No.86「本音と本当、無音と音声」
仕事を終え、ティアとバルは肩を並べて基地の廊下を歩いていた。
「仕事とはいえ、正直言うと人に対して力を使うのは気が滅入るね」
「お、俺もそう思うよ。下手すれば人間関係が崩れかねないような能力だし、さ……」
バルは今朝の事を思い出し、ドキリとした。勝手に心を読まれ良い気持ちになる人はいないだろう。むしろ軽蔑され、嫌悪され、そして信頼を失くす。
プライベートな感情ほど無言にしまわれがちだからこそ、尚更隠しておきたいところである。デリケートな事だ。
「俺は安易に人に使わないって自分に誓ってるんだ。当たり前にしてはいけないものっていうのが、これなんだと思うからね。皆が持たないものには、皆が持たない意味があると思う。それを考えるべきさ」
戒めるように、自分に言い聞かせるようにゆっくりと言った。ティアは笑顔で頷いてから半拍置き、真剣な眼差しを彼に向ける。
「ところで、バルは蒼占さんに嘘……ついた?」
首を傾げる彼女には幼さがあるが、対照的に瞳は他人の内側を覗き込むようなところがある。
そう思うのは、やましさからの被害妄想だろう。
「どうしてそんな事を訊くんだい」
「勘、かな。根拠はないの。ごめんね、疑うような事を聞いて」
「ううん、大丈夫。俺は何も隠してないよ」
「そっか!」
彼女は深入りをしない。尊重してくれる。それに甘えながら、軽く別れの挨拶を交わす。
バルは基地の訓練室に向かう。悶々とした気分の時は決まって晴れるまで訓練に打ち込む。
しかし回数を重ねてもなかなか上達しなければ、時間が経つほど集中力が薄れていく。
汗が滴り落ちていくだけ不快感が強くなる。
「クソッ! ……どうなってるんだよ、全く」
的から外れた弾丸の数を数えてから個室を出た。すると向かってきたのは夜斗だ。
今朝を感じながらも相変わらず目を合わせられずに、すれ違う――
「アイサツも無しかよ」
――――はずだった。
一番会いたくなかった。
一番話しかけてほしくなかった。
そんな彼に喧嘩腰の口調が上乗せされ、いきなり腹の辺りでグツグツと感情が沸き上がるのを感じた。
「挨拶? ……する義理が俺にあるか?」
「なんだよ、その言い草」
「別に?」
自分自身を刺すような笑顔を目の当たりにし、夜斗は悲劇に酔っているバルを哀れな目で見た。
「お前、なんだよそのザマは」
横面を張り倒すような、力のある言葉だった。暴力的だとも感じるほどの、決して触れてほしくない膿んだ傷口に触れられた気分だ。
「夜斗こそ暇を持て余しているようだな。最近ティアとはどうだ?」
「どうって、なんも変わっちゃいねぇよ」
「そうか。ならよかったな? 彼女は俺を頼ってきたから、てっきりお前らを当てにならないって判断して、見切ったのかと思っていたよ」
険を含む言葉に夜斗の眉がぴくついた。全くいわれのない事だ。
バルも分かっていた。彼女が自分を頼りにしたのは能力ありきだと、しっかりと自覚していた。
けれども、今は自分よりも惨めな奴を罵倒したい気分だったのだ。そうでもしないと、自尊心が瓦解し離散してしまいそうだった。
「いいよね、お気楽でさ。能力に悩む事なんて今までなかったんだろう? 大して強くもないくせに、努力ば強さが手に入るとでも思ってるのか? あまりにも短絡的な馬鹿だよ君は」
精神の安定の為、他人を貶める自分が醜い。
「…………能力持ちの奴の気持ちは同族にしか解らないって?」
夜斗は「ハッ」と嗤う。
「それなのにお前は、一番解ってやれるはずのお前は、勝手にあいつの心ん中見ようとしたのか」
夜斗の眉間には深くシワが刻まれている。歪んだ眉と侮蔑の念が込められた瞳が心に刺さる。冷たさと突き放すような鋭さが混沌とした表情に、バルは逃れるように彼の横を通り過ぎる。肩を半ばわざとぶつけるが、彼は怒らなかった。
「お前、少し余裕ないんじゃないか」
代わりに背中に向けられた言葉は、気遣いにしてもあまりにも情けない、今はただの侮辱文句にしか聞こえないようなものだ。
背後で出てきた扉が閉まる音が聞こえてから、近くの壁を蹴った。
「余裕ないんじゃないか、だと……?」
奥歯をギリギリと嚙みしめると、噛み砕いてしまうのではないかという懸念が生まれ静かに深呼吸をした。
壁に八つ当たりした事で怒りもだいぶ落ち着き、訓練室を出る。
基地にある実子隊の部屋に向かおうとする途中、再度彼女の背中を見つけた。
「ティア……」
彼女は何かに悩んでいる。
純粋に、愛おしいから触れたいという気持ちもあった。
しかし、何も知らないふりをして核心をつき、一番の理解者として信頼され親しくなりたいという、彼女の隣にいる事を許されるような関係になりたいという、下心もあった。
夜斗には負けたくない、というすこぶる不純な理由も混ぜ込んである。
その時、悪魔が甘言いた。
視ちゃえばいいじゃん。
気づかれないよう気配を消して近づく。
あと数ミリ。指先に体温が伝わってくるようだ。
『 』
けれど、彼女には触れられなかった。
いや、彼女は自分の腕の中にいる。
なのに、何も流れ込んでこなかったのだ。
「――――バル?」
澄んだ声が眼下から聞こえてきた。
能力なんて使わずとも、手に取るように分かった。
瞳には驚きと戸惑いが、不安そうに少し開いた口元が、疑心をまとった雰囲気全てが、警戒心を孕んでいく。
「い、いや……ごめん」
「う、うん」
ティアに回した手をほどく。
彼女の表情はどこか苦しそうで、言葉を模索していた。けれども上手いようには出てこないらしい。つっかえ、まごまごとした様子だった。
そして、一つ息を吸い込む。
「今日の言葉は、嘘だったの? 安易に人に使わないって自分に誓ってるんだ、って」
――ああ、俺は、
「慎重に使うべき能力だって事に同意してくれたのも」
――――なんて酷い事をしたんだ……。
ドッと、そんな後悔が押し寄せる。不安定な心が悪魔の言葉を受け負けてしまった。
「…………俺は……俺はッ……」
不甲斐なさに心が折れそうだ。
今まで造ってきた土台が、今まで保ってきた均衡が、全て崩れ去る音がした。
*
――去年の六月、俺は、君と出会った。
「ティア・ルルーシェ。高一です」
仮編成の二隊が初めて顔合わせをし、同じ任務に就いた日の事だ。
「よろしくお願いします」
同い年の彼女は特異な性質を持つ組織の中でも、一際目立って異質に見えた。
容姿の端麗さだけではない。瞳に込められた芯の強さだって人一倍だったが、まとう雰囲気も放たれるオーラも、その手の人から見れば一目瞭然。
精神界側に近い、人間としては酷く不安定な存在に思えた。それはまるで、浮世離れしているような。
「ティアって呼んでいいかな。俺の事も、バルって呼んでほしい」
すると彼女は驚いたような顔をし、
「うん、」
その要求を受け入れ、バルに向けて笑顔を浮かべた。
それは、どれも既視感を伴った。
最近負ったばかりの、傷というにはあまりにも大きすぎるモノを負った出来事の中枢にある人物を、彼女に重ねていたのだろう。
「――分かった」
なんの事はない、初めて交わした二人の会話がそれだった。
彼女の人柄を体現したかのような優しく穏やかな表情に、心を癒されたのを深く記憶している。
なんだかよく解らない、確かさと儚さの上を綱渡りするような気配を隣に感じながら、精神界と物質界とを繋げる次元の歪の場所を探していた。
「人数が多くって、誰が誰だか名前と顔が一致しないなぁ。俺は日本人の名前にあまり親しみがなくて、まだまだ覚えづらく感じるよ」
生まれはイギリス、六歳で日本へ、そして一年も経たない内に渡米し、つい一月前まではアメリカにいた。日本には一年と少しの滞在時間しかまだ有していなかったのだ。
「ティアは?」
「私はなんとなくだけど、覚えられた……かな?」
「へえ、すごいなぁ」
二人組になってからのアイドリングトークを終え、次にバルの意識が向いたのは特別な能力についてだった。それに気づけたのは悪魔の声があったからだ。
『こいつ、過去を視れるらしいな』
嬉々として興味を示したそいつは、心を血だらけにされたバルの中である程度の自由を得ていた。癒えない傷を心に抱えていると、どうしても悪魔に負けるらしい。
制御しようとしても、体こそ乗っ取られはしないが発言権くらいは与えてしまうらしい。
――うるさいな。
『お前の精神力の甘さだろ。八つ当たるなよ』
事実を言われ返す言葉もなかった。
けれど彼女に興味を抱いていたところに、更に理解者となってくれる可能性を見出しバルも正直気になっていた。
――訊いてもいいのだろうか、彼女に。
記憶を物から読み取れる事で生じる弊害を身を以て知ってきた。彼女だってきっとそうなのだ。
人に理解されない苦しみを、抱えているはずだから。
だからこそ、通じ合えたりするのかも。そう思い悩みながら迷っていると、彼女の方から声がかかった。
「どうかした?」
驚いた。考えている素振りなんて見せなかったのに、それでも気づけるらしい。
「……うん、じゃあ率直に訊くよ」
空気を敏感に察知できるのは、能力故か性格的なものなのか、能力が全く関わっていないわけではないだろうと考察する。
「ティアって、制御装置なんかなくても元から人外が視えているんでしょ?」
ティアは顔色を変えずに耳を傾ける。
「それ以外にも、特別なものを持っているよね」
「あはは、何の事かな」
やっとバルをあくまで自然に見やると、無機質な笑顔でそう返した。まるで鉄壁な仮面だ。隙のない、笑顔の条件を満たしただけの表情。
「誤魔化す必要は無いよ。実は……俺もそうなんだ」
それを受け、初めて彼女は本物の瞳を覗かせた。とても澄んだ、しかし底の見えないような水面を、じっと見つめている気分だった。
「どうして分かったの?」
「勘っていうのかな。そういうやつだよ」
「……何か、隠しているみたいだね」
口ぶりでバレてしまった。彼女は本当に勘が良いらしい。というよりも、人をよく見ている。
悪魔が指摘してこない事から能力を使用しているわけではないらしい。
察しの良さは能力ありきの代物ではないようだ。
「その隠している事は、君ならいとも簡単に知る事ができるんじゃないのかな」
「それは、暴力で無理矢理吐かせるのと同じ行為だと思う」
まっすぐ見据えて正論をぶつけてくる。
正しさは、時に敵意にも感じられる。
「だから、私はしない」
彼女の顔には真剣さが滲んでいる。
それにはバルも納得だった。イタズラ以外で読み取る事はあまりしない。それは現在まで培ってきた経験により抑制された結果だ。
「プライベートを、心の中を、土足で踏み荒らすのは俺も良くないと思う」
同意を得て彼女は複雑そうに頷いた。次に質問されたのはバルだった。
「まあ、たまに流れ込んできてしまう事はあるけど……。それがどうしたの?」
「この任務に活かせるんじゃないかなと思ってね。俺は物から過去を読み取れるから」
「私はまだ皆にバラしたくないかなって思ってる。だから、ごめん。自分の能力についてはノータッチでいきたいなって」
「どうして隠したいの?」
「今まで言わなかったのは、別に言う必要もないかなって思ってたから。でも、まだ少しの期間だけど一緒に過ごしいて、言おうとすると躊躇いを感じる。……アルは知っているけれどね」
「拒絶される事が怖いとか?」
「この環境柄、拒絶される事は少ないと思う。けれどどうかな。知られないでいる方が、都合がいい時が来るかもしれない。最後の切り札みたいにとっておけたらいいかな」
「それは叶うかな?」
「あはは、望みは薄いだろうなぁ。すぐ必要になる時が来るんじゃないかって予想してる。切り札にもならないくらいに」
「すぐって、いつだと予想してるの?」
テンポよく続いた会話がポツリと途切れた。それはとても意味深で、次に彼女が口を開いた時は、不都合な部分に触れられる確信を得た。
「バルは質問ばかりだね。どうして?」
「それは……」
口籠るのはもっともだ。ここで素直に違う人と重ね合わせていると言えば、彼女に不快な思いをさせるだろう。
けれど嘘をつく事も、きっと彼女を傷つける事になる。
ならば。
『本音』と「本当」を『無音』と「音声」に乗せて。
「都合の良い事実」だけを「『嘘』」にならない程度で口にすればいい。
バルは、そう思った。
せめての誠実を真っ直ぐな瞳に乗せて見つめ合う。
――彼女の面影がある、
「君の事が、知りたくて」
彼女は正しい。けれど、それ以上に優しかった。
「……私は、私でしかないんだよ」
こんな彼を、責めずに、悲しまずに、はね退けた。
後頭部を殴られたような衝撃と、鉛が手足に血液として流れているような感覚に襲われる。重苦しさを体全体に感じながらも、彼女は自分を犠牲に現実を見させてくれた。
「……ああ、わかってる」
血だらけの心にまた血液が流れ出す。
弱い自分への嫌悪、そして諦めの悪さに心底呆れ果てた。
自分が見ている彼女はもう死んでいるのに、割り切ったはずだったのに、それを信じたくないと心のどこかで思っていた。
その結果、ティアを自分の傲慢の餌食にしたのだ。
頰を情けなさが伝っていく。それを止めてくれたのは、ティアだった。涙をハンカチで拭ってくれたのだ。
「お花を手向ける相手は、私じゃないよ」
「うん…………」
「貴方の拠り所とする場所も、きっと私じゃない」
「うん、うん……」
「でも、分かっているのに代わりを求めてしまう事で、自分を責める必要はないと思う。だから、」
優しさは時に凶器だ。
――だって、
「どうか自分を責めないで」
――――こんなにも涙が止まらないんだ。
喉の奥が苦しくて苦しくて仕方がない中で、自分の中の悪魔へそう呟く。
けれど、一向に返事はない。今まで散々うるさかった声が、静寂に変わっていた。
そこでやっと悟った。拘束力が強まったのだ。心が以前よりも回復したと言える。
正してくれるだけでよかったのだろう。
優しい言葉をかけてくれるだけでよかったのだろう。
自分を見てくれるだけでよかったのだろう。
なんて単純なんだと自分を嘲る。
馬鹿で大馬鹿者のそんな自分の、一周回ったどうしようもなさが愛らしくも思えた。
「何か心の整理がつかない事があるんだと思う。貴方の心を揺るがす出来事に襲われたんだと思う。でも、そんな時こそ、目の前だけを見ていこう」
手を差し伸べてくれる。
「振り返らなきゃいけない時っていうのは必ずあるはずだから、その日までは、前を向いて歩いていこう」
小さく、線の細い、華奢な手だ。
けれどそれが、どれだけ心強かった事か。
「……うん、ありがとう」
握ると包み込んでくれた。この温度が、この力加減が、彼女の人柄そのものだ。
*
――俺は、それから信念を胸に正退魔師を目指した。いつかあるその遣る瀬無さや怒りと対峙する日まで、俺は、待ち続けたんだ。




