No.87「教会の密会」
記憶の中で、リチャード枢機卿を見た。
容疑者が使用していた妖刀に刻まれた星霜の中に、彼がいたのだ。
師としていた彼の犯した大罪が、あの日バルが見た悍ましい光景が、人外へと人間を堕とす方法だった。
それが形を変えて、また蘇ってきた。
報告義務はあった。しかし幻を見たとも限らない。
何故って彼は、リチャード枢機卿は、
「――――もう、死んだはずなのに」
*
それもこれも修行のためだった。
曽祖父の旧友であり悪魔祓いを行う神父の元で、学業と並行し日々退魔についてを学んでいた。
世間一般で知られる神父とは一線を画し、彼、リチャード枢機卿は人外に対し退魔師寄りの性質を持った接し方をする。
アメリカ内外から、他のエクソシストの手に負えなかった悪魔祓いを引き受けていた。それは、いつも緊張感が張り詰める現場になる。
枢機卿の元に来るのは中級から上級の悪魔で、普通の神父がするのと同じように聖書や十字架、聖水ももちろん用いるが、悪魔に向けて剣を振るう事もあった。
緋色の聖職者服と普段の呼び名で偉い人だった事は明白だが、人にはとても丁寧に接し、闇を照らすロウソクのような温かみのある人柄だった。
そのために、まるで父と子の間柄に酷似した関係を、合計で二桁になる年月で築き上げていた。
齢十歳になったバルが父から悪魔の契約を受け継いだ時から、ブラウンだった髪色が拒絶反応によるストレスを受け白くなっていった。
成長により自我がしっかりと出来上がっていく一方で、一つの体の中で二つの魂が反発する。体内に封じた悪魔との共存の仕方も彼に教わった。
リチャード枢機卿は、白髪をからかわれ嫌だと泣いたバルを自身と「お揃いだよ」と慰めた。
彼の髪は老いによるものだが、それでもバルの救いになった。
拒絶する事では上手く関われない。受け入れる事がまず大切なのだと、精神論について多くを習った。なんとか安定した共存という形をとれるようになってから、白髪化は速度を落としていきまだらな髪色になったままおさまりをみせた。
あまり気を許せない生活の中にも、花はあった。
十二歳の頃だ。学校で出会った、隣の席の少女。ブロンドの髪が印象的だった。
名前はエリザベス。
「リズって呼んで!」
そう笑いかけてきたのが最初だ。
初めてできた友達でもあった。
「バル君、いつも分厚い本読んでるよね」
「ああ。勉強しないといけないんだ」
「へえ、勉強熱心なんだね。でも、悪魔の勉強ってなあに?」
「…………まあ、うん」
純粋な好奇心に輝く瞳が眩しい。変な人だと思われ敬遠されがちなのだが、彼女は予想外にも興味を示してきた。
控えめそうでいて、芯が強いのは目で判る。真っ直ぐで揺るぎがない。
「ねえねえ、もしかして悪魔払いさんとかを目指してるのっ?」
彼女が動く度に耳につけた控えめなアメジストのピアスがキラリと光る。
彼女のお気に入りのようで、毎日つけていた。
それから仲良くなるまでに時間はかからなかった。そして三年後、ついに恐る恐る疑問をぶつけてみる事にした。
「どうしてあの日、こんな俺なんかに声をかけてくれたの?」
口やりこそ投げやりだが、虚勢だと判る不安そうなバルの上目遣いに、リズは眉尻を下げて困ったように笑った。溜息すら吐いている。
「随分と謙っちゃって……馬鹿ね。『こんな俺なんか』なんて。バルはもっと自分の事を大切にするべきだと思うわ」
口を尖らせまずはそう前置きをしてから、「そうね」と間を置いて答えてくれる。
「ただの気まぐれ。そしたら案外仲良くなれたの。これも運命ってやつなのかもしれないけれど」
「皆に止められなかったの? あいつと関わるのはやめろ、とかさ」
「さあ。人の意見なんか関係ないわ。私が関わりたいと思ったからそうしただけだもの」
彼女はこういう人間だった。凛々しく気高い、正義感あふれる子だ。
人の中に紛れても、確かに孤高の存在だった。
「貴方は誰かに指図されて交友関係を作るの?」
「どう、だろうな……。少なくとも、いじめられている人に手を差し伸べようとは思えないと思う」
「そう。……まあ、それもいいんじゃないかしら」
非難されると思った。正しさを大切にする彼女なら、こんなバルを許さないで一言くらい反撃してくると思っていた。しかし意外にも、その予想は裏切られる。
「大人の言う、頭の良い生き方だと思う。身の振り方をわかってる」
肯定的な言葉のはずが、斜に構えがちなバルには皮肉にも聞こえた。驚きの表情から一転、眉間にしわを寄せて口をひん曲げる。
その様子にリズはクスクスと笑った。
「……なんで笑ってるの」
「いやぁ、拗ねた子供みたいで可愛いなぁって」
「かっ……!? お、俺は女の子じゃないっ!」
「あら? 私ったら失言しちゃったかしら。うふふふふ」
清い笑顔なのに言葉には邪を感じる。大人びた彼女の冗談に、まだまだ子供なバルは歯が立たなかった。
恋心を抱いている事さえ、本当は見透かされているのではないか。そんな気がかりさも抱えながら、いつも彼女の隣にいた。
授業中はもとより休み時間は談笑し、放課後には門限まで近くの公園で書物を読みふけった。
バルは、勉強として悪魔祓いに関係するものを好んで読んだ。オカルト趣味だと思われないためにも隠すべき事だが、リチャード枢機卿を誇りに思っていた彼は堂々と隠しもせずに読んでいたのだ。
それが周りから浮く原因となりあぶれ者として教室に一人でいたわけだが、今ではリズがいる。
しかし、彼女といても変わらずに放課後はそうしていた。変化といえば、独りから一緒りになった事くらいだ。
それは嬉しかったのだが、やはり彼女の好奇心が悪魔に向くのには難色を示した。
「目の前で読んどいてアレだけどさ」
「どれ?」
「……そこは聞き返すところじゃないよ。どれでもないけどアレなんだよ」
「また関わるのはやめとけって言うんでしょ。ただ知りたいだけだもの。そんなに心配しないで」
彼女は好奇心旺盛だ。日々スリルを求め、常に知識欲が尽きない。その為か勉学に関しても達者だった。
しかしバルも博覧強記で鳴る男だ。根本的な性質は似ているからか、仲違いする事はほとんどなく、大人の対応を見せる彼女が頑固な彼に折れる事で収束する。
「じゃあ帰ろう。もうすぐ五時になる」
「そうね。さようなら、バル」
明日もある事を疑わない別れ際というものは淡白だ。小さく手を振る彼女のスカートが靡き、夕日の逆光が目に眩しく眇めてしまう。どこか懐かしさすら感じる目の前の出来事へ、感傷ついでに明日を憂う。
毎日の学校に彼女はいるが、しかし希望は何もなかった。知りたい事を知れない。どうでも良い事ばかりを、教師は黒板上で繰り広げているだけである。好奇心の所在は全くの別にあり、基礎知識ではない。
よく子供が唱えるような言い訳を、彼もまた復唱し反芻していた。
基礎知識が大切だと枢機卿には習ったが、それは退魔に限った話であると都合良く自己解釈するのもまた子供のエゴだ。手順飛ばしに好奇心をくすぐられる部分のみに手応えを感じる。興味のない事には視線すらくれない。そんな未熟さが彼を学校嫌いにさせていた。
「さようなら、リズ……」
彼女の背中に脱力した掌を振った。寂しさだけが名残惜しく彼の空間を満たしていた。さてと、と膝に手をつき立ち上がると、重たく分厚い本を片手に教会を目指した。
――そういえば最近、教会に出入りしてる黒ずくめの人達は一体誰なんだろう。
ふとそんな疑問が浮上した。彼らが出入りするようになってからというもの、枢機卿の様子が変なのだ。
以前尋ねた時はお茶を濁された。いつもならサラリと答えてくれるような事なのだが、直感的に良くない関係ではないかと勘繰ってしまう。
ナンセンスな推量はよそうと思考を落ち着けるが、どうもやはり引っかかる。喉に刺さった魚の小骨のような、小さいけれど確かな不快感があった。
深入りが良くない事くらい分かっているが、気になりだしたら止まらない。今日も恐らく来るはずだ、と張り込む事にした。バルが二階の自室で勉強しているだろうと思っている時間帯ならば、誰の目に触れる事もなく容易く教会まで辿り着けそうだ。そう高を括って時を待つ。
時計が夜八時を指す。密会をするにはまだ少し早いような時間帯だが、窓の目の前に構えられた勉強机から、少し離れた教会へと人影が群れをなして入っていくのが見えた。予想通りというわけだ。
バルは嬉々として椅子から立ち上がる。ガタッと音が鳴り飛び上がるが、気を引き締め直しシャツの襟を直した。
「浮かれて見つかったら最悪だ」
見上げた月が雲に隠れ、辺りをほのかに照らしていた淡い明かりも消え去った。星の囁きも息を潜めるような分厚い雲に覆われる。闇に紛れるにはちょうどいいなと建物の陰に隠れながら、肌寒い外気にさらされ進んでいく。
教会の窓の傍に身をピタリとくっつけ、気合いを入れるように静かに呼気を吐き出す。そっと覗き込むと、枢機卿を中心に魔法陣の上で円を描き十数人が立っていた。
人垣の隙間からその模様が確認できる。知っているものと一致するものがない、初めて見るものだった。
――人外召喚と憑依定着陣をごっちゃにしたみたいな陣だな。いや、全部上下逆さに描かれている? 文字自体も左右反対だ。なんだあれ……?
解らない事だらけで眉を顰める。しばらく睨んで思考の海に溺れていると、その魔法円の中心に子供がいる事に気がついた。首から血を流しながらガタガタと震えている。
「な、にやっているんだ……?」
にわかには信じられない光景に声がつっかえた。大の大人達が寄ってたかって魔法円の中央に負傷した子供を閉じ込め、ブツブツと呪文を唱えている。これではまるで黒魔術の儀式を見ているようだった。
「何をする気なんだ……?」
このままでは、人外が魔法陣内へ召喚されてしまう。枢機卿をはじめとした大人達は光り始めた円内から退くが、子供は取り残されたままで泣き叫んでいる。心理的な威圧を与えたとしても、何故逃げないのかと疑問に思い窓に張り付いた。
そして知る。
小さな少女の手足には枷がはめられ、床に打ち付けられた鎖で繋がれていたのだ。
あまりにも悍ましい光景に後ずさる。気づかれでもしたら、自分も無事で済むかはわからない。奥歯がガタガタと鳴り、足が笑っている。背筋に冷気が流れ込み身震いした。
「なんだよ、なんなんだよこれっ……!」
逃げようにも足が微動だにしない。ただただ唖然とガラス越しに起きている凄惨な現場を見ていた。
床に刻まれた円や線、文字が光を増し中央に集まっていく。光の柱ができ、中心にいた子供を飲み込み断末魔を響かせた。耳を塞ぎたくなるような悲痛な叫びに、バルは顔を歪め涙を浮かべる。誰に聞かずとも、これが禁忌とされているであろう事を直感で感じた。
「こんな惨いこと……」
激しく窓を震わせ、柱状だった光が教会外へ飛び出してくる。閃光に目潰しをくらいしばらく視界がハッキリとしなかったが、中で動く気配を感じ取れるようになったあたりでようやく正常な視力を取り戻す。
大人達が魔法陣の近くに尻餅をついており、魔法陣内が見えやすかった。
その、異質な造りものの存在が、浮き彫りになる。
重い金属の音を引きずりながら、それは立ち上がった。少女の背中の服が破れ、黒く大きな羽が生えている。
それに目を取られていると、敏感に気配を察したそれがおもむろに振り返ってきた。
自分よりも小さいはずの少女が、酷く恐ろしい化け物のように思える。
「ひっ……!」
ジャラリ、ジャラリ、と鎖を揺らし、カツリ、カツリ、と鋭く伸びた黒い足の爪を鳴らし窓に近づいてきた。
現在進行形で両の白目が黒く侵食されていっている。
人外に憑かれた程度ならば、外見に変化は出ない。憑依されその人外に肉体や精神を蝕まれていくと、段階を踏んで人外の要素が外見に反映されていく。
つまりこれは、人外に堕ちる過程にある。
興味がこちらに向いている。一刻も早く逃げ出さなければならないのに、体は言う事を聞かない。もたもたしている内に枢機卿が立ち上がる。少女の歩く方向に視線を向けると、その先にはバルがいた。
「何故……!」
険しい顔でバルを見る。たじろぎやっと半歩足が引いた。その時、突然手を引っ張られ走り出す。誰だろうと前方を見やると、ちょうど声をかけてきた。
「貴方の忠告を無視する形になっちゃったわね」
建物の陰からようやく抜け出し、ほのかな微光で声の主を見る。
「リズ……! どうしてここに!?」
優しい微笑みが、こちらを向いた。




