に顔を見られたんでしょう?」
「……大丈夫さ。見られたのは枢機卿にだけだし、あの人は目撃しただけの俺を殺そうなんてしないはずだよ」
リズが目くじらを立てバルの頬を平手打ちした。小気味の良い音があたりに木霊する。
「目を醒ましなさい。この状況をバルは楽観視しすぎよ」
「…………そんな事……」
ないとは言い切れずどもると、リズは澄んだ瞳に怒りの赤を混ぜて口を開いた。
「貴方の期待を、羨望を、信頼を裏切った彼に何を期待しているの? 慈悲? 誤解だっていう弁明? 何かの間違いだっていう誰かからの言葉? 今の貴方は、絶望に目が濁っているわ。直視すべきものに都合のいい曲解を挟んで、現実逃避をしているだけよ」
図星すぎて胸が苦しくなる。目頭が熱く視界が涙にコーティングされ、世界の輪郭が歪んだ。
「……君らしくもないじゃないか。どんなに酷い事をされたって、君は誰の事でも許してセカンドチャンスに懸けるじゃないか! それなのに、それなのに………。それに、君には関係のない事だよ」
彼女が正しい事はどんな解釈をしようが真実として受け止めるしかない。けれども、裏切られたと認めたくない彼は感情の狭間で苦悶する。彼女はといえば、眉根を寄せて足元を見ていた。
その時、数人の足音が近づいてくるのが聞こえた。
「リズ!」
頷き緊張感を漂わせながら再び駆け出した。
「……俺は」
今度は、バルが彼女の手を引く。
「俺は、君に逃げてほしいだけなんだ、リズ。助かってほしいだけなんだ。……分かってくれないか」
まるで追い詰められた動物が腹を据えたような、落ち着き払った様子だ。その言葉にリズは首を横に振った。
「分かりたくない。私が助かったとして、バルはどうするの? バルが生きてなきゃ意味がないじゃない……。嫌よ、私だけ助かるなんて」
彼女らしくもない弱々しい涙声が必死に抗議してくる。
彼女らしくもない、子供のような駄々をこねてくる。
「死ぬなんて決まったわけじゃない」
「決まってるわよ! あんなところに戻って無事でいられるわけがないでしょ! 馬鹿なの!?」
「……はははっ」
突然笑い出すバルを見てついに気が狂ったのかと心配するが、どうやらそうではないらしい。
「馬鹿なの、か」
傍点を打つように、思い出を噛みしめるように、彼女の言葉を繰り返した。
「あまりにもストレートすぎて笑っちゃったよ。リズにここまで感情的な罵倒をされたのは初めてかもね」
「なっ……罵倒じゃ……!」
「なくないでしょ?」
初めて口喧嘩で勝てたような気がする。走りながら勝ち誇った顔を見せてくるバルに少しの苛立ちを覚えつつも、感情的になってしまった事の理由を照れながらに告げた。
「バルに、死んでほしくない。関係なくなんかないもん」
消え入りそうな主張に耳を傾ける。
「私は、バルの事がずっと、初めて会ったあの日から……」
「……え?」
「す――――」
一世一代のリズの言葉は、刹那の銃声によって遮られた。
「は……?」
バルが握っていたリズの手がするりと抜け落ちる。振り返ると、土の上で彼女は横たわっていた。黒い液体が広がっていくのが見えた。
やっと雲から顔をのぞかせた月明かりが、それが深紅色なのだと教えてくれる。
「リズ……リズ、おいリズッ!」
背後から聖職者服を着た数人の男達が近寄ってきて、リズに触れようとした。
「触るな!!」
それを弾き返しバルはかなりのショックと混乱に顔を引きつらせ体を揺するが、反応はなかった。
「リズ……っ!」
「急所は外せと言ったはずじゃが、不知火よ」
「リチャード枢機卿……?」
彼が、今、何を言ったのかが理解できなかった。
正確には、理解したくなかった。
「やだなぁジイさん。ちゃんと外したよ。よく見ろ撃ったのは腕だ。ちょっと気絶しちまっただけだろうよ」
そんな見解を述べながら現れたのは、東洋系の顔立ちの男だった。
「どうして……どうしてこんな事をッ!!」
「バル、明日は十五の誕生日。悪魔を体の中に移してから五年が経つ。試験というわけじゃ」
「それとこれとなんの関係があるんですか!?」
「目の前で大切な者を失っても正気を保ち、悪魔をコントロールし暴走しないかを見なければならん。それに合格したら、将来食い扶持には困らん組織に身柄を受け渡す予定なのじゃよ」
「試験のためにリズは撃たれて、俺はどこかの組織に売られるって事……?」
絶句した。あまりにも狂っている、と。倫理もクソもヘッタクレもない。
「もう数分で明日が来る。本番はこれからじゃよ。その娘とバルを拘束し連れ帰ろう」
指示に動き出す人々への制止も込めて叫ぶ。
「待ってください枢機卿!! さっきの、教会でのアレはなんだったんですか」
「バルには関係のない事じゃ」
「どうしてリズを撃ったんですか……」
「何度も言うておるじゃろう。明日の試験に必要なのじゃよ」
「…………こっの……人でなし!! 何が聖職者だ枢機卿だ! ただの悪魔じゃないかッ!!」
腹の底から湧き上がるマグマのように熱い何かが、憎しみとなって言葉を形る。
「こら、滅多な事は言うものではないぞ。バル、これは全部お前のためなのじゃからな」
「悪魔に心を乗っ取られたんじゃないの……? そう言ってください、枢機卿……」
「この通り、正気じゃよ」
その目はあまりにも冷たく、凶器のような鋭さもあった。そこでようやく悟る。
――あぁ、この人は、もうだめだ。
話の通じない相手であり、話し合いの余地すらない。こうなったら自力でどうにかするしかなかった。
二人に取り押さえられている間に男が縄を持って近寄ってくる。
「くっ……離せ!」
こんな場面でもバルは冷静さを全て欠いているわけではなかった。手を縛られる時、手を開いている。こうする事で拳を握った時よりも手首が太くなるのだ。なるべく縛られる時も腕と腕の間を空けた。後に自力でも抜け出せるように。
髪を引っ張られて立たされ、腕を縄で繋がれ歩かされていると奴隷になった気分だった。何よりも気がかりなのはリズの事だ。致命傷ではないとはいうが、失血量は少なくはなかったように思う。止血されているのはいいにしろ、不安要素は沢山ある。
考えている内に教会へ着いてしまった。あの少女の行方を目で追うが、床や壁に血が飛び散っているだけだ。
考えられるのは、処理されたという事。この失血量ではもう生きてはいないだろう。申し訳ないが、遺体の在処よりも自分達の心配が先だった。
枢機卿は、リズを殺す気だ。
「…………させるもんか」
誰にも届かないよう呟くが、それには確かな意思があった。守るという思い、枢機卿への怒りや悲しみ、リズへの特別な感情、様々な気持ちが渦巻く中で、できる事は一つだけだった。
「その娘を鎖に繋げ」
そちらに関心が逸れている内に、手の縄を解く。思惑通りにいった。擦れて一部血が滲むが、それに気づけるほど余裕があるわけでもなかった。
「うわあああああッッッ!」
リズに向かって駆け出す。道すがら近くにいた男を殴ると、事態に気付いた黒服の四人が振り返る。
次々に飛びかかられるが、体術も心得ていたバルの前では通用しなかった。
「なんだ。でかい顔する割には弱い奴ばっかだ」
残された枢機卿と片足のみ繋がれたリズに近寄っていく。老人である彼を地に伏す事くらい造作もないはずだった。
「ん、んん……」
「リズ!」
「おい止まれクソガキが。バケモンかよ。この人数の大の大人を一人で片付けちまうなんてよ」
騒ぎにリズが目を覚まし安堵も束の間、どこからか現れた不知火という拳銃を持った男がリズに銃口を向けた。バル本人に銃口を向けたところで、彼は歩みを止めないと不知火は判断からだ。リズを人質にとられては、立ち止まるしかなかった。
「手間取らせんなよ。別にお前の事殺そうってんじゃねぇんだから大人しくしとけや。俺は雇われだしお前に恨みもジイさんに思い入れもねぇ」
「なら、リズを解放しろ」
「一丁前に色気づいて恋愛ごっこか? くだらねぇ」
言うなり彼は彼女の長髪を掴み上げ背後から首筋に銃口を這わせた。バルが怒りに顔を歪め低く唸る。身体の自由を得たところで、これではまるで身動きが取れない。
「バル……」
悲しげな瞳が濡れていく。いくら普段強気なリズでも、こんな場面に出くわして恐怖を感じないはずもなかった。
「俺が、必ず助けるから」
すると彼女は安心したように微笑んだ。不知火は面白くもなさそうに舌打ちをする。
退魔のための技術はあるが、対人となるとその応用も効かない。もしかすると、枢機卿にはこの日のためにそのようなものからわざと遠ざけられていたのかもしれない。
己の無力、馬鹿さ加減にほとほと呆れながらも思考は止めない。彼女を救う術が、必ずあるはずなのだ。
そして見つける。けれどそれは、危険度の高い博打だった。
鎖骨付近に刻まれた魔法陣に触れる。コントロールなんて利くはずもない。リズさえも殺しかねない。それでも、それに賭けるしかなかったのだ。
「おいクソ悪魔。お前にちょっとの間だけこの体やるよ」
『人を殺れるなんて久々だなぁ』
好戦的な彼ならばあの二人を殺せるだけで歓喜するだろう。そしてリズの怪訝そうな表情に笑顔を向けた。
「……リズ、俺達が助かるにはこれしかないんだ」
「何を、する気なの」
「信じられないだろうけど、俺の中には悪魔がいる。でも、俺自身悪魔に心を喰い殺されるかもわからない。だから、もしも俺が暴走したら、その時は……殺してでも止めてくれないかな」
嫌だと叫ばれるかと思った。
畏怖され正気すら疑われるかと思った。
しかし彼女は、やはり、信じる強さを持った少女だった。
「貴方の中の悪魔にだって、バルを殺させるものですか。私に噛み付いたら、まずはお手とお座りから教え込んでやるんだから」
そんな冗談に、バルは、
「うん、よろしく頼むよ」
穏やかな笑顔で頷き、自身に刻まれた魔法陣に爪を突き立てる。
「ッ――――」
そこで、バルの意識は途絶えた。




